過越からシナイ山までの旅路 昇天からシャヴオートの期間 同じ教え | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

イスラエルと異邦人達がエジプトを脱出した後に、引き返してその場所に宿営しなさいと神が言われ、意味不明な事をイスラエルと少数の異邦人御一行様がやらされた事が記されています。

この土地の名前の中にもメッセージがあります。

ミグダル=塔 、ピハヒロテ=自由への口、バアルツフォン=

バアル=神 ツフォン=北=隠されているものと言う地名の場所に宿営します。ここで贖い出された人達は、皆直面します。

 

贖い出されたのに、再び元居た場所に戻る=元に生き方のまま

生き続けてしまう事です。そして体だけはエジプトを出たけれど

中身は何も変わらない状態が続く事です。

ピハヒロテと言う場所、義とされた人の命を生きる口から入るのか、それとも”異教の神=自分の中に潜む隠された偽物を生きるのか”その2つの選択を人々が迫られている場所でもあります。

 

戻れば、バアルツフォン偽の神々の奴隷に戻り、ピハヒロテは

神の与えられた自由=新しい人を生きる人生に入る事です。

私達も贖い出されたのに、救われたのに、再び偽物の教えの奴隷になる、人が作った宗教の教えの奴隷になる事は可能なのです。

真理は人を自由にする、真理ではない事=人の教えは人を再び束縛し、不自由にし苦しめると言う事を教えている宿営の場なのです。

人がエジプトから引き出されてこれから辿る旅路は、神の言葉を

聞いて理解しそれを生きると言う人生の命のサイクル=成長期間を荒野に於いて与えられたのです。これはイエシュアを通して神の元に繋がれた人もれなく全て同じ事をこの地上の旅路でしているのです。いや神の言葉を聞いて新しく創造された人の実態を

生きる事に参加しない場合には、それは命のサイクルを神の声を

聞いて生きている実践をしていない、結果何の変化、成長、御霊の実もない、これは当然の報い、結末なです。

神の言葉=声を聞いてそれに生きる事を実践し練習する人、

川の流れのほとりに植わった木の様に時が来れば実がなると詩篇の冒頭に記されている事、これはトラーを詩篇の冒頭で書いているのです。イエシュア=生ける水=神の言葉=トラーに根付いて生きいる=川の辺り=水源=神の命、源、言葉に植わる人は神の命のサイクル=一年に渡る福音の実態を生きる記念日から記念日を生きる人は時が来たら実がなると教えているのです。

 

引き返して宿営した場所で何が起きましたか?エジプト軍が追いついて、前は葦の海で、どこにも逃げ場所がなくなってしまう状態になりました。

こう言うのありますよね。もう何も人間的手段では解決出来ない事に直面させられてしまう。何でこうなってしまったの?と

思ったでしょう。

 

14:10ファラオは既に間近に迫り、イスラエルの人々が目を上げて見ると、エジプト軍は既に背後に襲いかかろうとしていた。イスラエルの人々は非常に恐れて主に向かって叫び、 11また、モーセに言った。「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか。 

 

これ同じです。私達も困難が来て問題が解決しないと、見捨てられたと思う、神は死なせるためにこんな事したの?と呟いた人達と同じ事を繰り返してしまいますが、これは全部肉の目=割礼の無い頭脳で考え続けているからです。神がされたら意味、目的があると言う事を忘れてしまう事です。

 

14:12我々はエジプトで、『ほうっておいてください。自分たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましです』と言ったではありませんか。」 13モーセは民に答えた。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救い=イエシュアトを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。 14主があなたたちのために戦われる。

あなたたちは静かにしていなさい。」

 

イエシュア=救いが記されています。神の救い=イエシュアを見よ!この中でモーセと、ヨシュアとケラブはこの出来事を神の目から見ていた人達です。残りは荒野で神の目から見る事を学ばないまま、死に絶えた=最初の世代は誰一人約束の地に入れなかったと言う現実が記されています。ヨシュアとケラブ以外は。

彼らは神の言葉に立って頭脳に割礼がされて神の目から見る事を

学んだ人達だったのです。荒野の旅路は、100%神の声を聞いて生きる事をする、主と共に死んで主と共に復活した新しく創造された人を生きる旅路なのです。

 

そして葦の海が割れイスラエルは渡りますが、エジプトは全部水に飲まれてしまいます。

 

 14:30主はこうして、その日、イスラエルをエジプト人の手から救われた。イスラエルはエジプト人が海辺で死んでいるのを見た。 31イスラエルは、主がエジプト人に行われた大いなる御業を見た。民は主を畏れ、主とその僕モーセを信じた。

 

エジプトでの10の災害、葦の海を安全に渡る、様々な奇跡を

体験して行くのに、問題に直面する、つぶやく、不平を言う、

信じない、その繰り返しをずっと続けて行きます。

 

15:25その所で主は彼に掟と法とを与えられ、またその所で彼を試みて、 26言われた。「もしあなたが、あなたの神、主の声に必ず聞き従い、彼の目にかなう正しいことを行い、彼の命令に耳を傾け、すべての掟を守るならば、わたしがエジプト人に下した病をあなたには下さない。わたしはあなたをいやす主である。」

27彼らがエリムに着くと、そこには十二の泉があり、七十本のなつめやしが茂っていた。その泉のほとりに彼らは宿営した。

 

