イスラエルの神はシャバットを人のために造られた | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

日照時間が長くなって来た事を感じる時期であり、外が明るく

なって来ました。もうすぐ過越の祭りが来ます。この時期に出

エジプトの一連の事件が起こり、2000年前の過越の祭りで

イエシュアが処刑され昇天されたのです。神の定めの時に神が特別な事、預言的出来事を執行されています。

 

時は神が造られたものです。神の被造物は神が創造されたものを無から作りだせないし、時など作り出せません。神が造られたものの中で、神の定めた時の中で人は生きる様に造られています。そして神が造られた場所、この地上に生きています。

神は時と場所を聖別されています。これは人が勝手に決めて勝手に聖別する事が出来ないのです。だから勝手に神の聖別=聖日=

主の日を人が変更することは永遠に不可能なのです。そして神は

神の聖別された日を異邦人クリスチャンが主張する様に歴史の

途中で変更などしません!していないし永遠にしないと書かれています。

時=神が定めた特別な時=主の日と言われるものは、神の記念日と神が特別な事をされる時を指して使われています。

主の日=聖日とは聖書では日曜日の事ではないのです。

 

創世記の初めに神は神の時=定めの時=モアデイムを司るために

天の万象を創造されたと書いてあります。

定めの時=モアデイムを”季節”と言う言葉で訳されていますが、もちろん1年を巡る季節はありますが、それらは神の定めの時を中心に巡っているから季節と訳しているのでしょう。

でも、神は月、太陽、星を神の聖別の時を司るために造られたと人に伝えています。

 

神の聖別された時は、人が決めて定め決定する事が出来る性質の

ものではありません。

シャバットは、神が聖別された週一度の聖別された日であり、それは第七日目。神は第一日目に休まれて第二〜第七日に創造されたと書いてありますか?神は1〜6日に創造の業をされ、第七日目を止まられ、その日を聖別され全ての創造物が揃い初めて祝った日、第七日目=シャバットです。週の日で名前が付いているのは第七日目=シャバットだけです。特別な聖別された日だから

特別な名前を神が付けているのです。

そして月一度の聖別された日は、新月の時。そして一年の中で春には4つの神の祭り、秋には3つの神の祭り、合計7つの祭り〜

神が聖別された特別な記念日があるのです。レビ記23章。

これらが福音=イエシュアの業、神が特別な業をされる定めの時

祭りであり、神の子らはこれらを永遠に代々に渡り祝うものであると神が伝えています。

 

そして神は場所を聖別されました。聖別された神の宮、神の宮に属する全て、そして神の宮である神の創造された神の子らを神が聖別しています。

神の宮の中の祭壇、神の家の中の一番親しい場所、神と神の子らが交わり集う場所で捧げられる動物も聖別された動物=レビ記11

章に記されたきよい動物だけです。この動物も祭壇でBBQされた後、人々が共に食するものなのです。神の家の祭壇に豚を持ち運ぼうとしたのは神の宮を汚そうとして異教徒だけで、神の子らは

その様な神の言葉に反する振る舞いはしないのです。神の家に入るにはどう言う状態であるのかが神が伝えている言葉で細かく記されているのです。神の言う事を無視する代償がはっきりと聖書には記されています。神の宮である自分を神の言葉を無視して

神の言葉に反して敢えて汚したいと考える人はいるのでしょうか?神の言われることが永遠に真実だと理解していないから、

平気で神の言う事を破る事が今は正義、恵みの生き方であると

勘違いしているから神の言葉に無感覚なのです。神の言葉を変形したエデンの園のあの動物の騙しの教えを聞いているから神の声がそのまま届かず曲げられているのです。

 

神を愛すると言うならば、神の言われる事=言葉=教えを何よりこよなく愛し真摯に受け止め大事にして神が教えて下さる通りを生きる事です。神を愛する事と神の言葉を生きる事は二つに切り離せないものです。もしあなたの妻、夫、子供が、あなたの言う事を軽くあしらい、ことごとく無視し自分の勝手ばかりをしていたらそれは愛の形が行動で全く現れていない事を示しますよね。

