人造宗教=4世紀に正式にローマ帝国により制定された新宗教、
ローマ教=カトリック、又はカトリックから派生したプロテスタントの一部のグループは今の時期を四旬節と言う名前を付けて、イースターの日までこの時期を過ごします。今年は2月22日水曜日〜4月6日木曜日です。
これは聖書の教えではなく、カトリック教と言う宗教の作った教え、暦です。異邦人クリスチャンの大多数は、2世紀以降ローマ教に移行したので、異邦人達は神の創造されたオリジナルの
記念日の全てを祝う事をやめてしまいました。その代わりにローマ=西洋人異邦人が後から作った記念日を祝う様になったのです。神が古い呪いの律法が廃れたとか、古い記念日は祝うのを
やめよとか、ユダヤ人だけオリジナルを祝いなさいと神が言ったからではない!と言う永遠の事実にまず気が付いて下さい。
カトリック=プロテスタント共通して祝われる記念日は、日曜礼拝、イースター、クリスマスです。カトリックは万聖節を11月1日に彼らの宗教文化的に改良して祝っています。万聖節も元々その裏にあるものは異教神の祭りであり、土着した大衆宗教の
祭りをカトリックの伝道に使う目的でリニューアルし、自分達の信条に塗り替えた祭りに作り変えたものです。
異邦人に定着しているローマ宗教が編み出した祭りの中で、
万聖節とクリスマスには異教神信仰の祭りが由来土台となっているものです。
日曜日礼拝は、神の聖別された週1度の記念日、第七日目、
週の7日間の中で唯一特別な名前が付けられている”シャバット"
それが神が創造され聖別された正真正銘の週1度の安息日=シャバット=止まり祝う日を、カトリックが日曜日に変えたのが
日曜礼拝です。それを主日礼拝、主の日、聖日と呼んでいますが、神は日曜日は普段の日=労働日、活動日、創作する日と人に伝えています。主の日、聖日とクリスチャンが言う日曜日は神が聖別した日ではなく、人間が自らの考えで勝手に聖別した日としているだけです。
神の言葉=聖書に書かれている事を無視したら、何が本当か何が嘘か見えなくなります。日曜日は主の日ではありません。
カトリックもプロテスタントも神の言葉を曲げています。
安息日=シャバット=第七日目を覚えて聖別せよ!と神の語られた真実があるのに今は”関係な〜い”と言ってその様に神の言葉とは違う事を実践しているのです。
神は神のシャバットを変えていません!神は嘘は付かない、永遠に変わらないものを変わるなどと言う嘘は言わないからです。
シャバットの事実ー神が1〜6日に創造の業を成し遂、7日目に
止まられたから、人も同じ様に生きて働いて7日目に止まると
言う神のデザインは変化しないからです。それとも聖書には神は
第一日目に止まり、2〜7日目で全てを創造されたと書かれていますか?真実は何!?と言う質問を聖書に照らし合わせてして自分に対して問うてみたら良いのです。書いてある事と実践が
ずれているのに絶対に気がつくはずです。聖書に書いてある通りに正直に読めば。
シャバットの意味を神の創造の事実から人に伝えているのです。
その意味を変更したら神が人に伝えている真理は伝わらなくなります。
神の創造された記念日を西洋異邦人達は1世紀後半から、日曜日に変更しようとする主張をし、4世紀にローマ帝国新興宗教を作った際に正式に彼らローマ教の週一度の記念日=日曜日に決定すると、人間が決めた記念日です。
でもそれは神の創造された聖別した記念日ではありません。
聖書に記された事実にだけ目を止めると、神が伝えている真実が
自分の中に伝わってきます。伝統の教え=人が神の言葉を付け足し差し引いた教えだけを聞いていたら、神が神の教えを変えたと
人の言葉に騙されて勘違いしてしまうのです。
キリストの誕生の事実は聖書に記されていますが、これは記念日として誰一人として祝っていない日です。キリストの誕生日を祝いなさいと言う仰せも神は1度もしていません。1世紀聖書に登場する使徒達やユダヤ人信者達、異邦人も誰一人キリストの誕生日12月25日を祝った記録など1つも記されていません。神は最初から神の永遠不変の記念日を神の暦、記念日のスケジュールを人に知らせているのです。それを読まない、神の伝える永遠の真理、意味を理解しないから分からないだけです。
レビ記23章。神が特別に聖別された時=いつが神が神の子らを呼び出している記念日なのかが記されています。
そして12月の25日がキリストの誕生日(ロシア正教は1月7日)と言いますが、キリストが誕生した日がいつか不明なのに
