申命記4:2あなたたちはわたしが命じる言葉に何一つ加えることも、減らすこともしてはならない。わたしが命じるとおりに
あなたたちの神、主の戒めを守りなさい。
2あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心に
あること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。
申命記8:3主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。
申命記の父の言葉からイエシュア悪魔の大御所と対決しました。
マタイ4:4
この箇所で神が苦しめられたと書いてありますが、イスラエルと少数の異邦人が荒野で試され訓練され神からズレた生き方が何なのかを教えられたのは、神の言葉を無視した生き方をした時です。もし神に介入されず訓練されないままそのまま神から放置されていれば、彼らは危険が何か分からないのです。この箇所を読んで、怒りの神はユダヤ人達に生きれない律法を与えたのだなどととんでもない解説をしてる異邦人クリスチャンの解説がありますが、本当にその様な浅はかな読み方をしていたら、イスラエルの神を完全に誤解したまま行き、そして神が伝える真理はその人の耳に頭脳に届かないままになります。
神は2000年前までは、人の生きられない律法と言うものを与えて、イスラエルが神の教えを生きられない事を徹底的に教えたと言う教えをいつも聞いていましたが、申命記に記されている神の言葉が伝える真実を完全に誤解している解釈です。
神の目的は人を苦しめるためだなどと読み違えているからです。
怒りの神=怒りの時代=恵がない救いが無い時代などと考えているから神が伝えている真実が見えてこない、本物のイスラエルの神像、本物の羊飼いの声。
そのイスラエルの神像=その人の中にある想像の神像は意地悪で怒りの神と言う思想があるからなのですが、イスラエルの神は愛、慈しみ、許し、恵に富む神と言う別の神像を紹介されています。
詩篇119篇は一番長い箇所ですが、その中に書かれていることはモーセの五書=トラーに関しての賛美です。
ぜひ通して読んでみてください。神の古い教えが律法と言うならば、詩篇も箴言も全て同様に古い律法です。福音書〜黙示録も
全部同じ要らない律法になります。聖書には同じ教え=モーセの五書=父の教えしか記されていないからです。
詩篇、箴言はモーセの五書の知恵をいかに生きるか、神の教えに
対する賛美だからです。
聖書は100%どれもモーセの五書を指して語っている以外に
別の教えなど記されてなどいないからです。
福音書以降に記された短い教えも100%モーセの五書です。
知らない間に律法律法と言いながら、律法の片鱗=福音書以降を新しい教えと勘違いしているのです。山上の垂訓など申命記そのものであり、イエシュアがトラーを解説していることにも全く気が付かないでいるだけなのです。異邦人クリスチャンがイエシュアの教え、山上の垂訓を読んで、モーセの五書、申命記をイエシュアが語られている、民数記が記されている、出エジプト記をイエシュアが解説されているとなどと夢にもつゆにも考える事はないと思います。
申命記8:5あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい。
6あなたの神、主の戒めを守り、主の道を歩み、彼を畏れなさい。
詩篇 119:71
苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。
私はそれであなたのおきてを学びました。
ヘブル12:5また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。
「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。
6なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」<申命記4:9−10、8:5>
7あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。
8もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。
9更にまた、わたしたちには、鍛えてくれる肉の父があり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるのが当然ではないでしょうか。
10肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。
11およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。
人は危険な状態=神の言葉を無視した状態にある時に、困難が
無い状態なら、無頓着に生きて危険状態である事に気が付かない
のです。神の性質を生きる事に引き戻される時は、無頓着に生きて危ない事を知らせるそれが困難の意味でもあるのです。
イエシュアが究極の生贄であり、イエシュアの血以外に動物の血=代替えでは人の罪を消す事は出来ない!と言う永遠の真実が
聖書に記してあるのです。ミシュカンの中で行われた一連の儀式動物の捧げ物は罪の仮の赦しのためにしていたのではないからです。
同じ福音=イエシュアの完了の業を音声で、画像で、体験で
実体験学習する場所=それが神の家の中で教えられたのです。
