復活の命 初穂に連なる事を日々考える強化週間 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

今日2023年、4月9日はカトリック、キリスト教、ギリシャ正教、ロシア正教、その他諸々の宗派も、春分の後最初の日曜日にイースターを祝います。毎年春分を基準にしているので、日にちが変更になりますが日曜日は変わりません。クリスマスは

欧米では12月25日で設定されて、そしてロシア正教のクリスマスは1月7日です。

 

一方聖書に記された神の創造された本来のオリジナルの記念日=聖別された祭は、春は聖書の暦第一の月、ニサン、又はアビブの月の15日になります。14日の日没は15日になるのでその時に過越の祭りが始まります。イエシュアのされた祝い、最後の

1週間もぴったり神の祭りの暦と同じです。

 

この週7日間は、実はずっと復活の命を頂いた事を考え生きる強化週間なのです。この週ずっと”復活”=新しくされている事実を思い出すのです。これはマッツア=要らないものがそぎ落とされた、イエシュア、子羊の贖いの血により与えられた事をマッツアを食べる事を通して思い出す事をする7日間と神がデザインした記念日なのです。

神がそうデザインされて神の子らにこの祭りを永遠に祝う様に

教えている意味があるのです。

 

聖書を注意深く読むと、様々な事が平行に重複して記されている事を発見出来ます。自分の目、思索から隠されていたものが現れ出て来る事を体験します。

過越の祭りを祝う事は、ユダヤ人なら皆伝統的にしています。

日本人が大晦日元旦を意味ある食べ物=年越し蕎麦、おせち料理やお雑煮を食べて、家族や親戚友人と祝うのと同じです。

 

信仰のない人でもユダヤ人として伝統的にイスラエルの神が創造された祭りを祝います。

年越し蕎麦やおせち料理にある食べ物が何を意味しているのか、日本人でも知らない人も多いですが、ユダヤ人ならこの過越の祭りで食べる特徴的な食べ物の意味を、晩餐の儀式の中で出エジプト脱出で聖書に記されている一連の出来事の中で語られるので

意味を知っています。秋の仮庵の祭りは7日間仮庵の中でご馳走を食べるのですが、なんでも好きなものを作って食べます。

でも、原則はコーシェル食=レビ記11章に記された神の創造された人の食べ物で食事を作ります。これは普段もそうです。

でも過越の祭りは、過越の出来事に関連する意味のある食べ物を食べて祝うのです。だからイエシュアもマッツアを食べ、贖いの杯=食後に飲む3杯目の杯、出エジプト6:6−7に記されている、贖いの意味を弟子たちに再確認させ、次の日に迫った地上でのイエシュア、屠られた子羊の血の意味を出エジプト=過越から

話しているのです。

 

注意して考えると言う点で、春の過越からの種無しパン、日本語訳では除酵祭とありますが、これは7日間、秋の仮庵も7日間

全部であり、完了完全を表すものです。過越から次の都上りの祭りまで7週。春の祭り4つ、秋の祭り3つ、全部で7つの神の記念日。メノーラの支柱は7本。1週間は7日であり、第七日が週の聖別された日。シュミタ年は7年ごと、7年を7回過ごしたら、ヨベルの年。元に戻る、修復される、解放を教えているものです。全部神が意味を持って創造されているのですから、人が神の伝えるメッセージを曲げたら、神が伝える真理は見えなくなってしまうのです。神の真理だけを繋げて行ったら見えなかった神の伝える世界が見えてくる様になります。

 

古代の人達、神の言葉を注意深く読み、学び理解する人達は、

その中に書かれているものが未来に来られる”イエシュア”

永遠の中にある贖いの業、完了の業である事を理解していました。今の人達よりもっと深く、ミシュカンを通しても体験的にイエシュアの業の意味、神の前に新しくされている事実=復活の命=初穂に連なると言う意味を知っていたのです。

 

出エジプト12:5−11に書かれている内容はやがて地上に

来られるイエシュアの贖いの業を説明しているものです。

これは、永遠の中に既に完了している”贖い”なのです。

傷のない=タミン=完全である1歳の雄の羊、もしくは山羊、

イエシュア、罪の無い、タミン=完全であるお方が人のために

イエシュアの贖いの血で代価を払った事を表すものなのです。

 

