神の家 ミシュカン 神の臨在が宿る場所を地上に作る様に神が言われた | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

出エジプトの中に記されている内容は、全て私達一人一人の人生に起こっている出来事に重ね合わせることが出来る内容です。

 

これから4月5日、2023年の過越の祭りがやって来ます。

毎年神の都上りの祭りの日が違うのは、聖書の暦で行われるからです。聖書の中には、神の記念日が記されています。

宗教=ローマ帝国が4世紀以降作った祭りは、聖書には記されていませんし、その様な祭りを誰一人聖書の中で祝った人達はいません。

 

試しに、日曜礼拝、クリスマス、イースター、ハロウイーン=

カトリックの全聖人の祭り=万聖節が聖書に書かれているのかどうか、調べて見ることをお勧め致します。書かれていると言うならそれは、過越の祭りをイースターと言う誤訳をしているか、

勝手な文章を挿入しているか、誰かが勝手に解釈した注解を入れているかのどれかです。

 

神が創造された記念日は、太古からずっと同じ記念日が祝われているのです。レビ記23章=聖別された時=神の記念日=主の日が記されてそれがずっと現在に至るまで祝われているのです。

 

出エジプトに記されている神のミシュカンを作る過程、そして

モーシェが山の山頂=天が直接降りて来た中に40日40日夜

滞在していた間、麓に残された人々は不安になり、自分達の手で金の子牛を作り出す提案をしそうします。しかも大祭司の家系になるアロンまでそれに参加してしまいます。

何千と言う人々がこの事件で命を失うことになる大惨事でした。

ヨム キプルの時期の出来事と一連の事件が重なります。

<出エジプト32章>

そして34章では、神の名、神の性質、13種類の名を神が説明しています。名前とは、その人の性質、評判、実態を表すものです。この金の子牛でイスラエルの神を拝む出来事の裏にあるものは、”神に見捨てられてしまうかもと言う恐怖、不安”です。

 

その根底にあるもの、エデンの園でも、アダムとハワは神の似姿に造られていたのに、何かしなくては足りないと言う気持ちにさせられたのは、神の様に善悪を知る者となると言われ、自分達が

何かしないと不十分な状態であると疑いを持ったのです。

神の言われた言葉を疑う事です。神の似姿そっくりそのままに造られていたのは創造物の中でアダムとハワだけであり、完全な環境の中神と直接顔と顔を合わせ園の中から神に直接語られて生きていたのに、そんな疑いを持ったのです。

 

金の子牛事件が起きたのは、シナイ山でトラー=婚姻契約を受け取ってから40日しか経っていない時期です。

シナイ山の山頂に煙が出て、天のショファーの鳴る音を聞き、

地が揺れる体験をして、”主の言われた事を聞いて、行います!"

と皆が同意して、契約を結ぶ血をふりかけられたのに。

 

この様に直接神が人々に栄光を見せ、聞かせる、素晴らしい体験を与えたの、自分達がエジプトで学んだ考えを元に発想した単なる金の子牛の像と引き換えてしまう、なぜその様な行為を人々がしたのだろうか?

神に繋がる事と引き換えに動物の似姿の偶像に仕えるほど、人は腐敗、堕落、死に直結している事を表しています。

 

そして、神の契約を見限り捨てて、子牛などと言う普通のものに

引き換えてしまったのか。

人が問題、悩みに直面すると、見捨てられてしまったと考えてしまう、そして妥協するために代替え策を自分で考え出すと言う事をしてしまうのです。

 

出エジプト32:1 民はモーセが山を下ることのおそいのを見て、アロンのもとに集まって彼に言った、「さあ、わたしたちに先立って行く神を、わたしたちのために造ってください。わたしたちをエジプトの国から導きのぼった人、あのモーセはどうなったのかわからないからです」。

 
ここで2つの問題があります。
1彼らはモーシェがエジプトから連れ出したと間違った事を信じていました。見えない神がされていると言う事より、目に見える
目の前の人間により頼んでいる事。
2 それゆえにモーシェが見えなくなり山の中で40日過ごして
いるので、見捨てられたと恐怖を感じてしまった。
この恐怖感がとても強いので、自分達の手で自分達の神々を作ってしまった。それをする事を禁じられていたのにそうした。
そうする事の中に何か霊的パワーがあると言う勘違い、幻想、
錯覚、妄想があったのでしょう。世界の人々がそうしているのと同じ事をしたのです。
出エジプト記を学んで行くと、一年に渡る神の聖別された時の中を生きて、人が新しく創造された人として生きるサイクルが
はっきり記されています。そしてその全てが神の家が中心であるのです。
神の家を作ると言う作業、その神の家がどの様に立派でと言う事
がフォーカスではなく、それを作る人達の”中身”=心と訳されていますが、皆が一致して神の言う言葉通りを実行する、神に聞いて生きる事が記されています。しかも、その神のミシュカンを作るのに、人々は特別な技術を持ってはいなかったのです。
なぜなら、エジプトでやっていた事はレンガを積み上げる作業、
それが彼らの仕事だったからです。でもこう書いてあります。
 
まず、この建設のリーダーの名、”ベザレル”です。
神の実態を地上で表す人の実態=名です。
そして”ウリ”と言う名前にも意味があります。ただ名前を聞いただけでは意味が見えませんが、ヘブライ語に戻ると意味が見えて
神が伝えるメッセージが浮き彫りになります。
ウリとは、オル〜光、炎、東=日の出る場所。
ホルとは、崇高、高潔、又は隠れる場所などの意味。
 