相手の言う事を無視する、無いものとすると言う行為は、相手を重要視していない、バカにして軽くあしらっている態度気持ちを表す事です。

神が伝える愛の定義とは、モーセの五書の中に神が教えた生き方を生きる事、それが神が伝える愛の定義の全貌だからです。

愛の定義はモーセの五書に記されている全貌であり、だからイエシュアが愛がすべてのモーセの五書の教えを網羅する大事なもの

であると言われたのです。

福音書以降に記されているイエシュアが語られた言葉、教え、

パウロが解説する教えは、100%モーセの五書です。知らない間に異邦人クリスチャンも律法と呼んでしまっている神の教えに

触れて生きている事になるのです。

 

神を愛すると言いながら、同時に神の言葉を無視する行為=これは意識的、無頓着=考えない、注意を払わない、軽視=これも意識的、考慮しない=考えない、自分に関係があると思わない事。

神の言葉は無用、不要、古い、縛り、呪いの律法、この様に考える事自体が、神を愛すると言う状態からズレていることは明らかです。神が人を守ろうとして教えているのに神の言葉を無視したら危険にさらされているのにも気がつけないでいるのです。

神の考え、思い、意図を人間がまるきり勘違いしているのです。

全ての問題の根は最初、エデンの園に戻り繋がる問題です。

神の言葉を曲げる、無視する、軽く見る、言われた通りに受け取らない、神の言葉を退ける事により死が人の中に入ったと言う事これは全ての問題の根であるのです。それにより神と人との分裂解離、元の状態が壊れてしまった、そして今も破壊され続けているのです。

シンプルに単純に、どうして神の言う事を人が勝手に曲げて

教えを作り替え続けていることが正当であると考え主張しているのだろう?と言う単純な疑問を持つべきなのです。

神の言葉を曲げると言う行為がもたらす事は、神が全ての上にあり全ての権威ではなくなる事であり、人が神の上に立ち、神の権威を乗り越える事てあるべき状態に生きられなくなる事、神ではなく、人が中心になり支配してしまうと言う事なのです。

エデンの園から飛び出した人達はずっとこれを今に至るまで生きているのです。

 

ヨハネ14: 21わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」 

22イスカリオテでない方のユダが、「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と言った。 

23イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。 

24わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉わたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。

 

これは聞いた弟子たち、当時のヘブライ人はわたしの言葉=父の言葉=モーセの五書=シナイ山で神が直接語られ神が刻まれた

石の板に記された言葉で表されるトラーである!と言う事実を

知って聞いているのです。イエシュアは今まで誰も聞いたことの

無い教えなど1つも語らなかったのです。父の言葉を語っている

モーセの五書を語っているのです。だからトラーを聞いている

”イスラエルの失われた羊の所にだけ遣わされている!”とイエシュアは言われたのです。神の言葉を理解しない人達の所に行っても通じないからです。

宗教とは人が作ったものであり、それは聖書の要素を混ぜたりしても、ある箇所が人の教えで占められていたらそれは宗教の教えなのです。

神は神の純粋な言葉を求めて生きよと言われました。

”わたしを求めて生きよ” ”誰もわたしを求めない”とは空想の偶像を求めるのではなく、神が伝える人間の生き方、神の教えを求めて生きよ!と伝えているのです。

 

私は15年前までは様々に人の教えを聞き続けて、それらが神の教えだと信じ込んでいました。聖書に照らし合わせてそれらが神の言葉ではないと言う識別する知識がありませんでした。と言うか人の教えが聖書であると洗脳されていたからです。神の言葉は古く無用で人を苦しめて縛るものであるので、それらの厳しい教えからイエシュアが解放するために来て、今度は聖霊と言うものを神が人に与えて今までの教えから解放して自由に生きられる様にされたなどと教えられて来ました。

これらの教えは全て人間が作った宗教の教えであり、純粋な神の言葉とは全く異なる思想です。

オリジナル、本物の神の言葉=原典聖書に書いてある通りに戻らない限り、神が人に何を伝えているのか発見する事は不可能です。半分嘘、半分本当、エデンの園のあの嘘をつく動物と同じく、どこからどこまでが神の言葉でどこからどこまで神の言葉では無いのか、その見分けは神の言葉を知らなければ出来ない事だからです。

神が言われたら永遠に真実です。神は人に伝えた教えをうっかり不注意にその場しのぎに発言しているのではないのです。

神は完全なお方だからです。

聖書には日曜礼拝もクリスマスもイースターの祝いもローマ教皇=ポープの名、幼児洗礼<男子誕生8日目にする割礼の代わりに変えた>や、月一度の聖餐式<過越の祭りの晩餐でした儀式を