エレミヤ、イザヤ、ゼカリヤ、ホセア、預言書にはイエシュアが

書かれているのです。彼ら預言者達はイエシュアがどんなお方であるかはっきり理解して書いてるのです。それを読んだ人、聖霊に目が開かれた人も、まだ見ないイエシュアを理解していたのです。2000年前に初めてイエシュアが地上に来られてそれで救い主モシアを理解したのでは無いのです。タナックに記されている通りの救い主である事を人がタナックに記された神の言葉に照らし合わせてイエシュアが約束の救い主であると確証したのです。

照らし合わせる神の言葉の裏付けが無いなら、感覚により、

あの人救い主かも〜なんてそんな自分の悟りや感情に頼って

イエシュアが神が約束された救い主であるかどうかを判断し確信したのではないからです。よくよく考えてみれば分かります。

どうして本物?と分かるのか?神の言葉、約束=真実に照らし合わせて考え、内側に深い確信を持つに至るからです。聖書=神の言葉で伝えられている”救い主”とは違ければそれは偽物!偽預言者、偽救い主と分かるからです。

 

注意深く聖書を読む学べば深く深く神が伝えている真理が見えて

来るものなのです。

 

ヨハネ1:29その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。

 

いきなりこんな事が書いてありますが、どうしてヨハネはその様な理解があったと思いますか?トラー、預言書、諸書に”神の子羊”の意味がちゃんと記されているからです。ヨハネはメシアの

意味をタナック=トラー、預言書、諸書から理解して話しているのです。

神の子羊と聞いたら、エジプトでの鴨居に塗った屠られた子羊の血、又は、アヴラハムがイサクを神に言われた様に捧げた箇所でも屠られた子羊の出来事を説明するものである事が見えます。

そうでなければ、イエシュアが神の子羊なんて言う説明が聖書のどこにも無い事になりますが、タナック=トラー、預言書、諸書を理解している人達には、理解出来る事なのです。

 

創世記22章を読んでみてください。イサク自身が薪を担いで

モリヤ山=エルサレムの神殿がある場所、当時はもちろん神殿はそこに建っていませんが、未来に神の神殿が建つ場所に向かった

のです。イエシュアが木を担いで処刑される場所に向かったのと

パラレルで繋がるのが見えるでしょうか?

処刑され復活される事実のリハーサルです。過越のリハーサルであり、イエシュアが実際に地上でされる一連の出来事なのです。

しかも、イサクが捧げられた時も丁度過越の時期、ニサンの月の

15日であろうと考えられています。神は神の時に同じ福音の業をされるからです。過越の祭り、イエシュアの処刑は過越の祭りの日にされたからです。

アヴラハムだけではなく、イサクも復活の命を信じていたのです。その知識はどこから来たのでしょう?神が口頭で同じ神の教えを伝えて教えていたからです。

 

イエシュアを知らないユダヤ人の学者やラビ達が面白い注解を

しています。聖書に記されていませんが、彼らの中でされている

解説です。

イサクは自分で木を運び屠られる祭壇に寝かせられました。

そしてイサクがこう言ったと解説して

Midrsash Tanhuama Vayira 46:10に、こう書いています。

イサクは暴れて足を折らない様にしっかりと縛って下さいと

父アヴラハムに頼んだと言うのです。

出エジプト12:46にある様に、屠られた子羊の足の骨を折ってはならないとあるからです。

 

聖書には書いてありませんが、ユダヤ人は屠られた子羊、イサクが捧げられた事の意味を理解しているのです。それをイエシュアと繋げていないだけであり、将来この事実をはっきり知る人達が

もっと出てくるでしょう。ヨハネ19:6

 

様々な事がパラレル=平行で繋がって記されています。

創世記12章もそうです。

9 アブラムはなお進んでネゲブに移った。
10 さて、その地にききんがあったのでアブラムはエジプトに寄留しようと、そこに下った。ききんがその地に激しかったからである

 