出エジプト31:1 主はモーセに言われた、

31:2 「見よ、わたしはユダの部族に属するホルの子なるウリの子ベザレルを名ざして召し、

31:3 これに神の霊を満たして、知恵と悟りと知識と諸種の工作に長ぜしめ、

31:4 工夫を凝らして金、銀、青銅の細工をさせ、

31:5 また宝石を切りはめ、木を彫刻するなど、諸種の工作をさせるであろう。

 

ベザエル=in the shadow of God、神の影の中と言う意味の名前です。影と聞くと異邦人クリスチャンは過ぎ去る一時的なものなどとヘブル書の内容を誤解して解説しますが、影には元の実態が付いているのです。人の影はその人物が存在するから影があるのです。目に見えない全貌のシルエットです。

その人が消えたら影は消えるのですが、その人が存在する限り影は消えません。

この中で語られている天にある神の家の型通り、型があるとは

元に実在するものがあると言う事なのです。その影=地上でも

天にある型と同じそっくりそのままを復元しなさいと神がモーシェに伝えて、それを出エジプトした人達が作る事が書かれているのがこの箇所です。

 

影=実態を反映するものです。神の実態を反映する役割をする人

ベゼエルと言う名の人物が選ばれました。

 

出エジプト 35:1 モーセはイスラエルの人々の全会衆を集めて言った、「これは主が行えと命じられた言葉である。

35:2 六日の間は仕事をしなさい。七日目はあなたがたの聖日で、主の全き休みの安息日であるから、この日に仕事をする者はだれでも殺されなければならない。

35:3 安息日にはあなたがたのすまいのどこでも火をたいてはならない」。

35:4 モーセはイスラエルの人々の全会衆に言った、「これは主が命じられたことである。

35:5 あなたがたの持ち物のうちから、主にささげる物を取りなさい。すべて、心から喜んでする者は、主にささげる物を持ってきなさい。すなわち金、銀、青銅。

 

出エジプトを読んでいくと、何度も何度もシャバットが重要である事が繰り返し語られています。神の祭りとあれば、その祭りの全ては前後にシャバットとして祝われるものなので、ずっと神の聖別した記念日、シャバットが語られ、そして神の家の建設が交互に語られています。死に匹敵する?と言われたら怖い怒りの神などと思いますが、神は人に事実を伝えているのです。

高圧電線に触れたら死ぬと注意をされて、注意をした人は怒りの酷い人!なんて言いますか?本当の事を伝えてくれて感謝します

と言いますよね。それほど単純でシンプル、クリアーな事実を

語っているのに、肉の目の割礼の無い頭脳は神の伝える言葉に

反発を感じるものなのです。

今シャバットで働いても殺されないからこの教えは終わり!などと考えていたら神に伝える真理は見えなくなります。

 

ここで語られている事は、基本中の基本なのです。そして金や銀を溶かす様なものすごい火を起こし、シャバットに神の家も建築してはならない事を教えています。

神の家=固定式神殿が建てられた後も祭司たちは交代制でシャバットにも宮に仕えていた人達はいるのです。イスラエルでも

シャバットに労働に携わる人も現代でもいます。病院やその他、人が常駐しなければならない職場があるのです。常にシャバットで労働すると言う事は避けるべき事ですが、異教の地に住む人は、土日働く人もいるかもしれません。でもその中でも24時間働いているのではないのですから、その日がシャバットであれば空いている時間をシャバットとして過ごす事は出来ます。理想的ではないけれど、異教の地に住んでいたイスラエルも同じ体験をしているのです。

 

それほどシャバットが重要である事を神が人に伝えていると言う事実を知る事がまず第一です。特に異邦人には未知の世界、教えられたこともない概念、シャバットを実際に祝う実践さえしたこともないから、なんでそれが重要?と思うのです。今はどの日もシャバット=安息日、自分の考えで神の言葉を捨てて良いと教える教師が周りに充満しているから、神の伝える真理など見えない神の言葉の意味を理解しようとするスタート地点にさえ立っていないから分からないだけなのです。

自分の願う空想のメシア=脳内イエシュア=神で、勝手な神像を作り上げてはならない、それがわたしの顔の上に別の顔を置いてはならないと10の言葉=十戒と訳されている神の言葉ではっきりと伝えられているのです。神が伝えるイスラエルの神と言うお方を人がまず神が伝える言葉通りに聞き知ろうとしなければ、

本当に自分の願望希望の様々に色塗られた勝手な空想の飾りを付けた偶像の神を作ってしまいます。ジーザスはそんな事言うわけない!と言うのを聞きますが、聖書を読んで何が記されているのか再確認した方が良いと思います。

 

そこに書かれているのは、トラー100%=イエシュアそのものです。永遠不変の神の言葉を終わりと言う思想は、イエシュアの実態を消す思想でもあるのです。神の言葉に対する正しい取り扱い、敬意を払う注意が必要なのです。神は完全であり神の言葉も完全であるのです。神の言葉でこの世界の全てが造られた事実があるのです。それを不完全であると言う人の思想は聖書に記された神の言葉に逆らう教えなのです。

 
 

 

 

続く