ヘブライ語で見える神の伝える1つの家族の真実  | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

出エジプト35:29 このようにイスラエルの人々は自発のささげ物を主に携えてきた。すなわち主がモーセによって、なせと命じられたすべての工作のために、物を携えてこようと、心から喜んでする男女はみな、そのようにした。

35:30 モーセはイスラエルの人々に言った、「見よ、主はユダの部族に属するホルの子なるウリの子ベザレルを名ざして召し、

35:31 彼に神の霊を満たして、知恵と悟りと知識と諸種の工作に長ぜしめ、

 

ここで見える事は、皆が自発的にこの神のミシュカンを作る事に

賛同し、皆が神の言葉=仰せに一致した心=頭脳で応答し、同じ気持ちで神の家を作ることに参加している事なのです。これが重要なのです。神の家を作る皆の態度、気持ち、決意が大事である事を教えています。形、外側だけではない、中身が大事。

 

神の家自体が素晴らしいと言う事もそうなのですが、それ以上に神の家を建てる上でコミュニテイに共に住まう人達が一致して神の伝えていることを同じ理解気持ちで実行する!

それが何より大事である事を教えられている内容でもあります。

 

それぞれの分野でのプロはもちろん必要です。でも出エジプトした人達は、エジプトにずっと住んで、レンガを積み上げる仕事しかしていませんでした。その中で神は神の家を作る人達を選び出し、建設する上での必要な神の知恵を授け、この神の家=ミシュカンを作る事を可能にしたのです。すごい事だと思います。

 

神の名はたくさんありますが、”教師”と言う名前を持っています。エルサレムの神殿が建てられた場所はモリヤと言う名の場所です。神が教師=モリヤと言う名の場所です。

神が私達の教師であり、神から人は聞いて初めて神の意図、考え

生き方が分かるのです。

 

アヴラハムがイサクを捧げた場所でもあり、神の助けで身代わりの動物を与えられた場所です。神は見ると言う名を教えられた場所です。見る=何が必要なのか見たらそれを与えて下さるのがイスラエルの神だからです。

この名前のルート文字は、トラーと繋がる文字、言葉です。同じ意味で繋がっているのです。モレー=教師、ホレ=親。

神は律法を与える神ではなく、人に神の性質=義を生きる正しい事を教え導く教師であり、子供達を守る親なのです。イスラエルの神を、人間の空想、想像の別の神像に仕立て上げるのはやめなくてはならないのです

 

神はどんな神と紹介していますか?

出エジプト34:6 主は彼の前を過ぎて宣べられた。「主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神、
神はイエシュアが地上に来られてから恵みの神に変身したと聖書に書いてありますか?神は永遠から永遠に同じ、昨日も今日も
永遠に同じ、神には変化や移り行く影はない、神の言葉は永遠に堅く立つと言いながら、どうして聖書とは違う教えを唱え続けているのでしょう?と本当にシンプルな疑問、質問を神の言葉に
照らし合わせて神の前に問う事が必要です。自分で聖書を読んで
何が書いてあるのか考える事をしなくてはならないのです。
 
イスラエルの神は怒りの神から途中で変身して恵みの神になったと異邦人は言いますが、イスラエルの神ご自身がご自身の性質を人に伝えています。最初から永遠から永遠に恵み深く、許しにとみ慈しみとまことに豊かな神!と言われているでしょう。
人の空想想像で語るイスラエルの神像=怒りの神、恵みの神
変化する神、約束=言葉を途中で変える神と、神が直接神の口から語られたイスラエルの神がどんなお方であるのか、どちらが本物のイスラエルの神の実態ですか?
どうして人が神の言葉をかき消す様な主張をし、行動し続けても何とも感じないのか、それは人の教えに洗脳された頭脳で神の言葉を色眼鏡をかけたまま眺めている、又は神の言葉を書いてある意味通りに正しく読もうとさえしていない、何を神が教えて下さっているのかを理解しようともしないからです。

 

神の言葉とは違うズレた危険な教え、思想とは、神の言葉のどの箇所でも人間が否定し、変形し終了し、破棄して良い!と考える教えであることを神の言葉から知った方が安全です。

 

翻訳の言葉の中では全然見えない事実、翻訳と言う幕がかかると見えない事実がオリジナルの言語ヘブライ語の中ではシンプルに明らかに見える数々の事実があります。

 

異邦人の世界の神学=分断神学=変化する神、2つのグループ=異邦人とイスラエルは天と地に分かれて支配するなどと言う、

デイスペンセーション神学、これって本当にファンタジー、空想の世界を語っているのだと言う事は聖書に記された事実を把握理解すると分かるはずなのです。でもユダヤ人とてタルムードだけを教えられて来た人が、ある時本物タナック=トラー、預言書、諸書を読んだら、その中にはタルムードで教えられた事が書かれていない発見をしてショックを受けたと言う話があります。

