今日は過越=ペサフ=種無しパン=マッツアを食べる7日間の中の特別なシャバットなので、いつもの箇所とは違うトラー朗読を
します。今週は、出エジプト33:12−34:26
預言書は、エゼキエル37:1−14です。この箇所には共通した教えがあります。トラーを読む時に、それに関連した箇所を
読み学びます。イエシュアがあるシャバットで会堂にてトラーを
朗読した時、預言書を朗読した事でも分かると思います。
イエシュアはあるシャバット=第七日目に会堂でイザヤ書を読まれました。神の仰せ=神の言葉を学ぶ、特にシャバットでは神のトラーを学ぶ事をするので、これをイスラエルは世界のどこに
住んでいても同じ箇所をシャバットに読みます。
イエシュアの時代も、どこに住んでいても、シャバットに神殿で会堂でトラーが読み上げられていたのです。イエシュアがされていた事と同じ事を今も継承し世界中でシャバットに行われているのです。ルカ4:16−21
過越〜出エジプト〜子羊イエシュアの血で贖い出された人達
イエシュアを信じる人達全てもれなく皆出エジプト=奴隷の鎖が切られ本物の主人に代価を払われ買い戻された事実があるのです。
そして新しい人とされてもその自覚が直ぐには湧かない。しかも
神の教えが何か全く知らないその状態が、同じくイスラエルの中にもあったのです。全員が全員神の言葉を理解して、贖い救いの深い霊的意味も分からないまま、とにかく体は危険から脱出したと言うのがエジプト脱出劇の一連の出来事です。そこから出エジプトした後の人々の道のり、行程は、ぴったり出エジプトに記された事、神の記念日の中で教えられている事と重なります。
私達主にある一人一人の地上の歩みと同じく重なるものです。
”初穂”を祝う=復活の命を祝う事をタナックを知っている人達
福音の意味を理解している人は、これがイエシュアの復活の命を祝い、その事実に連なり生きることを記念して祝っていると言うことを理解していたのです。
イスラエルは理解は違えど古代から毎回神の祭りの時に”モシア”=救い主が来られると言う待望をしています。1世紀の弟子たち、他のユダヤ人も、救い主を待望していました。
彼らが理解していた通り、2000年前の過越の祭り=神の定めの記念日にイエシュアがエルサレムの神殿に登場したのです。
だから、ユダヤ人達は、シュロの葉=イスラエルの国旗を表すもの、ローマ帝国の怒りを買わない方法でシュロの葉を思い切り振りイエシュアを歓迎賛美” アドナイ ホシアナ”=主よ救って下さい!と叫んだのです。救い主を待っていた人達によりイエシュアはエルサレムの神殿に歓迎され入って来たのです。
でも彼らはローマ帝国の縄目から解き放ち、エルサレムから世界をその時から統治してくれるのが救い主だと多くの人達は考えていたので、その様に質問していたのです。そしてその時(再臨の時)は父が知っているから人は今それがいつであるか知る必要はないとイエシュアが言われました。使徒1章。
その様にユダヤ人はタナック=モーセの五書、預言書、諸書から
救い主の実態を知っているのです。過越の祭りの晩餐の中で
エリヤ用にテーブル1席を用意をするのです。エリヤが来られる救い主が来られると考えているからです。そして最後に家のドアを開けて家のドアの外にエリヤが立っているかもと言うゲームをします。
復活の命は、イエシュアが昇天されて初めて知った事実ではない
アダム、ハワ、ノア、アヴラハム、誰でも神の言葉=トラーを
理解した人は同じ福音=贖いの業、復活の命で新しくされている事実、聖霊が内側に住み、神の言葉を生きる新しい人にされたことを知っていたのです。聖書=タナックに書いてある通りに理解し読めばそう書いてあるから分かる事だからなのです。
神は人に分からない禅問答みたいな事を記しているのでは無いのです。
遠い古代のしかも外国語、ヘブライ語で書かれている事をそのまま訳されたとしても理解不能な箇所は、その言葉や言い回しで
何を語っているのか現代の外国語の世界で生きる人に分からない
と言うだけなのです。例えば、”生き馬の目を抜く”と言われて
その意味を理解する人は理解出来るけど、知識が無い人には、
そのまま読んでも”馬の目を抜く?”と意味不明です。それと同じ事、だからそこに書かれた言葉の意味を知る、何が語られているのかを学ぶ事は必要なのです。そうしなければ自分の空想で考えるだけに留まり、神が伝える真実は自分には届かないままになる
からです。
