神の言葉は最初から最後まで一貫して同じ事を語っています。
同じ1つの福音、同じ1つの贖い救い=イエシュア、そして同じ
1つの神の教え=トラーこれが聖書の土台です。
神の言葉は異邦人が解説する様に、歴史の途中で変化などしていません。神の言葉=聖書を人の教え=神学や教理と言う色眼鏡で
変化させて読んでいるから、神の言葉は変化したと聖書に記されている事実とは異なる事、変化する神、変化する神の教えと言うまやかしを信じ込んでいるのです。これが本当の問題の根、神の言葉を誤解し人に伝えている大問題の根です。
アダムとハワがエデンの園で騙された理由は、”神の言葉を曲げ
変えて伝えたあの動物の声”を聞いて、神が言われた事を退けた
事です。この世界に起きている全ての問題は神の言葉を無視し軽んじ捨てる事なのです。預言書、イスラエルが辿った様々なズレ同じ問題が諸書の中に記されています。
聖書に記されている事実は、同じ1つのカハール=神の声に呼び出され応答した人達の群れ=イスラエルの神の大家族は1つしか存在しない事です。
人種ごとに2つのグループ、ユダヤ人と教会=異邦人と言う2つの家族などは、聖書に記された事実ではありません。
同じ1つの神の家族、オリーブの木に繋がる自然の木の枝=
イスラエルと、オリーブの木=イエシュアに接ぎ木された異邦人、同じ1つの木、枝になるのです。
ローマ11:16麦の初穂が聖なるものであれば、練り粉全体もそうであり、根が聖なるものであれば、枝もそうです。
17しかし、ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなた〜異邦人達が、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになったからといって、
18折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。
19すると、あなたは、「枝が折り取られたのは、わたしが接ぎ木されるためだった」と言うでしょう。
20そのとおりです。ユダヤ人は、不信仰のために折り取られましたが、あなたは信仰によって立っています。
思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい。
21神は、自然に生えた枝を容赦されなかったとすれば、恐らくあなたをも容赦されないでしょう。
22だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。
もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう。
23彼らも、不信仰にとどまらないならば、接ぎ木されるでしょう。神は、彼らを再び接ぎ木することがおできになるのです。
24もしあなたが、もともと野生であるオリーブの木から切り取られ、元の性質に反して、栽培されているオリーブの木に接ぎ木されたとすれば、まして、元からこのオリーブの木に付いていた枝=ユダヤ人は、どれほどたやすく元の木に接ぎ木されることでしょう。
そして、イスラエルの羊の囲い、一人の本物の羊飼いに導かれる
その羊の囲いに異邦人も加えられると説明されている通りが聖書の語る真実です。2つ分裂したグループがあると言う思想を語るのはイスラエルの神が伝えている事実とは全く異なる思想、教えである事は聖書に基づけば答えはクリアー明確不変!です。
聖書とは違う思想を語り続けるから、何が人の教えで、何が神の言葉なのか区別が付かないのです。偽物札ばかり見続けるから、何が本物なのか見分けられない。又は半分偽物半分本物の様なミックス=混ぜ物を見続けても同じく、本物が何か識別出来なくなってしまうのです。
ヨハネ10:14わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。
15それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。
16わたしには、この囲いに入っていないほかの羊=異邦人もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を
聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。
イエシュアも贖われた人達は”1つの群れ”になる!と伝えているのに、どうして異邦人クリスチャンの世界は、ユダヤ人と異邦人=教会などと解説し続けているのでしょうか?
聖書とは違う教えを土台に様々な聖書箇所が注解され語られていますが、多くの解説は聖書とは何の関係もない教えが講壇から語られ続けているのです。
そしてイエシュアが語る”私の声”を聞き分けるとはどう言う意味
でしょうか?イエシュアの肉声が私たちの耳元に語られてその肉声を私達は聞くのでしょうか?そうではありませんよね。
イエシュアは、トラー、預言書、諸書に記されていると、エマオの途上で弟子達に再確認させた、それは全て父の言葉なのです。
イエシュアの語っている言葉は、タナック=トラー、預言書、
諸書に記されている父の教えなのです。
タナックにイエシュアが記されている!と言う事を弟子達に再確認し教えた事がルカに記されています。
ルカ24:25そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、 26メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」 27そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを
説明された。
聖書全体とは、モーセの五書、預言書、諸書のみです!聖書に
聖書はと記されていたら、それらは100%モーセの五書、預言書、諸書のみを指して語っているのです。
福音書以降が聖書であると認められたのは5世紀に入ってから。
だから、聖書に聖書と記されているのは、タナックのみであり
聖書に登場する人達は、タナックのみが存在していたと言う事実
だけから考えれば見えます。
そして福音書以降に記されている内容は、100%モーセの五書預言書、諸書に記された事の短い解説なのです。
ヨハネ12:49なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、
語るべきことをお命じになったからである。
50父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。
だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。」
14: 23イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。
24わたしを愛さない者は、わたしの言葉=父の教え=トラーを守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。
福音書以降にトラー=モーセの五書の教えしか記されていない事を知るには、トラーをヘブライ語聖書に書かれている通りに、
学べば見えます。だから教える人達は正しく聖書を学び続ける
責任、義務を負っている事に自ずから気が付くと思います。
神の言葉を破棄し捨てたら、何を持って神の言う言葉を理解し、偽物と本物を見分け、識別する事が出来るのでしょう?