エジプトに下ってそこから引き出される。エジプトは何を意味

していましたか?エジプト=狭い、苦しい、悲しみ、奴隷、束縛を意味する、本来長く住んではならない場所=偽の神々、偽の

自己像、人生設計をしてしまう場所として書かれています。

アヴラハムもそこに降り、引き出されました。

 

そして、ヨセフもそうです。エジプトに売られ、そこで最後は

エジプトの王に仕えるトップに上り詰めました。

ヨセフも来るべきメシアを影として表している人物です。

兄弟達はエジプトに穀物を買いに下っても、ヨセフに気が付かないのです。イスラエルがイエシュアをメシアと気が付けない事と

同じです。

イエシュアも生まれてすぐ同じ様にエジプトに下り、そこで3年過ごして、イスラエルに戻ります。全部パラレルで繋がっています。

聖書には最初から同じ福音=イエシュアの贖いの血により買い戻され神に繋がれ、罪が注がれ新しく創造された人を受け取り生きる、同じ神の教え=新しく創造された人達は、本来神が創造された神の似姿を生きる事が教えられています。

 

歴史の中で起きた神が選び出している特別な出来事を通して、

同じ福音を人々に伝え教えているのです。

最初から屠られた子羊の意味を教えられている。それは様々な方法で神は語られたと書いてあります。最初は神の口から直接語られ、アダム、ハワ、ノアやアヴラハムの様に神の言葉を聞いて

神のトラーを理解し人々に同じ様に教えたのです。創世記26:5にアブラハムは神の教えを理解しそれを生きた事が書かれています。イエシュアが語られた通りアヴラハムはまだ地上に来られないイエシュアを遠い未来に見て喜び楽しんだとあります。同じイスラエルの神=イエシュア聖霊は内側に住まい、同じ神の言葉を教えられて生きていたのです。口頭で伝えられた教えを、預言者を通して語られたのです。

そして、モーシェを通して神は文字として神の言葉を婚姻契約の証拠として書き記して与えて下さったのです。誰かが言った言わないでは永遠の神の言葉、神が語った証拠にはならないからです。そしてイエシュアが地上に来られたのも同じです。永遠の中に既に完了している贖いの業を実際に地上に来て証明して下さったのです。

そして終わりの時代に、トラーに記されたイエシュアの実態を

イエシュアは実際に地上に来られて生きて見せて下さったのです。だから誰もイエシュアの様な生き方をする人間を見た事がないからです。

イエシュアはヨハネの福音書の冒頭に記されている様に、神の言葉が肉体となって来られた方であると書いてあります。

トラーが肉体となって現れ出たと言う意味。だからイエシュアは

1世紀に”ハ トラー”Theトラー=The神の言葉=モーセの五書

をそっくりそのまま生きている、生けるトラーと人々から言われたのです。

イエシュアが永遠の中でされた完了の業は、トラー、預言書、

諸書に記され、1世紀当時の人達はイスラエルで肉体を取って

来られたイエシュアに遭遇したのです。全員がイエシュアに出逢った訳ではないのです。

今週の聖書朗読の預言書はエゼキエルの乾いた骨の箇所でしたが

神の言葉に皆励まされたシャバットの学びの時でした。

神の言葉は人を生かす命のパンであると書いてあります。

いつかイエシュアが再び来られたらエルサレムから実際に王の王

として世界を統治し、皆が神の教え=トラーを生きる時が来る、

それがエレミヤの31章にある新しい契約=再更新される中身は

モーセの五書、イエシュアが2000年前の過越で言われた

”新しい契約”です。砕かれたイエシュアの体、マッツアで表された新しく創造された人をこの種無しパンの7日の後、ずっと生きて、7週、7回のシャバット、穂を数える7週=新しくされた人を考え生きて、春の最後の祭りシャブオート=ペンテコステ

婚姻契約をシナイ山で受け取った祭りを迎えるのです。

 

イエシュア昇天後、弟子達がガリラヤなどに帰らないで、次の

都上りの祭り=シャブオートまでエルサレムに留まりなさいと

イエシュアに言われた過ごした時期が今の時期なのです。

 

続く