過越の祭からシャヴオート(ペンテコステ)の時期 穂を数える7週間 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

今日のシャバットは、オメル(穂)を数える日の第9日目です。

 

סְפִירַת הָעוֹמֶר セフィラット ハオメルとは、初穂=復活の命

実際に穂が育つ様子を数えながら新しく創造された人を生きる

期間の事です。

 

この期間は何でしょうか?過越の祭りから、春の最後の次の祭り

都上りの祭り=シャヴオート=ペンテコステまでの期間なのです。7日間の種無しパンを祝い、7週間、7回のシャバットを通してシャヴオートを迎える。全部7。完了を表す7に注目。

神は意図して神の祭りのデザインをしている事に気が付くのです。週の最後の日、第七日目がシャバット、止まる日です。

 

神の言葉は昇天以降破棄され、終わった、今はメシアに繋がる人は、律法の下にいない=神の教えの下にいない自由が与えられていると言う神の言葉を誤解し解釈をしていれば、神の言葉に忠実に生きる事は、束縛、窮屈、古い生き方神が神の教えを生きる事に留まるな!と言っていると勘違いしているので、あたかも神の言葉に忠実に生きる事は、古い教え、無用になった悪い教えに戻る!恵みを捨てる悪徳だ!などととんでもない勘違いを神の言葉に対してしているのです。

 

律法の下に居ないとパウロが説明しているのは、トラー=神の教えに記されている呪い、有罪判決に処せられる、責めの下にはいないと言う意味です。

イエシュアの血で贖い出され罪注がれ新しくされ、マッツア=要らないものがそぎ落とされた状態に信仰によりそれを受け取った人=復活の命=初穂=イエシュアを通して父の元に繋がれた人は、神の責めの下には居ないと言う意味です。

 

でも引き続き以前と何も変わらないまま、罪、ズレの中に

留まり生き続けるなら、それは刈り取る結末が必ずあるのです。神の意図とはずれた生き方は、自分を他者を破壊し続けて行くからです。命を生み出さない、神の似姿を反映しない生き方だからです。

塩が塩気を失ったら何の役に立つでしょう?と言う事です。

名ばかりで、名前を反映する実態を生きないなら意味はない。

この違いが理解出来れば、パウロが説明している意味がはっきりと理解出来るはずです。

 

神の教えの下に留まり生きない人は、別の教えにさらされ騙される危険ゾーンに飛び出し、悪霊やこの世の様々な教えに影響汚染されても気が付かないままになるのです。

神の言葉は人を守る安全帯であり、それを捨てよ!と言う教えはサタンから出たものである!とはっきり自覚する人達は安全に守られることが聖書には書かれているのです。

神が神の教え=トラーをしっかり握って生きよ!と言いながら、

昇天以降は神の教えを捨てよ!などと言うならば、それは聖書に記されているイスラエルの神とは別の神であり、聖書に記されている教えとは異なる別の宗教の教えなのです。

 

イエシュアが初穂の時に昇天されてから、そして弟子達に現れて

使徒2章のエルサレムでのシャヴオートを迎える迄の期間が今の時期です。レビ記23:9−21 申命記16:9−12

過越、種無しパン、初穂、穂を数える7週=49日間を過ごして

春の最後の祭りを迎えると言う神のデザインがあるのです。

神ご自信が人に福音=イエシュアの業、新しく創造された人達が

神の暦の中で日々生きる命のサイクルのプラン、スケジュールを

与えてくださっているのです。

 

神の教えのどこかだけを取り出して、ある事柄だけを強調して

教え生きると言うのは神の教えのデザインではないのです。

神の教えは丸ごと全部で完全版、シャローム=欠けの無い完全なものであり、神が人に伝えている重要な永遠不変の教えなのです。

今日のトラー朗読の箇所は、レビ記9:1ー11:47でした。

この中にはたくさんの重要なレッスンが記されています。

 

”神の声を聞く”と聖書に神の言葉でそう書いてありますが、耳に聞こえる肉声ではないです。しかも、ヘブライ語で記されている言葉は、神の声の下で神の声の中で神の声を聞くならばと書いてあります。

 

今神の言葉を神の肉声で直接人々は聞いているのではありませんが、神の声を直接神から聞いて神の言葉を書き記したのはモーセや預言者です。

預言者達が聞いたその神の声、言葉を私達はそれらを文字にされて、それを通して、同じ神の声=言葉、メッセージを聞いている!と言う永遠の事実に注目して考えてみます。

神が語られた言葉は終了した!などと言う教えは、神が伝える事実ではない事を聖書の中から一人一人が発見しないとならないのです。それは、人の教えで神の言葉がこんなにも格下げされ、

軽くあしらわれ、今は神の言葉を学ぶ必要も生きる必要もない

などと教えた人々の教えを聞き続けているからです。

それらは誰ですか?初代西洋教父達、マルキオン、オーガステインやクリソストム、多くの異邦人はその様に教えてきました。

そしてダービーも、神の言葉は生きる必要はないと教えて、彼は

デイスペンセーション神学と言う非聖書的神学教理を編み出したのです。この神学は異邦人クリスチャン思考回路に多大な影響を

与えてしまっています。

 

