天の現実を地上でそっくりそのまま反映する役割を託された人達  | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

レビ記10章に記されたナダブとアビフの事件の意味を説明する前に、神の臨在が地上で宿る場所を作らせた意味と、神の家=

ミシュカンが作られてどの様に稼働したのか、聖書にどう書かれているのかを見なくてはならないです。

 

異邦人クリスチャンの世界ではレビ記を読む前提を、”救い主が

来るまでの仮の赦し”が教えられていた、仮の赦しを動物の血で

与えられていたとしていますが、その思想は最初から神の教える事とはズレています。レビ記を読む前提が最初からずれているのです。

 

神が伝える真実だけをよくよく考えて下さい。

1 動物の血は人の罪を消さない!

 ヘブル10:4雄牛や雄山羊の血は、罪を取り除くことができないからです。

2 もし動物の血で許されるなら、それはエルサレムの神殿、

それ以前は移動式ミシュカンでしかそれは可能ではないので、

世界中の人口の0.00000001%以下の人しか2000年前には

仮の罪の赦しがなかったと言う事を言っている事なのです。

 

そんなイスラエルの神の行動、教えは聖書に記されているものと

異なります。イスラエルの神は永遠から永遠に赦しに富み、憐れみ深く、愛に満ちた神であると言っているのにごく少数、エルサレム周辺もしくは、荒野を出た人達だけに仮の罪の赦しが与えられたと言うのは、神の教えに反したものであり、ありえない教えになります。

 

神の家の中で教えられていた事は、教育ツールです。実体験で

イエシュアの業、神の前に新しく真っ白なきよい存在である事を

教えられている。神の前にどの様な意識=新しく創造された人で

近づく事を教えられている。人と和解する事、どの様にするのかも教えられているのです。

 

日本でも誰かに対して犯した罪は話し合いや裁判を通して解決し

賠償金が伴います。それでその問題は解決しますよね表向きには。でもそのズレは神の前には解決した事にはならないのです。

負った傷もそうそう簡単には癒されないでしょう。

神殿で行われている一連の儀式は、実際問題の修復でもあり、

トラーの中には、人に対して犯した違反を賠償する事を伴うものである事を事細かな賠償方法を明確に教えているのです。

でも究極的に罪はイエシュアの血=子羊の贖いの血を通さないと

神との和解は無いと言う側面があるのです。

 

しかもある人々は、告白すれば罪許されるから何でもするとか、

人に何かしても謝らない、賠償もしなくて良い、借りても返さないなどと考えている人達もいますが、それってどれほど神の教えからずれた思考回路になってしまっているのでしょう?人が誰かに対して無意識、意識的にでも罪を犯したら刈り取る結末はあるのです。

そして、正しく解決しなくてはならないのは、神の教えを知らない普通の人でも常識的に知っているのです。

 

もう少しレビ記に記された内容、意味を知って行くと、そこで

行われ、教えられていた事は、地上に来られるイエシュアのされる業、それは永遠の中に既に解決されて存在して、地上で歴史のどの地点に於いても誰もが受け取れるものである事を実際の神の家=ミシュカンの中で教えていたものなのです。

 

エルサレムの神の家の中でそれを体験出来たのは極少数の人達に限ります。でもその人達を通して神の教え=トラーに記された

内容を体験を通して実際に学んだ人達が世界の四隅にいる人々へそれを教えると言う役割を託されていたのです。それがイスラエルなのです。神がイスラエルを世界へ散らした理由もそこにあるのです。

ミシュカンが稼働する時に起きた大惨事の前に、地上のミシュカン=神の臨在が宿る場所、神ご自身が目に見える形で人々に現れ出る場所を神が人に造らせた理由はたくさんあるのです。

 

1つは、聖霊が人の内側に宿ると言う事実、神が人の中、間に住むと言う事実、これを神の家を通しても教えているのです。

実際に肉眼で彼ら荒野で生きた人達は日々神の栄光を見ていた!

イエシュアが来られる以前からメシアは人であり神であると言う存在を”ミシュカン”を通して教えている事でもあるのです。神の祭りを通しても、シャバットを通しても、イエシュアを教えたのです。

どうして分かると思いますか?ヨハネの福音書の冒頭に何が書いてあるのか?ヨハネは何を神の神殿からトラーから理解していたと思いますか?

 

ヨハネ17 14言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。

わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

 

言葉=ダヴァル=神が語られた言葉とは、トラー=モーセの五書に記された神が肉声で語られた言葉をモーシェが記した、それが

トラーなのです。そして私達の間に宿られたとヨハネが言ったのは、ヨハネはミシュカン〜神の家、神殿を考えて語っている事は

ヘブライ人なら理解出来るのです。ミシュカン=神の栄光が人の間に宿った!そのミシュカンで教えられたイエシュア、トラーが

肉体を取ってタナックに約束された通りに地上に来られた!

ヨハネはそう説明しているのです。

ミシュカンで教えられた内容は、恵みと真理に満ちていた、トラーに記された恵みと真理=言葉が肉体を取って来られた=イエシュアであると言っているのがこのヨハネの冒頭の1章なのです。

 

ミシュカンが完成しミシュカンが稼働する前の事が8章に記されています。

8日目のミシュカンを神の前に捧げる祝いに向けての記録です。

7日の間、聖別された神の宮に仕える人達、この場合アロンの家系の大祭司達です。彼らは同様に聖別されきよめられる期間が持たれました。

 

地上の大祭司であるレビ族であり同時にアロンの家系の人達は、天の大祭司メルキゼデクに属するイエシュア=ユダ族天の大祭司を地上で代表する本体の影を表す役割を与えられた人達です。

 

大祭司達祭司達は一般の人達から分かたれている事、そして

ミシュカンの中で仕える特別な服を着て神の前に仕えるのです。

色、衣服、全てに於いて神の宮に仕える準備をしたのです。

これらは、何を意味しているのでしょう?

