ファラオがイスラエルを去らせた後、エジプトの街道ではなく
荒野を通り葦の海に続くルートに神は彼らを導かれます。
敵と戦わなくてはならない事を知ってエジプトに帰ろうと思わない様に別の道に導いたと書いてあります。人が何に直面して対応出来るのか、出来ないのか、アバは知っておられます。
私達が無理な事はさせない事、このくだりに書かれた事でも読み取れます。
出エジプト13章〜を読んで見て下さい。神の祭り、過越で、
一人一人の出エジプトがの出来事が平行で記されています。
イエシュアがされた業はこの出エジプトの出来事、実際に地上にイエシュアが来られて、過越の祭りで処刑され昇天された福音の事実と平行していて、それらの事実を皆で振り返り思い出し、考え次の神の祭りまでの神がデザインされた新しい命のサイクルを生きるのが時期が今の時期なのです。
過越から7週間、7回のシャバットを通して、初穂=イエシュア=復活の命に連なり生きる事を考え実践する強化週間なのです。
この時期は何と重なりますか?イエシュアが昇天された後、弟子たちは自分達の家に帰らないままで、次の都上りの祭り=シャブオート迄エルサレムに滞在していなさいとイエシュアに言われました。理由は色々あると思います。いきなり頼りになった生ける神でありトラーそのものを生きる完全なる人=神の創造通りの
第二のアダムであった方とずっと共に過ごして、困ったら何でも
教えられ、奇跡も目の当たりし、イエシュアと居る間は神の現実と日々生きて来た幸いを弟子達は味わい体験してたのです。
それがその神であり人であり、生けるトラー=神の言葉を直接
意味どおりに解説し教え実際に目の前で日々生きて守り導いて
下さったイエシュアがあんな形で処刑されていなくなってしまったのです。どれだけのトラウマだったでしょう?それを弟子達は
共に居て励まし合い癒される必要があり、そして復活のイエシュアに出会った事で力づけられ、トラーに記された内容を再び再確認され教えられて、自分達のこれからの任務遂行する力を蓄える準備期間でもあったのです。弟子達だけがイエシュアと共に住まい、家族として過ごし、イエシュアの教えられた事を共有している仲間だったのです。ユダヤ人のこの様な師弟関係は、家族同様の深い繋がりの関係なのです。
シャブオートでいきなり聖霊が初めて降ったと考えるのは異邦人思想です。なぜなら聖霊=神は最初から人の内側に住まわれる事実が聖書には記されているからです。聖書の土台!神の教えの
集大成であるモーセの五書をじっくり学ぶ必要があるのです。
シャブオート=ペンテコステの出来事はシナイ山の出来事を祝っているのです。神は特別の時に特別な方法でご自身を表されます。シナイ山では直接天が降りて来て、神の声を皆聞いて、そして婚姻契約を与えられた祝宴をモーシェと70人の長老は
イエシュアと共に祝ったのです。食べて飲んで宴会。
これは契約が結ばれた後には必ず深い関係に結ばれた事を祝う祝宴があるからです。どうしてイエシュアと分かるのか?天の御座はタへレットであり、そしてみ足があったと記されています。
神には足はない、イエシュアがそこに居たのでしょう。最初からイエシュアは存在しているのです。だから2000年前に初めて聖霊が与えられたとか、2000年前の人は死んだらまず浄罪界に行き、神と共にはいないとか様々な教理、神学を唱えますが、聖書にはその様なことなど書いてませんし、息が取られたら瞬時に今私達には見えない領域、でも神の中に居る。私達はこの地上では物理的にその事実を体感してないけれど事実は神の中にある事がずっと記されています。イエシュアもヨハネ17章の祈りの中でそれを語っています。
都上りの祭りは、エルサレムに上って神殿で祝うものでした。
イスラエルの全員が来られない場合もあるでしょう。古代は飛行機、新幹線、車、長距離バスなんてないのです。家族には足腰弱い高齢者、身重、出産したばかりの人や乳飲子などいますから、ユダヤ人とて全員が都上りの祭りに参加出来たのではないのです。でもその場合、家族親族の代表男子がエルサレムに上り祭りを祝ったのです。地元でも祝った。エルサレムの神殿に実際に