その日であると決定したのは、この冬至の時期に土着宗教、異教神信仰の祭りが既に数々存在していて、その異教徒異邦人一般大衆に定着している異邦人の祭りに便乗する形で、この12月25日をキリストの誕生日であると勝手に人が決めてそれが伝統で
恒久的に定着、祝われ続けて今は西洋文化の季節の祭りとして
祝われている要素が大きい世界的な記念日、クリスマスとして
存在しています。世界の大衆の多くはクリスマス=キリストの
誕生日とも認識していません。サンタクロースを想像している。
イースターは、読んでも分かる通り、聖書に由来のある名前ではない、ヘブライ語の名前でもない、異教神の名前から来た名前です。
救い主の復活の命を祝う記念日は、最初から春の過越の祭り〜
4つの祭りの中の1つにあるものなのです。それをイースターと
言う名でその日を呼ばないだけです。メシアが地上に来られる前から、復活の命=新しくされた人の実態を生きる事を春の4つの祭りの中でずっと復活の命=新しく創造される事実を最初からずっと教えられ続けているのです。
これをカトリックがイースターと言う名前で、単独に復活を祝うと言う記念日を4世紀作りました。
これも異教神信仰の祭りと関連があります。
クリスマスは冬至の時期、これから日照時間が長くなる日を祝う
太陽神信仰に基づいた記念日です。日本でもどこにでもある様に
天体を拝む土着地場信仰。全ての異教の神々の大元はエジプトの太陽神ラーに繋がるものです。
クリスマスは12月25日とフィックス、設定されて毎年同じ日として祝っていますが、イースターは毎年春分を境に日程が決まるのです。つまり春分が来て、最初の満月が来たすぐの日曜日が
イースターであると決めているのです。すぐの日曜日。曜日はいつも日曜日です。日曜=元は太陽神の記念日、ローマ皇帝を崇拝する記念日だから、日曜日。復活したであろうと想像している
日曜日と重ねて元からあったローマの土着宗教ー太陽神の記念日と重ね合わせたからです。
聖書の暦の神の春の祭りである過越とイースターが時々重なるのです。なぜなら過越は聖書の暦の第一の月の15日、満月になる頃が過越の祭りの開始だからです。イースターは満月の最初の日曜日だから、日程が近くなるのです。
聖書=神の言葉、神の伝えている教えでは、聖書の暦の第一の月の15日が過越の祭りです。この日は、2023年のグレゴリオ暦では、4月5日の日没になります。4月5日の午前12時頃、
これは東海岸の時刻ですが、満月になります。
聖書に書かれている預言者、イエシュア、使徒達やユダヤ人、
イエシュア信者のユダヤ人達、極々少数の異邦人達が祝っていたのは、人が作った宗教の記念日ではなく、神の創造されたオリジナルの記念日です。
ハヌカとプリムはこのレビ記23章の記念日とは異なる性質の
祭りですが、プリムはエステル記に書かれている通り、ユダヤ人達が伝統的に祝う祭りとあり、神がユダヤ人全殺戮ーヒットラー
がマルチンルターの考えを取り入れて、ユダヤ人は消滅することは神の御旨であるとホロコーストを実行した事と同じ事を考えたのがエステル記に記されているハーマンです。
結局自分が企てたユダヤ人全殺戮はことごとく神により阻止され
モルデガイを処刑するために用意した木に自分がかけられ
そして10人の息子全員処刑されたと言うのがプリムの祭りの裏にある事件です。ハヌカはギリシャ帝国によりエルサレムの神殿が異教の神々の偶像と、汚れた動物=豚を祭壇に捧げ、ユダヤ人達も食してはならない汚れた動物=豚を食する事に参加強要され腐敗した事から、マカバイ戦争が起きて、結果エルサレムの神殿を取り戻し、再びきよめて神殿を神の前に再奉献した記念の祝いがqの祝いなののです。でもこれはレビ記23章に記された神の創造された記念日とは異なる性質の祭りです。
レビ記23章に記されている記念日全ては福音を網羅し、イエシュアご自身の業を表し、そして預言的祭りであるものだからです。
異邦人クリスチャンは、日曜礼拝やクリスマス、イースターが
復活以降神の定めた記念日であると考えていると思いますが、
シンプルな事実は、それらは単に宗教=人が編み出した記念日なのです。
聖書に書かれた神の言葉で教えられている内容と、人が作った
宗教の教えや祭り、伝統で継承されているものとの違いをはっきり把握する必要があるのです。
そして、日曜礼拝や、クリスマス、イースターは聖書が閉じられた後生まれて徐々に定着したものであり、聖書に登場する人達はそれらのローマ・カトリック宗教の教えなど1つも知りませんし、それらが神の教えや祭りだと言う認識などしないのです。