祭司の衣服は”白”です。聖霊の住まう場所は神によりきよめられた場所であり、神のミシュカンに仕える人達も神により特別に

聖別されきよめられた人達である事を、このレビ族のアロンの家系の代表者により表されています。

 

8章を読むときよめられたレビ族の祭司達はミシュカンの入り口で7日間ずっと留まり過ごす様に神から言われた事が記されています。

レビ記8:33あなたたちは七日にわたる任職の期間が完了するまでは、臨在の幕屋の入り口を離れてはならない。任職式は七日を要するからである。

 

ここの任職式と書いてある翻訳の裏にある言葉は、ヴィジュアル

イメージが出来る言葉です。”手が満ちる”と言う意味です。

どう言う意味でしょう?

グラフィック、画像として見える教えです。手とは”生み出す道具”です。その手が満ちるまでの7日の間、ミシュカンの前で

ずっと待機して過ごしたのです。

手=ツール、道具は物を作るだけでなく、癒し、光、熱、きよめなどを表すものです。

 

神に聖別された人達は、一般の人と分かたれて神の特別な役割を

与えられてそれを執行する人達です。

光、癒し、きよめ、必要な栄養を与え生み出す人達です。

イエシュアが地の塩、世の光と言われたら何を指して話しているのか彼らは、トラーに記された様々な事を知ってイエシュアが

話されている事を理解していたのです。

 

レビ族の祭司達、そしてレビ族のアロンの家系の大祭司達は

地上で特別な役割を果たす、神の教えをそのまま反映して教える

人達として選び出されました。

天の現実をそっくりそのまま地上に反映して教える責任を託された人達です。

 

神の口から発せられた言葉をそっくりそのままその通りに伝えなければならない理由は、シャドーコピー=天の現実の本体の地上での影、物理的な物を通して実際に触れて見て、五感を通して

体験する神の家、その中で行われ教えられる事を曲げたら、既に

それは神の目的から外れてしまう事を意味しているのです。

天の現実の啓示を神が言われた通りに反映しないなら、それは

地上で天の現実が正確に現れ出ない事を意味しているからです。

 

7日の間ミシュカンの入り口に滞在して、”手を満ちさせる”

任職式と訳されている本当の意味は、神のミシュカンで仕える

準備万端状態にさせるためです。

神の仕事を託されてそれを実践執行出来る準備期間です。

 

何事も準備期間は必要です。神の教えに対して何の意識、考え

理解もないまま、備えないまま神の大祭司は神の家の中には入れないからです。昼も夜も神のミシュカンに入る事を考え続ける。その中に入りたい!と言う願望もどんどん大きくなるからです。

 

神の家に仕えると言う事は自分勝手な考えで全て行動出来ない!と言う事、神が伝える通りを執行する!と言う事をはっきりと

知らないと、他の人々に対して神の教えを伝達する事は出来ない

からです。

 

何も無い場所で7日間昼夜滞在するなんて想像出来ますか?

これは荒野での体験に似ています。何も無い場所。見渡す限り

荒野。綺麗な変化する景色も無い。景色も何も無い場所なのです。でもその中で聞こえてくる音に意識を向け集中する事をし始めるのです。

そしてその事で神が導く深淵へと私達は入って行く事が出来るのです。

これは神が伝えている言葉、何を言っているのか理解する事から全てが始まるのです。だから神の言葉を捨てて学ばない、何が

聖書に書いてあるのか注意も払わない、読まない、又は神の言葉を正しく教えられ教育されない損失を今一度考え直した方が安全です。

神の言葉に意識を向ける事を逸らす全ての教え、それが人の編み出したドグマ=神学、理屈、今は神の言葉は廃れて無用破棄された!この声はエデンの園の蛇の声そのもの!神の言葉を遮る全ての教えは神の邪魔をしている悪霊の仕業!とはっきり気が付いた方が安全です。

どうして神の言葉に意識を向ける事を遮る教えが恵の教えで正義であり現代にふさわしい神の教え?などと考えているのか?神の言葉を生きると聞いたら即座に牙を向けて激しく憤る多くの人に出会いましたが、彼らは神の言葉が何か本当の意味では理解してないから怒るのです。神の言葉を生きる事がまるで神の前に不誠実を働いているかの様にとらえている。神がいつご自身の言葉を捨てて自分のインスピレーション=聖霊に導かれた自由に生きよなどと教えたのでしょう?聖霊=神の言葉である事実を全く捉えない人間の思想なのです。

神の言葉=古い悪い恵を捨てた律法主義的生き方などと神が伝える教えとは真逆の人の教えに洗脳されてしまっているのです。

福音書以降に記された教えは、モーセの五書に記された父の教えのほんの断片、片鱗しか記されていません。

でもそれらは全てトラーから抜粋された教えです。クリスチャンも知らない間にトラーの断片を生きているのです。

神の言葉は全部で丸ごと1つシャロームワンセットなのです。

どの箇所も人間の考えで付け足し差し引きするなかれ!と言われている、神の口から直接出た言葉がその人の耳には全く届かない響いていないだけなのです。

 

 

続く