聖書は丸ごと全部で1つの神の言葉、証の書であり、神の言葉は歴史、時代により変化分断されたり途中で変化しない性質ものです。
神イコール言葉と神が解説されている通り、神は変化しない、神の言葉も同様に変化しないと神ご自身が人に伝えています。
でも人間が勝手に宗教の教えを作って、神が伝える言葉とは異なる事を主張発表しているだけです。
英語で”Playing Religion"と言う言い回しがありますが、宗教を
生きるのではなく、神の口から出る1つ1つの言葉により人は
生きる!と神が伝えた通りを生きるのが本来の人間の生き方です。宗教=人の教えを神の言葉=教えの中に混ぜたものです。
純粋な神の言葉ではない、混ぜ物、ミックス、混合物。
主を愛するとは、主が望むことをし、主が忌み嫌うことを避けて
神の言う通りを生きたいと願う事が本来の姿です。
異邦人の世界では、神の言葉を分断して考え、殆どの場合最初の部分=聖書の4分の3を占める箇所に書いてある内容を原典言語から学ぶと言う機会がないのが一般的です。
主が何を人に伝えているのか、これは本当に神の言葉を探り、
求め、学ばないと分からないのです。人との関係でも相手の言う事を聞かないなら相手が何を考えているのか理解出来ません。
今の時代聖霊に教えられれば何でも分かるのだと勘違いしている教えがありますが、それだったら聖霊になんでも教えられるので、何も学ぶ必要はない、何のインストラクションもいらない、学校にも行く必要もないし教師もいらない、考える必要もないと言う事になりますが、これこそが危険な思想です。
人には永遠不変の揺るがない証明=神の言葉が与えられています。世界の全ては言葉で出来ており全ては言葉で伝達されているのです。それは文字であれ、記号であれ、設計図であれ、音符であれ、ジェスチャーであれそれらは言葉なのです。それらをその通りに再現すると、元のものが現れ出てくるのは誰でも知っています。聖書の全ての土台、中心が記されているモーセの五書の中に人の生きる必要な全てが記されています。
イエシュアが語られている教えは100%モーセの五書=父の教えです。
マタイ5:23だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、
兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、
24その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。
25あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。
この箇所を読んでイエシュアがレビ記の教えから話して解説していると考えもつきませんでした。どうして呪いの律法、不必要な教えをイエシュアは人に教えているのでしょう?マタイ5章の
最初にイエシュアはトラーを破棄するためではなく、成就=父の言葉を正しく理解して生きる事を教えるために地上に来られたと
言われているのです。その言葉通り、レビ記の中に記された神殿の中で教えられている様々な事、そしてこれは様々な儀式に関してですが、教えていることが記されています。
神の家=宮=神の臨在が存在する場所=聖別された場所、
そしてそこで本来の姿に戻る事、修復の実態を教えているのです。イエシュアがされた業を教えています。
レビ記はちゃんと学ぶとイエシュアのされた業と人が神にどの様に近づくのか、人は神の前にどう受け取られ、神の目にどの様な姿として見られているのか、人との和解と、そして最後は和解された人達が宴会の宴を囲むと言う事、家族の姿を教えているものです。
祭壇への捧げ物には5つの種類があります。捧げ物はコルバン
”引き寄せる” ”近づく”と言う意味であり、生贄と言う翻訳は本来の意味を表していません。捧げ物全ては神の中に本来の姿に引き寄せられている事実を教えているものだからです。
この捧げ物の1つ1つを学ぶと、どの様に人はズレから洗われるのかを教えられます。このプロセスは、癒しをもたらすプロセスでもあります。神直々のカウンセリングです。捧げ物の動物の内臓を水で洗うと言うのがありますが、これは隠れた場所に潜んでいるズレを表に出して神の前で全て洗い流される事を表しています。ダビデもその事を詩篇に歌っています。
詩篇139:23 神よ。私を探り、私の心を知ってください。
私を調べ、私の思い煩いを知ってください。
24 私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。
1 焼き尽くす捧げもの オラーと呼ばれるものです。
ホロコーストのホロコーストの語源で火煙が立ち上るからそう
呼ばれます。
神が天から直接下された火=これは人がおこす火とは全く違う
性質ものです。人間のものではない神のもの。これが24/7神殿の中にあり、そしてその火で常に祭壇には火が絶えないのです。そこに捧げ物を持って行くのです。この捧げ物は夜通し焼かれます。
この捧げ物は傷、欠損、欠陥のない、牛、羊、山羊、山鳩です。
これらは全てきよい動物です。
きよくない動物は神の祭壇の上に捧げられません。同様に人が
食する事を禁じられているのです。全てこのオラーの捧げ物が基準で一番最初にあるものです。この上に全ての捧げ物がされるのです。
この事実は、神の火により人は既に”純化”されて神に受け取られている事実を表しているものです。人は神の前に義とされている事実から神は全てを人に教えているのです。立ち上る煙、芳しい香り、人が神にどの様に受け取られているのかを目で見て確認できるものです。それは自分がどう感じるかとか、どう理解できるとか関係なく、事実!神が人を贖い出した=偽の主人から代価を払い買取り神のものとしてきよめられた事実は、一方的な神の業=永遠の中にあるイエシュアがされた業があるからそれが事実であると教えているのです。
