福音は最初からトラーに記されている  | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

福音、救い=イエシュアは最初の最初からトラーに記されています。

出エジプトにも福音が記されています。過越、種無しパンの祭りを通してもその事が教えられています。

 

福音とは何でしょうか?

イザヤ52:7に記されている”良い訪れを伝える”とは

ט֖וֹב=トウヴ=神の意図通りデザイン通り本来の姿

מַשְׁמִ֣יעַ=マスミア=告げ知らせる

יְשׁוּעָ֑ה=イエシュア=救い

 

永遠の中にこの世の礎が出来る前、物理的に誰一人造られていない前から神のデザイン通り目的で通りに神の前に取り分けられ

聖別された聖徒達の為に与えられている完了の業です。

 

それは、地上で様々な形で、イエシュアが来られる前から教えられているものです。ノアの箱船、洪水で、アヴラアヴラハムが

異教の神々の地、生まれ故郷、生まれた家族から突然取り出されて神の命を歩む旅路を通して、アヴハムがイサクを捧げたモリヤ山=エルサレムの神殿がある場所で、ヤコブがみ使いと格闘し

イエシュアを体験した事を通してそして、出エジプトの一連の

出来事、子羊の血で贖い出された事を通して様々な出来事を通して同じ事を教えています。

 

福音,Godd Newsと訳されている”トヴ”良き事、神の意図通りとは、人が神の似姿に造られた通りの実態に取り戻される、戻る、代価により罪が削ぎ落とされ、本来の神との関係、人との関係、本来の生き方に戻ることで、それは何を通して可能になったのでしょう?

永遠の中に存在している事を地上で証明したのがイエシュアが

肉体を取って来られた事、神の教え=トラーをそっくりそのまま神の意図通りを生きて見せて人に教えて見せた事。

そして過越の子羊として屠られ、傷のない子羊=イエシュアの贖いの血により私達は神の元に引き寄せられ取り戻されている事実そしてイエシュアの血により私達は奴隷=偽物の生き方=罪=ハメッツが全部そぎ落とされた洗いながされた事、これらをずっと神の教え=特に神の記念日を生きる事を通して回想し頭脳に

インプットする様に神が教えているのです。

 

私達信仰により贖われた事実を受け取り信じる者はイエシュアと共に死んだとあります。以前の自分は死んだ。死んだら居ない。

でも何も感じませんよね。実際に肉体は以前と同じで変化しないし、イエシュアを信じたら急に新しい体になったり、記憶が消えて全部リセットされたりしないから、体は今までと同じに感じるし表面上も同じに見えます。でも内側で新しい命が芽生えた事、新しく生まれる=イエシュアが内側に住む、再度繋がれた経験をした人なら分かる現象です。

 

新しい命が生まれて芽生えた。でも1日で成長はしないのです。

古い人が改善されて成長するのではない、古い体に生きていても

本質は新しくされている、だから、今まで知らなかった本物の自分=新しい人を生きる学習の旅路がこの世の旅路での訓練であり、荒野の40年のイスラエルの旅路で教えられている事なのです。本当に信じ難い事を神は人に伝えているのです。

 

そして、以前の自分はイエシュアと共に死んだ!そしてイエシュアと共に復活したと聖書に書いてある通り皆唱えますが、その意味をじっくり考え続ける必要があるのです。神がそう言われたから私達は新しく創造された人達である事はアーメン=真実なのです。その根拠は神の言葉にあり自分がどう感じるかとかどう信じるとかそんな事は一切無関係の事実なのです。

これが分かれ道である事は、葦の海に直面した宿営の場所でも

教えられています。以前の自分のまま生きるのか?バアルツフォン=隠れた北の神々=偽物の生き方、それともピハヒロテ=自由

への口=イエシュアの贖いで新しい人を学習して生きる事に切り替えるのか?どっち?と言う事を教えています。

 

そして、イエシュアと共に復活して新しくされたと神が言われたらそれがアーメン=真実なのです。私達がどう考えるか、感じるかなんて1つも関係の無い事なのです。神がそう言われたからそれが真実です。信じ難きを信じるのがイスラエルの神を信じる

信仰の世界です。だから神の言うことと違う事を言う事は、

神が与えた事実=新しい人とされて生きる事を妨害してくる事を

はっきり自覚しないとならないのです。

 

罪の代価は死。本物の死、永遠の死=神から離れた場所で永遠を生きると言う代価、それが罪の代償だと神が言われました。

しかも神は罪=ズレ=汚れを取り込めない、神と共には住まえない、だから代価が必要だったのです。

その代価をイエシュアが永遠の中で既に支払済みであり、その事実を受け取る人は誰でも神と再び繋がり、新しくされた人を生きる神と共に永遠に生きる祝福に入る、それが福音です。

 

イエスさまはあなたを愛してます、あなたと共に住んでくださいますとか、祝福、必要を与えてくれますと言うアプローチをして救い主を誰かに紹介しますが、イエシュアがされた”トヴ”福音の意味をはっきり把握して相手に説明出来ないとならないのです。

人はどの状態に戻れば本来の姿を生きる祝福の軌道に乗れるのかをはっきり知らないとならないのです。失われていると言うのは

本来の自分を知らない、本物の創造主を知らない、何のために

生きているのか分からない、目的も見えない、だから他の代替えを求めて生きる事をするからです。

 

神の言葉、教えを理解する事、聖霊により神の言葉で伝えられている内容を正しく把握し理解しているか、していないか、それは本当にどの時代もどの人も個人個人の差によるだけなのです。

今の時代を考えても、聖書があり情報があり神の言葉に個人個人自由にアクセス出来るのに、どれほどの人が救い主、神の教えに気が付いているのでしょう?