先ずは2000年前にイエシュアが地上に来られて初めて救い主、復活の命、イエシュア=子羊の血で罪が許されている事実を
知ったのではないと言う事を知って下さい。
同じイエシュア、福音=贖いの業で新しく生まれた人達=残りの民はどの時代にも存在していたのです。しかも世界の四隅に
ユダヤ人は散らされ同じ福音=トラーを伝えていた事実があるのです。
パウロは100%、モーセの五書から話しているのです。
パウロの言葉を見たら、過越の祭り、種無しパンの祭りの中で
復活の命を話して教えている事に気がつけると思います。
1コリント5:6あなたがたが誇っているのは、よくない。
わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。 7いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者=マッツアなのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。 8だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか。
11:23わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、 24感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。 25また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。 26だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。
15:1兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。 2どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。 3最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、 4葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、
20しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。 21死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。
パウロが記した上記の内容は、過越の祭り、種無しパン、マッツアを食べる7日間の記念日を話しているのです。
復活の命は、”初穂”とある通り、初穂=種無しパンを食べる7日間の記念日の真ん中に来る日=復活の命=初穂を祝う事をパウロは話しているのです。
パウロが、福音を話しています。15章の冒頭からその内容を話していますが、パウロは”聖書”に書いてある通りと言っているのはパウロは何を指して聖書と言っているのでしょう?
テサロニケ、エペソ、ローマ、ガラテヤ、ヨハネ?
福音書〜黙示録は5世紀に初めて聖書として認められたものであり、彼ら1世紀当時の人達はまだそれを目にした事も無いのです。聖書であるとも考えていない。特定の人達がパウロの書簡=手紙を受け取っただけそして、福音書以降の記録もほとんどの人は知らない読んでもいないのです。パウロ達1世紀の聖書に登場する人が、聖書=スクリプチャーと言っているのは、100%モーセの五書、預言書、諸書のみを指して語っている!と言う事実を発見して下さい。聖書に聖書と書かれていたら、その言葉は
100%タナック=モーセの五書、預言書、諸書のみを指して
話している事実に立って読んで下さい。
そして、彼ら1世紀の人達の聖書は、タナックのみです。
パウロは、タナック=モーセの五書、預言書、諸書のみを指して
聖書と言っている、それ以外の聖書は存在していないからです。そして、タナックの中にキリストの福音が記されている!と話しているのです。彼らはタナックから福音、キリストの贖いの代価
復活の命、罪許されている事実、新しくされている事実、聖霊が
信仰により受け取る人の内側にもれなく住まう事実をタナックから解説しているのです。この事実が見えれば福音は1つであり
時代ごと、人種ごとに救いの手段内容は変わらない、どの時代の人にも同じ福音、同じイエシュアが伝えられていた事を知る事が出来ます。