イエシュアが再臨され地上のエルサレムから世界を統治する時が
来たら全ての人はレビ記23章を祝い、クリスマスやイースター
日曜礼拝など祝わなくなるのです。ぜカリヤ14:16−21
最後は神の名=実態は1つになり、教えは1つ、1つ教え、記念日を生きると書かれています。偽の教えを売る商人は消えるから
です。
ペテロがローマ教皇の第一番目の人に選ばれたのだと私は勘違いしていましたが、聖書にはローマ・カトリック宗教や、ローマ法皇など記されていません。全部人間が作ったシステム、宗教の中での様々な規定や決まりや教えや祭りや諸々の教理、神学です。
前回の記事に書いた通り、聖餐式もカトリックが作ったものです。オリジナル本物は、過越の一連の中で教えられているもの
です。だから聖書をちゃんと把握していないと、人が作った教えと神が教えている内容がごっちゃ混ぜになって区別が付かなく
なってしまい、聖書に記されていない教えが聖書だと勘違いするのです。
自分が大事に伝統で守り生きてきた事と違う事を突きつけられてしまうと、まずは反発を感じます。1つは聞き慣れない事は
全部異端ー異物であると即座に考えるからです。しかも、復活を祝う、誕生を祝う事の何が悪いの?と思いますよね。何も悪くないです。でも神の仰せではない、日程も違う、裏には異教の神々の祭りが土台としてある異教祭りとの混ぜ物です。そして神が伝えている神が永遠に覚えて実践してと言う教えや、神の子らが皆で祝う永遠不変の記念日を全て捨てて人が編み出した別物を祝う事がどうして神の前に正当であると考えられるのだろう?と言う事までに考えが及ばないものなのです。
私達神の子らは神の言葉=教えを生きる様に教えられていて、
宗教=人の作った教えを生きよなどと教えられていないからです。人は自分の中にない考えは受け入れ難いものなのです。
15年前以前の私は、古い教えはユダヤ教で新しい最新式教えはキリスト教。旧約聖書は古いもので、新約聖書が何より優れた教えが書かれているなどと言う事を本気で信じていました。
でもちゃんと聖書に記された通りを学ぶ人達は、2つの分断した神の言葉=教え=聖書と言う概念こそが、神が伝える真実ではないと発見するのです。よっぽど人間が編み出した神学、デイスペンセーション神学に頭脳が占領されていれば、ヘブライ語聖書を読めたとしてもずれた思想で考え続ける事は可能なのです。
世界にはずれた思想を語る教えは無限に実在しています。
ユダヤ人とて、聖書を書いてある通りに学ばないで聖書とはズレたラビ達の教えを継承し信じて、相当ズレた思索、神秘主義の様な変な聖書の読み方をする人達もいるのです。
だから注意して、何が聖書に書かれているのか常に学び把握し
ないとならない事は必須なのです。
体は1つで体の中にはたくさんの器官があるとパウロが説明している様に、神の家族も1体であり、そして聖書も同様に1つです。切り離して考えている限り書かれている事が見えてきません。
これから過越の祭りが来ます。実際にエジプトで起きた出来事と
イエシュアの業、そして一人一人の人生でイエシュアに出会い
贖い出され救い出された事実と、地上でのあゆみもぴったり
この過越ー出エジプトー荒野の40年の旅路と重なるものです。
しかも、神の定めの記念日ー祭りとぴったり重なります。
イエシュアが処刑されたのはいつですか?2000年前の過越の祭りです。イエシュアが復活されたのはいつですか?
過越から始まる種無しパンを食べる7日の中のちょうど真ん中、
”初穂”を捧げ祝う日なのです。新しくされる命、イエシュアの
贖いの業は初めから教えられているのです。預言的祭りが神の記念日なのです。
しかも、エデンの園を出た時から同じ福音が伝えられているのです。聖書の最初の数行で全てを説明出来ないから、最初からイエシュアが伝えられていないと考えるのですが、最初から全部
口頭で神は人に同じ教え=同じトラー、福音を伝えているのです。
創世記3:14主なる神は、蛇に向かって言われた。
「このようなことをしたお前はあらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で呪われるものとなった。お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。
15お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕きお前は彼のかかとを砕く。」
続く