古代は口頭伝達。でも口頭伝達は以外と早ものなのです。

25年前のネットが無い時代でも、海外にいる日本人社会のコミュニティで、朝何かの情報が伝えられたら午後には皆知っている

と言う事が言われましたがそれほど口コミは早いものです。

 

だから出エジプトの10の災いやイスラエルの神がイスラエルを

エジプトから脱出させ葦の海を割って安全に渡らせ、エジプト軍は皆海に飲まれたと言う事を近隣国の人達は知っていたのです。

 

こんな教えを聞いて来ました。神は時代ごとに徐々に真理を明らかにして行くと言う教えです。ある時期が来るまで神の教えは知らされてはいないと言う教えですが、でも神は最初から同じ教えを口頭で、そして預言者を通して、それらが文字となって記されて同じ教えがどの時代にも伝達され続けたのです。

 

未来の起こる全ての事など人はの詳細の全部は分からない、全部知る必要もないし、神は未来に起こる詳細を自分の人生に関しても全部教えないですよね。誰か神に今日何が起こるのか随時語られていると言う人はいる訳ありません。

どう言う意味かと言うともし自分の生まれてから死ぬまでの

人生の日々の全てを自分が知っているなら、それはもう神を信頼する必要がなくなる、自分の悟りや考えで未来をプランするから

です。1歩先未来は誰にも分からないと言う事実が残されているのは、日々の歩みを主に信頼し、常に聞いてより頼み生きると言う訓練が必要だからです。

預言書の目的とは未来に起こる事の預言が書かれていると思うかもしれませんが、それはほんの少しのものなのです。預言者の

役割の最も重要な事は神の言葉=教えに戻り生きよ!と言う事を教えているものだからです。

ナヴィ=預言者とは、神の言葉を正しく伝え導く人達の事です。

カーナビのナビとはナビゲーションその言葉はナビーム=預言者達から由来するのです。目的地まで正しく導く事。

預言者達が神から預かった警告が預言書になっているのです。

何に対する警告ですか?神の教え=トラーからずれた状態から、神の言葉に根付き生きる事に戻る、それが本当の悔い改めなのです。

神さまごめんなさい〜と言う、でもその後どう生きるのか?を

神の言葉に戻り神が何を教えているのか知ろうとしなければ、

悔い改めても自分バージョンの生き方をしてしまうだけです。

自ら聖別し自ら清めて園に行き、ネズミや豚を食うと警告されている、それは自分バージョンの悔い改めで勝手に生きている事への警告です。イザヤ66:17

園に入るために身を清め、自分を聖別し その中にある一つのものに付き従い 豚や忌まわしい獣やねずみの肉を食らう者は ことごとく絶たれる、と主は言われる。

 

神の教えから外れたイスラエルへの警告、励まし、そして未来に再びイスラエルに戻る希望を伝えているのです。

時代を経るまで、神は神が創造した神の似姿の人達がどの様に

生きるのかを全く伝えないままであったなら、そんなのは育児放棄の親と全く同じ事をしていると言う事になるのです。そんな事あり得ない状態です。イスラエルの神はそんな方ではない事が

聖書には記されているのです。

 

イスラエルの人々が世界の四隅に散っていかなけらればならなかった理由はどんな時代も、やはり世界へ神の教え=トラー、福音を伝えるためである事は明らかです。

神の教えが変形されたものが日本の中にもあるのです。

 

イスラエルの神は何千年もの間人々に対して無言で、イエシュアの贖いの事実も、罪赦されてまっさらにされている事実も、聖霊が内側に住む実態も与えず、2000年前まで神は同じ贖い救い

許し恵みを与えていなかったと信じ、考え、教え、講壇からその様な教えを説教する人達がいますが、それは聖書に記されたイスラエルの神の実態、イスラエルの神のされた事とは異なります。

 

聖書に記された変わらない言葉、教え、一貫性、継続性、同じ

1つの救い、福音が聖書に書かれている事実なのです。

創世記から黙示録は同じ福音、同じ永遠不変の神の言葉が記されているのです。それぞれの箇所の内容が記されているのは長い

期間を経ている、時代を超えていますから、その時代で使われていた表現や言葉、言い回しには多少の違いがあれど、全く同じ

教え内容、同じ1つの救い=イエシュア、福音が記されているのです。

これはヘブライ語原典聖書に記されている神の言葉を注意深く学び続ければ、はっきりと事実確認出来るし、神の伝えている事、イスラエルの神は永遠不変であり、神の言葉も永遠に変わらない!と言う事実が理解出来ます。

神が時を造られ、ご自分の造られた”時”に神は行動制限などされません。永遠の中に全てが完了し存在しているのです。

この世の礎が創造される前から、私達は聖徒として選ばれていた!と理解不能な事が書かれています。自分が神の造られる物理的な世界にまだ生まれる前から神の中に存在していた、これは

信仰により受け取る以外に方法はない、神しか理解出来ない事だからです。

 

聖書は共通の糸で綴られた1つの神の書なのです。

その共通因子とは何でしょう?

1メシア 2 トラー 3 福音です。

これが聖書に共通している同じ糸です。この共通の糸で全ての

神の教えが綴られて繋がっているのです。どの箇所の神の言葉も

トラーが100%土台であり互いに敵対しあい矛盾する教えや

トラーとは違う教えなど1つも記されていません。

メシアに関して、トラーに関して、福音に関して、創世記から

黙示録まで同じ教えが一貫して記されているのです。

だから、福音書以降にトラーとは別の教えが出現し、別のグループ=教会と言う聖書に無い造語で表されている同じ1つの家族であることに加えられ続けていると神が語っている事実が見えず

錯覚させられている、別の神の新しい家族が昇天以降生まれた!と言う誤解をまず聖書の記述から解かないとならないのです

 

続く