タネありパンに変え、そして毎月1回行う儀式に変えた>と言う儀式も記されていません。それらは西洋宗教の教えから生まれたものであり、聖書が語っているものではないのです。

 

しかも人間が神を超えて権威になる事など出来ないし、神の言葉を捨てて、人間が今は勝手に自由にどの教えでも選んで生きて良いとか、どの日も今は安息日になるなどと言う教えは聖書とは無関係の宗教創作の教えだとはっきり聖書から知る事をお勧めいたします。それらは異邦人、人間が作った教えや記念日であり伝統により実践され継承されて恒久的に定着しただけであり、イスラエルの神に属する教えや記念日ではないのです。

 

人間の気持ちや動機が熱心なら神は何でも受け取る受け入れると言うならそれは危険な神であり偽物の神です。それは人間中心、偶像礼拝の根。捧げ物が良ければ神々は重い腰を上げてその捧げ物を見に来て気を変えてくれるかも、それが偶像礼拝の真髄、

人間の努力が中心の宗教なのです。

それならば人間の努力でたくさんの宗教を作りたくさんの教えを

作り、神を礼拝する、あのシナイ山の麓で何千にも殺されてしまった金の子牛を通してイスラエルの神をそれぞれの思いで礼拝することと全く同じ性質の事を繰り返しているだけなのです。

 

人間の考えを通して神を拝む。れが麗しく努力の賜物に見えても神が伝えた事と違う事をする事を神がどれほどそれらを忌み嫌い禁じているのか、神の言葉から知れば見えてきます。

神が言われた通りに神に近づいて!と神は言われたのです。

それ以外は遺伝子改ざんで本物が現われでなくなってしまうから、禁じているのです。偽物ばかりを見たら何が本物なのか見分けられる識別力が身に付かなくなってしまいます。

これはアロンの息子達のした事、惨事でも教えられています。

 

今の時代は真実に基づき考える事を本当に教えられている終わりの時代です。嘘が世界に充満し表面化しているからです。

だから神の言葉、静かに流れる小川のせせらぎの様に小さくても

神の言葉を通してうちなる声が神の言葉通り聖霊により教えられるからです。これを頼りに人は生きる様に造られています。

神の言われた事を全部理解出来なくても神が言うなら真実であると認め、実際に神が言われた通りにする人は、神が特別な方法で出会い神が伝えよう、教えようとしている真実を教えてくださいます。探し続けなさいそうすれば見つかると言われています。

 

神の言葉に無頓着にさせられる意識を放り込まれる代償は、

自分が誰か分からなくなる、神が教えられている事が見えないままになる、神との親しいに隔たりが出来てしまう、疑いが放り込まれる、元の状態、元の関係、人と人、神と人との関わりが分からなくなる事です。

命に匹敵すると神が言われた聖別された日に神と特別な方法で

出会う事は、神が言われた通りをしてみる事から始まるのです。

聖書に登場する人達、ノア、アヴラハム、モーセetc神が言われた通りをした!と言う事に注目してみて下さい。そして神が言われた事と違う事をしたらどうなりましたか?神はイスラエルが辿った歴史を通して人に神の教訓を教えているのです。

神が言われたからそうする。神の言葉は歴史の途中で変わり、

人の教えにすり替わる事など永遠にありえない事です。

 

誰の声を聞いて生きているのか?と言う問いを神から今もこの時も問われています。人の教え?それとも純粋な神の言葉、教え?

神が与えた婚姻の印がシャバットです。婚姻関係の中にある印=シャバット=婚姻指輪の様に目で見て分かる生きて表す印。それを受け取っても放置し、捨てる事をするのか、それとも大事に大事に神が言われた通りその婚姻の印、イスラエルの神の子らである印である聖別された時を生きるのか、それは個人の選択です。

 

ユダヤ人だけが神に造られた人間で、ユダヤ人だけがイスラエルの神の子らではないのです。神の創造された人達、異邦人含め

家畜、動物、使用人、どんな職業であれ、この日はシャバットとして止まる日であると書かれています。

異教の国々は止まる日ではなくビジネスは続行し、勤務や夜勤の人もイスラエルにもいます。でもこの日がどんな日であるのか、24時間の中で必ず止まり聖別する時を取る事は出来ます。

土日が休みと言う人の方が多いですから、金曜日の日没から

止まる準備を前もってし、止まる時、修復の時、交わりの時、

そして神の言葉を考える時を持つ事は誰でも出来るはずなのです。

 

 

Shabbat Shalom