神ご自身の業により、神が直接下した火によりきよめられて受け取られているからです。
人が起こした火ではない、人の手柄ではない、神の義はイエシュアの完了の業=永遠の中に既に完結している事実を元に私達受け取る全ての人にどの時代のどの人種にも与えられているものです。
2穀物の捧げ物 ミンハと呼ばれるものです。
ミンハ=贈り物と言う意味です。これは穀物の捧げ物です。
焼く(レビ記2:4)、又はグリル(2:5)フライにする(2:7)炙ってシリアルにする(2:8)味付けをする(2:13)甘みがないそして種無し(2:11)焼き尽くす捧げ物=オラーの捧げ物とは異なりある部分だけを焼きます。(2:9)
残りの部分は祭司に捧げます。(2:10)
自発的に贈り物をする、これは神に対する感謝を表す意味がある
捧げ物です。そして初穂、動物の初子を感謝するものです。
(創世記4:4)
3 和解の捧げ物 シャレム=完全、欠けがない、平和と言う意味がある言葉です。
これは、感謝の捧げ物(7:12) 自由意志の捧げ物(7:16)揺り動かす捧げ物(7:30)
動物は、牛、羊、山羊、(3:1、7、12)雄雌どちらでも
欠陥、欠損のない動物。
感謝の捧げ物ならば、あらゆる穀物のパン。シャレムの捧げ物の目的は神の前に祭司に対して神聖な捧げ物として皆と共に囲んで
分かち合い食べるもの、お互いの健康繁栄に対してコミュニテイとして生きる責任を表すもの。
食べるのにふさわしくない動物の部位は神の前に与えられ(7:19ー27)シャレムの捧げ物のあるもののは、大祭司に与えられる。(7:31)この晩餐の儀式を務める祭司に右のももが与えられる(7:32)残りのBBQはその日のうちに参加する人達でフェローシップの宴会で食する。残りは2日後に全て燃やす。(7:17)
4 罪の捧げ物 ハタと呼ばれるもの。
これは、自分が意図しないままズレる、罪に対して捧げられるもの。(4:2ー3、 4:20)
レビ記4:13イスラエルの共同体全体が過ちを犯した場合、そのことが会衆の目にあらわにならなくても、禁じられている主の戒めを一つでも破って責めを負い、(4:22ー23)
贖いの捧げ物はオラー=焼き尽くす捧げ物の要素が入っている。
シャレムの捧げ物(4:26)
これらのハタ=罪、ズレとは道徳的なものだけではなく、儀式的にきよくない状態に対してののですのもあります。ハタの捧げ物というより、清めの捧げ物というものです。この場合捧げ物は
他の共同体の人達と分かち合わないもの。
5 賠償の捧げ物 アシャム
これは罪に対しての責任を問われているものと言うものです。
レビ記5:14ー26
誰かに対して負った賠償、負債を償うものです。
神の家の中で教えられているものは、全て元の姿に修復する事
そのプロセス、方法を神が人に伝えているものです。
多くの場合、心に陰りが出来るのは、人との諍い、いざこざ、
そして正しく相手に賠償、弁償する事を怠っている事で生じるもものです。
賠償は動物の捧げ物ではなく、銀など、負債相当のものプラス、それ以上、気持ち上乗せして返す様に教えられています。
それにより、相手の気持ちが納得し和解が円満に進むからと言う
神の知恵です。
福音書以降に記されているイエシュアの教えは100%モーセの五書=父の言葉から解説しているものだけです。それに付随する
預言書、イザヤや詩篇などからも語られていますがそれは全て
モーセの五書の知恵や、モーセの五書に記された神の言葉に対して違反するとどうなるかの警告、生き方などが預言書で教えられているのです。預言書と聞くと未来預言とすぐに想像させられてしまいますが、預言書の目的は未来に何が起こるのか人が知ると言う目的より、神の言葉=知恵に根付き今をどう生きるかが教えられているそれが預言書の最大の目的なのです。神の言葉に根付かずに生きた時、イスラエルの民に何が起きたのか大きな教訓が書かれてます。ソロモンなど大いなる知恵を神から与えられ栄華を一身に受けていたのに、人生の終わりは異教の神々の教えに染まり悲惨な結末となってしまった、混ぜ物の教えを自分に取り込む事の危険、代償をソロモンの人生の結末からも教えられているのです。
それぞれの時代に起きる事件は違うけれど、問題の根、人の生き方の性質は変わらないからです。
イエシュアが神の家の祭壇に捧げ物をしに行って、その人が人に
恨まれている、つまり問題の根を残しならが神の家の祭壇に
捧げ物をしても、形だけしてもそれは全く何も意味がない事を話しています。祭壇に捧げ物をするとは、人の本来の生き方に戻る事、修復する事なのに、誰かとの未解決の問題を抱えたままそんな事をしても何も意味がありませんから、あなたの問題にまず向き合い直面しそれを解決し、真っ新で陰りない姿で神の前に近づいてと教えています。そして次の箇所もトラーを話しています。
ガラテヤ6:10ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。
これは、申命記に記された教えを話しているのです。
なぜなら同胞には利子を付けて金を貸してはならない事を神が人に伝えているからです。トラーが分からないと福音書以降に記された言葉が単にランダムに適当に新しい教えをパウロが語っているのかなどと勘違いしてしまいますが、そうではなく、イエシュアも使徒もパウロも皆100%彼らが解説しているのは、モーセの五書の神の教えをそれぞれの生活を生きる上で分かりやすく
解説しているだけなのです。
申命記23:20同胞には利子を付けて貸してはならない。
銀の利子も、食物の利子も、その他利子が付くいかなるものの利子も付けてはならない。
21外国人には利子を付けて貸してもよいが、同胞には利子を付けて貸してはならない。それは、あなたが入って得る土地で、あなたの神、主があなたの手の働きすべてに祝福を与えられるためである。
続く