当然の事が当然として伝わらなくなっているのです。
学校で教育機関で教える人が教えるその専門分野の内容を余り深く知らないと言うならそれは学ぶ側では受け入れられない事であり、あり得ない事であるのは当然の常識と誰でもが理解しているでしょう。世間一般で常識であることが信仰の世界ではおざなりにされているのです。
信仰の世界に関しては、聖書に根拠が無い誰かの思想や考えや編み出した伝統で語り継がれている教えを伝えているのに、その教えに対して聖書とは違うとはっきり見分けられないし、聖霊に
導かれれば何でも分かると勘違いして言う人もいます。
神の言葉を正しく学ばないで聖霊に導かれているからとなんでもかんでも聖書から引用利用して自分の考えを語り教える人に聞いても聖書に記されている事は分からないのです。
大事な事は神の言葉を聖書に書かれている通り聖書自体に語らせないとならない事なのです。
聖書に記されている事実を語るのではなく、聖書の箇所を利用して自分の考えを語っていると言う事が多々あるのです。
どれが神の言葉でどれが人の教えなのかの区別も付いていない
状況であるのです。
これは本当に悔い改め=軌道修正が必要な事なのです。
動画で見たのですが、ある人が急にイエシュアを信じた後、聖書を殆ど知らないのに、神からお告げあったと主張し、自分が預言者であると言い、様々な人にアドバイスし、聖書の教えでもない事を適当に語っていましたが、自分が救い主とか預言者であると自分で考えるのはそれは神から出たものではない危ない思想です。この手のものは世界には五万とあります。そして魅力的に聞こえ多くの人がその様なまやかしの教えに惹かれます。不思議、
奇跡体験、ある意味オカルト的要素に惹かれるからです。
それは人の肉の目から見たら、そうだろうと思い込むからです。
預言者=神の言葉を預かる人。神の言葉を正しく理解している事
が大前提であり、聖書が閉じられた後は聖書を塗り替える別の教えを語ったり、占いのごとく未来預言を語るのは別の霊です。
そう言う意味では、聖書を書いた預言者の様な預言者などは
今存在しないのです。聖書は閉じて完成しているからです。
預言の賜物とは、神の言葉を正しく捉え理解し、必要な時に
的確な判断やアドヴァイスをする知恵を持つ事であるのです。
今の時代にも預言者的な神の言葉に対する深い理解をする人はいます。それには、たゆまない神の言葉の正しい学びと同時に神の言葉を実際に生きる実践に徹している人達です。
預言書と聞くと、未来預言を伝える事だと考えていると思いますが、聖書に記された預言者達は、神の言葉を正しく生きる事を警告し軌道修正を導く事が一番の使命でした。未来預言を知るのが
目的では無い、今今日をどう生きるのか、それが一番のフォーカスです。歴史は繰り替えされて行くからです。
教師を選ぶ事の重要性は誰でも知っています。どこかの学校を受験をするのに、その学校に入るための学び方、学ぶ内容の攻略をよく知っている、教える教師がいる塾を皆探すのを知っているでしょう。
それをする事は当然、妥当だからです。知らない人の所に行っても必要な情報、学習が得られないからです。
だから教師を選ぶ必要があるのです。
細かい事まで分からなくても、少なくとも人の作った聖書とは異なる的外れた神学が聖書の教えとは違う!と言う発見をまず最初にする事をお勧めします。そして、分からなくても聖書の大前提は、イスラエルの神は不変、神の言葉も永遠に不変であり、歴史の途中で変わらない。創世記〜黙示録は同じ1つの聖書であり、その中身のどの言葉も教えもモーセの五書に反する、対抗する
別の教えなど1つも記されていない!と言うイスラエルの神が
伝える永遠の事実だけに立って聖書を読めば、聖書の記述とは
ずれている解釈の箇所や臭い箇所は直ぐに気が付けるはずです。
神の伝える真理=大前提をずらして、神の言葉が変化したと言う考えで聖書を読み続けてしまえば、それは神の性質が七変幻して神の言葉が時代ごとに人種ごとに分断されていると勘違いするのは当然な現象なのです。しかも臭い翻訳でその様な思想が語られてしまっている箇所もあるから聖書に書かれている真実を誤解するのです。
古代の人も目が開かれ、聞く耳を持っている人達は、同じ救い=
イエシュア、同じ福音、贖いの業の意味を知っていたのです。
現代の人達より深く深く神の教えを理解していたのです。
彼らは自分がメシアに在って誰であるか、イエシュアの業により
罪赦されている事を知っていた、神と親しい関係の中にいる事を
体験的に知っていた、未来に来られるイエシュアそして来るべき世界を知っていたのです。
出エジプトの中に記されている福音を見てみましょう。
出エジプトはこの様なアウトラインにする事が出来ます。
1 贖われる必要 1−2章
2 贖いのために神が働かれた 3−11章
3 贖いの業 12−15章
4 贖われた人達としての旅路 13−18章
5 贖われた人の書 19−24章
続く