行って祭りに参加し、喜び祝福を体験し、トラーに記された教えを地元に帰って彼らは家族に教えたのです。
でも捧げ物はエルサレムの神殿、動物はエルサレムの神殿の祭壇でしか捧げてはならないものです。だから今神殿が無いので、
動物のコバノートは捧げられないだけです。
ここで考えてみれば分かる事があります。クリスチャンの世界ではイエシュアが昇天されたら神の記念日は終了したと言う人の
教え、ドグマ=教理がありますが、昇天以降も聖書に登場する人達は変わらずにシャバットを祝い、新月、祭りを祝っていた記録がはっきりと使徒以降、パウロの書簡やその他にも記されています。
ペンテコステを祝うと言うならそれはシャブオートと言うヘブライ語の名前があるトラーを受け取った事を記念し祝っている祭りであると言う聖書の事実にまず気が付いて下さい。三大都上りの祭りの1つがシャヴオート=ペンテコステなのです。神の祭りはどれか1つだけ取り出して強調して祝う様に神はデザインしてはいないのです。丸ごと全部でシャロームのワンセットであり、
福音=イエシュアのされた業、これから来る再臨、神が統治する世界を網羅している預言的祭りなのです。
ペンテコステを祝うと言うならなばそれは過越、種無しパン初穂を祝い、復活の命を生きる7週間の7回のシャバットを経て、
シャヴオート=ペンテコステの祭りを迎える。
そして秋には、ショファーを鳴らす日から始まり、大贖罪日があり、そして仮庵の7日間を祝う、それが神のデザインされた
正真正銘のフルセット、永遠に神の子らで祝うわたしの記念日と聖書には記されているのです。全部で7つの祭り、これが神のデザインした祭りで、一年に渡り、シャバット、新月を祝う。
祭りは、必ずどの日から始まっても、シャバット=止まる日として祝い、止まる日で閉じるのです。明日の火曜日日没から水曜日の日没も種無しパンの祭りのシャバットで終了するのです。
これが神が人に伝える永遠不変の神の祭りの祝い方なのです。
出エジプト=過越の祭り、今の7日の間の時期は日々移動している時です。そして9日目にスコトに着きます。
過越から、次の祭りシャヴオート=(ギリシャ語ペンテコステ=第50)シナイ山に辿り着き、神から文字で書かれたトラー=婚姻契約書を受け取ります。この出エジプト後に起きた出来事の時系列と、神の聖別された記念日はぴったり重なり、そしてエジプトを出たイスラエルと少数の異邦人たちの旅路、道のりで起きた
出来事も神の記念日の意味を教えているものです。
体だけはエジプトから出た人達は、子羊の血で買い取られ贖い出された事実を受け取ったのですが、頭脳に割礼がされていないままだったのです。自分の思索、行動パターンはエジプトに在るまま。なぜ?奴隷=偽の自己像で生きて来たからです。
イエシュアに贖い出されて神と再び1つに繋がった人も、私達漏れなく全員生まれたての時は、頭脳にはっきりと割礼がされていない状態なのです。新しい実態を生きると言う事に未経験だからです。日々の中、神の言葉に学び、神の教えている実態通りを
生きる時、成長するのです。
それが初穂が成長する7週間で表されているのです。
イエシュア=子羊の血で贖い出された一人一人も全く同じ道のりを辿ります。イスラエルが荒野で経験した40年の地上での訓練も、イエシュアを信じた一人一人の地上での道のりと全く同じです。神の子とされ神の声=言葉を聞いて生きる訓練を一人一人がさせられるのです。
多くの人はこう考えると思います。救われたら瞬時に変化するとか、奇跡が起きて以前の自分の中にある縛りや、束縛や傷から
即座に完全に解放されるとか、そう言う事を言う多くの教えを聞いたことがあります。種が蒔かれて根が出て芽が出て幹が成長しやがて大きな木となって実を結んで行く、その事実と同じく、
人には新しくされた人で成長する過程が残されているのです。