神の教えを変えたら神の伝える事実が見えなくなって行きます。
当然の事です。人が伝えた伝言を変えたら、伝言ゲームのごとく
終わりに伝言受け取る人はオリジナルと全く違う伝言を受け取り
真実を受け取る事が出来なくなります。
今日は種無しパンを食べる7日の間にある、シャバット=第七日目です。過越の最初の日もシャバット=今年は4月5日日没が
過越を祝う日でした。そしてその日から次の水曜日12日の日没
まで種無しパンを食べる記念日です。種無しパン=マッツア=
要らないもの=ハメッツ=罪がそぎ落とされた事実、イエシュアの復活=初穂に連なった事実を教えている強化週間なのです。
今日は誰がどう主張しようとも永遠不変である神が創造された
神が人に伝えている週一度の聖別された日、シャバットです。
これが安息日と訳されている日で、神が永遠不変に祝われる記念日と紹介し、神の子らを世界の四隅から呼び出し招集してる日です。
どの日も安息日などと主張する教えは人間が考えたものであり、
どの日も同じなら、神の伝える聖別の意味は完全に消えます。
神は神が定めた日とそうでは無い普通の日=労働する6日間とをはっきり区別しています。聖別=神が定めた目的どおりに分かたれる、人が考え作り人の考えで聖別したら、それは神から出たものでは無い別物です。
どの日もシャバットであったらそれは労働日はなくなります。
神は第1〜第6日の間働いて、第七日目=週の中唯一神が名前を与えた日、シャバットで止まる!それが神の創造された時の
デザインであり、聖別された日は、週の中では第七日目だけです。そうではければ、毎日がシャバットなら神の時のデザイン
労働日は消え全部休日と言う事になります。それは神の教えではありません。神の教えを変える人間の教えは神の伝える真理を撹乱し続けています。だから神が伝える真実だけを伝え始めなくてはなりません。
宗教=人間の作った教えと、神が伝える永遠不変の真理=言葉は
違います。考えれば考えるほど人はどれほど神の言葉を無視し、破壊し続けてきたのだろうと分かります。最初の最初からそれは同じ問題なのです。エデンの園から同じ。神の言葉を捨てたら、人は必ず影響を受けます。偽物=北の王=バアルツフォン隠された偽物の神々の教えを生きる事に引き戻され、聖別は汚され、本物と偽物の区別がつかなくなってしまいます。
簡単な事です。神の言う言葉の事実だけに戻れば良いのです。
神が神の言葉で人に何を伝えているのかそれを聖書から確認し、取り戻す。人の教えと神の教えは違う事を学ぶ中で見分ける。
聖書=神の契約書=教えは今与えられていて読む事が出来ます。
今日聖書を開いて、シャバットが変更になったとどこに書かれているのか見つけたら良いのです。見つかるわけありません。
勘違いしている箇所は、全て人の解説で適当に理由付けされて
しまっているだけで、シャバットは変更されていません。
パウロが日曜礼拝で献金を集めなさいと教えていると言う箇所は、シャバットには金集めは禁じられていると言うトラーの教えを知らない人が考えるのです。でもシャバットには献金集金しませんから、それがシャバットでは無い証拠=週の初めの日=
普通の普段の労働日である事は神の言葉から証明する事が出来るのです。神の暦、ユダヤ人の間では日曜日は労働日!と言う事を忘れない事です。しかもこの箇所日曜礼拝で集まるなんてことも
書いてない。それぞれがそれぞれで取り置いてと書いてあります。
1コリント 15:2わたしがそちらに着いてから初めて募金が行われることのないように、週の初めの日にはいつも、各自収入に応じて、幾らかずつでも手もとに取って置きなさい。 3そちらに着いたら、あなたがたから承認された人たちに手紙を持たせて、その贈り物を届けにエルサレムに行かせましょう。
だからシャバットの日は、今の時も神が神の子らを呼び出している事実は人がなんと言おうとも変わっていません。本物の羊飼いの声=神の言葉に素直に正直に聞く時必ず嘘とまことの区別がつきます。聖書に戻ろう!と言う事をすれば真実が見えて来ます。
そんなに難しくない。難しいのは、聖書に書いてある通りに読まない様に教えられてしまっていて、その妨害=洗脳が頭脳にある
実はその偏見が邪魔な岩なのです。
神の言葉を妨害する教えは、人に破壊、損害、祝福を奪い働きをしているものと気が付けば良いのです。アダムとハワが直面した
誘惑、チャレンジと同じなのです。
Shabbat Shalom