でも注意深く聖書を読む人達は、翻訳でも聖書は最初から最後まで一貫して同じ事を語っている事に気が付くはずです。

神の言葉は人間が考える様に歴史の途中で変化しないからです。

そして、福音書以降、特にパウロの書簡を誤解して読んでいるのは、パウロの書いている内容を正しく把握していない異邦人達の

注解書、解説ばかりを聞いているからです。パウロはモーセの五書の一点一画どの箇所も、否定する教えや、モーセの五書とは違う違う教えをしてなどいない!と言う大前提からパウロの書簡を読み直さないとならないのです。

 

ヘブル1:1神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちでまた多くのしかたで先祖に語られたが、 2この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。 3御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられます

 

預言者達を通して教えられた事、そして多くの方法で先祖に語られたとあります。文字で記されたトラーが与えられる前は、神は

様々な事を通して口頭で同じ神の教え=トラーを伝えました。

そして文字になった神の言葉が与えられ、そして神の言葉に記された通りのイエシュアが地上に来られ神の伝えた言葉が事実で

ある事を証明されたとあります。

 

今日の朗読箇所は、レビ記9〜11章ですが、その中に重要な事が書かれています。神の臨在が住まう場所が完成し、これから

ミシュカンが神の臨在が下り作動すると言う事が始まる箇所です。

神の言われた通り、モーシェがシナイ山=天の領域で見せられた

通り、そっくりそのままのものを地上に作りなさいと言われました。そっくりそのまま〜違うものを作れば天の神の家そのままを

表し反映する地上の影=レプリカは現れ出ないからです。

 

神の言う通り!これが重要なポイントです。エデンの園の大参事

人類を死に導いた原因は、神が言われた通りをしない選択をした事!これが最も重要なポイントなのです。

 

地上での神のミシュカン〜移動式神殿が完成し稼動する時の事が

記されています。

 

レビ記9:22アロンは手を上げて民を祝福した。彼が贖罪の献げ物、焼き尽くす献げ物、和解の献げ物をささげ終えて、壇を下りると、 23モーセとアロンは臨在の幕屋に入った。彼らが出て来て民を祝福すると、主の栄光が民全員に現れた。 24そのとき主の御前から炎が出て、祭壇の上の焼き尽くす献げ物と脂肪とをなめ尽くした。これを見た民全員は喜びの声をあげ、ひれ伏した。

 

レビ記を読む前提を絶対にずらしてはならない点があります。

クリスチャンの世界では、レビ記はメシアが来られるまでの仮の

生贄、罪の赦しのために動物を捧げていたのだ、だからメシアが

来たらそれらは不要になったのであると解説していますが、それは神の語る事実とは全く異なります。

最初から動物の血は”罪を消さない!”と言う事実が書かれているのです。もちろん仮の罪の赦しでもないのです。

 

それだったらカトリックが作った免罪符の教えと全く同じ事に

なってしまいます。免罪符買えば罪許されます。動物捧げて屠れば仮に罪が許されます。同じです。動物の血も免罪符も人の罪を

消せない!!!と言う事実がはっきりと聖書には記されているのです。だから、神殿の中で行われた一連の儀式は、イエシュアが

永遠の中に完了されている業、地上で実際にこれから証明される

処刑と復活の意味を、神の家の中で教えていたのです。

目的が違うのです。

 

人の罪が許される唯一の方法は永遠から永遠のイエシュアの流された贖いの血=子羊の血のみ!この事実は永遠の中から存在し

それが地上で証明される前も後もどの時代の人でも同じ赦しが

与えられていたのです。

どうやってそれが分かるのか?それはモーセの五書に、預言書に

諸書の至るところに記されているのです。

そしてそれらの事実を預言者達、アヴラハムの様に神から直接

聞いた人達が周りに伝え、イスラエルから世界に散った残りの民

達も他の人達に同じ様に同じ福音を伝えたのです。

 

神は人が居なくて、どんな形でも人にアプローチは可能です。神が聖別された人達に神は助けの手を必ず伸ばして与えたのです。

 

そのトピックはさておき、レビ記の中に記されている様々な儀式

コバーン(コバノート複数)生贄などと訳されていますが、

ヘブライ語では”引き寄せる、近づく”と言う意味の言葉です。

これはら最初から人の罪を消す仮の手立てではありません。

しかも、エルサレムの神殿に歩いて出向いてそれらをする事が出来た人はごく少数の限られた人達です。極少数の人達だけが与えられる罪の赦し?その教え変ですよね。

 

ミシュカンが稼動する時に大惨事が起きました。

地上の祭司制度は、レビ族だけが祭司になる事が出来ると言う

神が決めた規定があります。そして、地上の大祭司はレビ族で

ありかつアロンの家系の男子のみが大祭司になる事が出来ます。

 

そして並行して天の大祭司はメルキゼデクに属するもの、イエシュアが大祭司です。イエシュアはユダ族であり地上の大祭司を

表す位ではありません。この内容はきちんと学べば色々な事が

理解出来ます。ヘブル書を誤解する理由は、不適切な翻訳と、

そしてヘブル書に記されている内容は、神の教え=トラーが終わったなどと言う話ではなく、天の大祭司のシステムと地上の祭司

システムとは異なる事を話しているのです。

地上の祭司システムは、天の祭司システムを反映する影の役割であり、その大元は天の祭司=大祭司=イエシュアなのです。

 

さて、地上の祭司、レビ族、そしてアロンの家系の大祭司である

息子達は地上でのミシュカンが稼動する時に何をしてしまったのでしょう?

 

 

続く