以前の修復修理不可能=イエシュアと共に葬られた人を直して行くのではないのです。その人は死んだ、亡くなった。居ない。
でも記憶が残っているのです。実際の脳回路にインプットされたまま。救われた人だけ新しい体で新しい頭脳に切り替わって全部変化するなら分かり易いです。でも同じ体の中にあって、実態は
新しくなったと摩訶不思議な事を神が説明しているのです。
信仰により受け取りその事実を生きる事を1から学習する、
それが荒野の40年の旅で表され教えられているのです。
赤ちゃんがいきなり立つ事を覚えた次の日に100メートル走のオリンピック選手の様に走る!などと言う様な無茶を考えるから
失望してしまうのです。日々の歩みの中で様々に教えられ教えられた事に徹して再学習すると言う繰り返す、それが聖書に書かれている事です。新しい人にされた〜生まれた状態。すぐに成長しない。でも確実に神の言葉を聞いて生きる人は成人として成長して行く事が記されています。それを端折るから何年経っても何も変化しない。作物は手をかけて成長させるもの。それと同じ。
神の声、教えを聞かないで学ばない=頭脳に割礼の無い、何をどう生きたら良いのか学習しない最初の世代は約束の地に入れずに皆絶えたとあります。
ヨシュアとケラブだけが最初の世代で約束の地に入った人達です
神は目に見える形で神の臨在が人々と共にある事を荒野の40年でしました。 雲の柱、火の柱は天から神が下されたものであり
そしてシナイ山以降、ミシュカンを通して神の家に神が住まい
神が人と共に住まう事を教えたのです。
ミシュカンはイエシュアを教えている学習の場なのです。
出エジプト13:20一行はスコトから旅立って、荒れ野の端の
エタムに宿営した。 21主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた。 22昼は雲の柱が、夜は火の柱が、民の先頭を離れることはなかった。
最初に行った場所は”スコト”とあります。仮庵で表されるスコトです。奴隷=エジプトから贖い出された人達はイエシュアの中に住まう事を最初から教えられています。贖い出された人が住まう場所=イエシュア=イスラエルの神です。仮庵の祭りを祝う事で、新しく創造された新生体験をしている人達は、この仮庵の意味がより深く実体験出来るのです。
そして、最初から肉眼で見える神の臨在が共にイスラエルと異邦人達と共にあった事が記されています。雲の柱、火の柱。
出エジプト14:1主はモーセに仰せになった。 2「イスラエルの人々に、引き返してミグドルと海との間のピ・ハヒロトの手前で宿営するよう命じなさい。バアル・ツェフォンの前に、それに面して、海辺に宿営するのだ。 3するとファラオは、イスラエルの人々が慌ててあの地方で道に迷い、荒れ野が彼らの行く手をふさいだと思うであろう。
出エジプトしたイスラエルと異邦人の辿った足跡は全ての人に当てはまる事であり、神が重要な事をこの事件を通して教えています。
エジプト脱出後、ファラオは気を変えてイスラエルを追いかけます。自分自ら出陣し共にエジプト軍を率いて、イスラエルを追って行きました。ぜひ出エジプトの記録を読んで見て下さい。
14:4わたしはファラオの心をかたくなにし、彼らの後を追わせる。しかし、わたしはファラオとその全軍を破って栄光を現すので、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。」彼らは言われたとおりにした。
イスラエルはファラオから逃れているのに、イスラエルの神は
エジプトに向けて引き返してと言われました。意味不明ですよね。何でこんな時にこんな危険な事させられるの?事が進展してたと思ったら引き戻されてしまうなんて。こう言う経験を誰でもしますが、この裏には神の計り知れない計画があったのです。
神の栄光を人が知る為です。神がされたら誰もそれを止められない!と言う事を人々が知る事でもあります。
続く