最初から神は贖われた人達は神の言葉=トラーを聞いて生きるなら生きる!と教えているのです。12の泉=神の命の水、ヨセフの家族=12の兄弟が出エジプトし、そして70本のナツメヤシに遭遇します。

70人のヨセフの家族の人数と同じです。その人達の子孫が出エジプトしたのです。ナツメヤシは、シュロの葉と書いてあるのと同じで、イスラエルを表すものです。この木は上にまっすぐに伸びて、枝葉が天に向けて両手を広げる様に実る木。喜び溢れる様子を表しているものです。イエシュアのエルサレムの神殿に入る時、イスラエルがシュロの葉をかざして歓迎し叫んだのは、このシュロの葉はイスラエルの国旗を表すものだからです。ローマが気分を害し怒らないように、彼らの間で知られている”シュロの葉”の意味イスラエルを主張し、イエシュアにシュロの葉をふったのです。

 

エジプト脱出した時は第一の月の15日でした。

今年は4月5日日没から7日間種無しパン=マッツアを食べる

日々で、今日12日水曜の日没にそれは終わります。種無しパンを食べる7日が終わっても、初穂=イエシュアに復活の命を頂いて連なった実態に生きる事はこれからもずっと続けて練習実践

して行くのです。

神の記念日はどの日も、その日に記念し祝っている事実を残りの日々ずっと生きると言う事が神のデザインされた学習サイクル〜

一年に渡る命のサイクル=神の福音の暦を生きると言うものです。

出エジプトに記されている出来事と神の記念日、過越、種無しパン、初穂、穂を数える7週7回のシャバット、そしてシャヴオートまでの日々の中で教えられている福音とぴったり重なります。

 

イスラエルと少数の異邦人達がシナイ山に辿り着くまでのこの週の日々は、過越で始まりました。イエシュアの処刑と子羊の血を

鴨居に塗って死が過越た事実も同じです。本体と影です。

 

イエシュアが過越で処刑され、種無しパン=新しく創造された人を祝う日々の中で復活されました。そこから7週の間シャヴオートの祭りまで弟子達がエルサレムに留まり過ごした時期が、今の時期なのです。私達も福音の事実を神の暦に沿ってこの時期次の祭り=シャヴオートまでの時、新しく創造された人=穂を数える週を過ごす様に神に教えられているのです。

 

神の聖別された記念日が昇天以降変更になったと言う教えは、聖書に基づけは真実ではありません。昇天されてイエシュアが弟子達に現れて、シャヴオートの祭りまでエルサレムに留まりなさい

と言われた意味が不明になります。そして使徒2章以降も弟子達や1世紀の当時の人達が実践していたのは、シャバット、新月、春と秋の祭りです。

異邦人の世界では聖書に書いてある事を、人の考えによりそれらは比喩であるからと言う解説をしますが、聖書解釈の定義を完全に破る思考回路で聖書を曲げているのです。

 

もしシャヴオート=ペンテコステを祝うと言うならば、それは

神の都上り=ハギムの1つであると言う事実を発見してください。神の聖別された日=主の日は全部で1つの完全版です。

日にちも変更にならないし、どれか1つだけ取り出して祝うと言う性質のものでもないのです。

 

そして祭りは、どの曜日でもシャバット=止まって祝う事で始まり、止まってその祭りを閉じるのです。それが神が人に伝える神のデザインされた祭りの祝い方だからです。

そして、イスラエル以外の国で今日神の春の種無しパンの祭りが

終わるから休日と言う国はありません。神の記念日をガードし

神の教えをガードして生きると言う事を国全体で行うと言う国は世界にイスラエルしかありません。なぜでしょう?イスラエルに住むある人々の考えや行動は神とぴったりではないけれど、イスラエルの国は神が選ばれた地上で神の性質を反映し生きて世界へ

伝える役割として選び出した国であり、世界の真ん中でもあるのです。この国を通り世界中の人々は貿易、ビジネスをしていた

その地形も神が造ったものです。

 

他の国々は神の教えを生きなくても、イスラエルは世界へ神が伝える言葉の真実を伝える役割を与えられています。

世界のメデイアで伝えられているイスラエルの関するニュースも

真実ではないものが満載です。

1週間以上前から、ガザ、レバノン、そしてシリアからイスラエルに向けてのミサイル攻撃があり、又はイエメンからもミサイルが打ち込まれる、近隣国は全てイスラエルを打ち狙う準備が整っていると言う情報が入りました。世界のニュースでは分からないです。

しかもいつもイスラエルが悪者として戦争を始めると伝えられていますが、事実は違います。

考えてみたら分かるでしょう。周りは敵に囲まれて味方が1つも

いないのに、どうしてそんな相手に向かって戦争を仕掛けて行く

メリットがあるのでしょう?経済は止まり生活は乱されてしまい

弱いものの立場として自分たちの身を守る防御をしなくてはならないのです。

 

どうしてこの様に小さい国を攻撃するメリットがあるのでしょう?それは明らかです。最初の最初から神の民を滅ぼそうと言う

闇の力=サタンがずっと歴史を通して働いているからです。

神の言葉を潰し変えて、神の国を潰し、神の民を潰せば神の計画は破綻するだろうと愚かにも考えているからです。

でも最後はどうなるか? 神の言葉で結末はクリアーに語られています。

 

 

 

続く