現代の人より、古代の人の方が贖い、救い、罪注がれる、新しくされて神の前にさっぱりすっきり陰りなく立てる事の意味を
ずっとずっと深く知っていたのです。ダビデの告白でもそれがよく分かるのです。福音は1つ。救いも1つ。新しく生まれ変わり神の元に再び取り戻され繋がれる、イエシュアを通して以外の別の方法などこの世に存在しないからです。
ミシュカンで教えられた事を、それに参加する人が個人個人どれほど理解していたのか、来るべき救い主イエシュアを通して贖い出された事実をモーセの五書からその個人がどれほど、どれだけ理解して把握していたのか、その違いがあるだけです。
出エジプトの一連の出来事で、イエシュアの業が語られているのです。屠られた子羊とは何?あのエジプトの家の鴨居に塗られた子羊の血、イエシュアの過越の贖いの血は最初から教えられているのです。
どの人種も、どの時代でも、人が聖霊により目が開かれて、神の伝える言葉を理解するのかしないのか、その違いだけなのです。
神の言葉は神の口から、エデンの園の最初から同じ福音が語られ続けているからです。
ユダヤ人は特に神の定めの時=祭りの時に救い主が現れるといつも待望していました。今でもそうです。タナックに記された救い主を知っていた。でもその救い主が実際に地上に来られた時、
自分達の想像の救い主とは違う=ローマ帝国から救い出してくださる王として統治すると弟子たちも考えていて、それをイエシュアに質問しています。だから、霊の目が開かれて救い主であると気がついた人、そうではない人がいたのです。
でも当時のイエシュアを救い主と信じた人は殆どがユダヤ人です。そしてその数は膨大な数だったのです。
神殿が崩壊された後もパリサイ派が主流でその中に居たユダヤ人イエシュア信者達は神殿が無い状態で、救い主を神の祭りの中で
教えていた痕跡があります。これは過越の祭りの晩餐の中にも
見られる事です。
異邦人クリスチャンの中には、ユダヤ人が救われれば救い主が
到来すると信じて熱心にユダヤ人が救われる様に祈っている多くの人達がいます。動機は正しいかどうか別として、ユダヤ人が
救い主を知る様にと祈るならまず知らなければならない事があります。
人の作り出した教え=西洋宗教が語る、”救い主”像があまりにも聖書の中に記されているオリジナルの救い主像=イスラエルの神の性質とかけ離れた事を異邦人が信じて主張している事、その事に対してユダヤ人は、異邦人が語る救い主を聞いて多大に誤解している事を知った方が良いと思います。時代ごとに変化する神
怒りの神、恵みの神、変化する神の教え、神の言葉などなど、
それらの教えは神の口から出た言葉ではない人の教えです。
様々に神の教え=言葉を異邦人は変形させて来ました。神の言葉はもう生きなくて良い、必要ない、不要、無用、廃れた、神の記念日も終了として、別の教えや、別の祝いを作り出して伝統的に祝っている。これらを、同じイスラエルの神から出た真実ではないので、その様な教えは聖書に記されていない偽物の救い主と
イエシュアを知らないユダヤ人は当然のごとくそう受け取り認識するのです。
だから、聖書に書いてある内容を正しく理解し、神の本来の言葉通りに戻る軌道修正を異邦人の側でもしなくてはならない課題が
ある事にまず気が付く事です。聖書に書いてある通りに正しく神の言葉を把握、認識、理解し、正しい福音を伝える、神が伝える通りの神、神の言葉=永遠不変である事をまず知る必要があります。偽物のイエシュア像にユダヤ人が拒絶反応しているのです。
その他、特に西洋人の世界ではユダヤ人迫害の歴史があるので、イエシュアは迫害のリーダーかとまで思われている。西洋人が
ユダヤ人はイエシュア殺しだとも主張する。様々なズレた思想が
人に対して大きなつまづきの岩を与えている事実を発見しないと
ならないのです。イエシュアはユダヤ人としてイスラエルに生まれたのです。私達はこのユダヤ人であるイエシュアを通して同じ
イスラエルの神の家族に加えられたのです。この家族は同じ神の教え=トラー=婚姻契約に記された教えを生きる様に召された!
と言う永遠の事実をまず発見してみると神の教えている永遠不変の真実が見えてくるのです。
神の家の一番奥、至聖所=一番大事な場所、重要な場所に、
一番重要な神の契約の箱が設置されました。
この場所に実際に神の臨在があったのです。
その箱の中に神ご自身が掘った契約の石の板2つを入れたのです。神はこの契約の箱から語られると言われその通りにされました。神は自由自在、神の臨在を表す事が可能です。このことを通して、神は人に神は神の言葉から人に語られる事を教えているのです。その神の言葉を捨てよ!?変だと思いませんか?何かが
ズレている=人の教えがズレているのです。大事な場所、大事なもの=神の言葉!永遠にガードせよ!と神が教えているのです。
それは人の命を守るものだからです。
この箱の上の蓋 チェラビムが乗っている蓋を”カポレット”と
言います。キプル=贖いと言う言葉です。
神はここから語ると言われました。神は神の言葉から人に語られているからです。命が生まれる、育まれる場所=神の言葉です。
この契約の箱を見る時に、人の体=胎と似ているなと思うのです。神の中に守られて神の命=言葉に育まれて生きる。神の言葉は人を神にしっかり繋ぐための臍帯と同じです。
神の憐れみの中=レヘン=胎の中に居る、神の中に居る。
そして神の言葉で繋がれている。言葉=神。
外は荒れて揺れいても実はいつも現実は神の中に存在している神の子ら。神の中=神の胎の中に守られ神の言葉に繋がれて人は養われる。水の中に居た箱船も同じ事です。