 

聖書にクリスマス、イースター、日曜礼拝は書かれていないと言うのと同じ事です。聖書には書かれていないのに、書かれていない教えがあたかも存在するかの如くに語られ実践されている事に何の不思議も感じないのは、聖書に書いてある内容をはっきり

把握していないからです。

 

それはさて置いて、翻訳では見えない世界がヘブライ語原典の中にはあります。

神の家=ミシュカンを神が作られていることの中に、神は全ての人をイスラエルの神=1つ神=エハッドの神に1つ大家族として引き寄せ集め取り戻している神のプランがはっきり記されています。

だから、分裂した家族、ユダヤ人と異邦人別別の2つの家族が、別々の神の教えを生き、別々の神の記念日を祝う!などと言う事は聖書には記されていない事であり、神が伝えている永遠の事実は同じ1つの神の教え同じ婚姻契約に加えられ、同じ1つの神の教え=トラーを家族が生きる、それが新しい契約とエレミヤや

イエシュアが言われた実態なのです。新しいとは別に出現する

新しい契約ではなく、新月が満月になり又同じ新月に戻るのと

同じく、再更新され続ける同じ契約です。

 

神の契約に参加する人達の状態が違う!新しく創造された人=イエシュアを通して生まれ変わった人達=義とされた人達が参加する。最初に婚姻契約を与えられた時は、皆が皆同じ理解をして

イエシュアを通して新しくされた事実を知っていたわけではない

今でも同じでしょう。ユダヤ人とて、遺伝的にユダヤ人だからと

言って、イエシュアを通してでなければ誰一人父の元に来る事が

出来ないと言う事実はどの人種のどの時代の人でも全く同じなのです。人類に対する救いは1つ=イエシュアしかないからです。

 

古代の人はイエシュアを知らない、古代はまだイエシュアが地上に来てないから救いが完成していない!?その様な思想は、ヘレニズム思想=歴史を線上に見ているだけです。神は永遠の中に存在し、永遠の中、この世の礎が出来る前から救い贖いの業は完了!しているのです。だから、この世の礎が創造される以前から

神の中に選ばれていたと書いてあるのです。

永遠から考える、これがヘブライ的=神の思想なのです。

だから、神の言葉、聖書に記されている様々な出来事を通して

同じ福音、イエシュアを人に伝えているのです。このミシュカンも同じなのです。救いは永遠の中に存在している!2000年前

イエシュアが処刑されて初めて救い贖い許し助け恵み祝福が

有効になったのではないのです。そうならば、2000年以前に

生まれた人全員救い、神の助けも恵みもないと言うことです。

神はどの時代のどの人にもアプローチできるお方です。

 

トラー=シナイ山で与えられた1つの婚姻契約を頭脳に割礼を受けた新しく創造された人達=異邦人とユダヤ人の両方が一緒に生きる!それが聖書に記された永遠の事実です。

 

神の家は分裂の家ではないのです。

しかも、神のミシュカン、神の臨在が住まう場所、1つの神、1つの場所=家、一つの家族が同じ神の教えを生きる事をこのミシュカンを通して教えているのに、分裂思想、分裂した2つの教えを、人種別に時代別に生きる事など聖書には記されていないのです。

 

出エジプト26:1 あなたはまた十枚の幕をもって幕屋を造らなければならない。すなわち亜麻の撚糸、青糸、紫糸、緋糸で幕を作り、巧みなわざをもって、それにケルビムを織り出さなければならない。<タへレット=碧、紫=アルガマン、これらはローヤル

色、神の義、高貴な色>

26:2 幕の長さは、おのおの二十八キュビト、幕の幅は、おのおの四キュビトで、幕は皆同じ寸法でなければならない。

 

26:3 その幕五枚を互に連ね合わせ、また他の五枚の幕をも互に連ね合わせなければならない。

26:4 その一連の端にある幕の縁に青色の乳をつけ、また他の一連の端にある幕の縁にもそのようにしなければならない。

26:5 あなたは、その一枚の幕に乳五十をつけ、また他の一連の幕の端にも乳五十をつけ、その乳を互に相向かわせなければならない。

26:6 あなたはまた金の輪五十を作り、その輪で幕を互に連ね合わせて一つの幕屋にしなければならない。

 

この箇所は36:10−13で同じく繰り返されており最後に

1つのミシュカンが出来上がったとなっています。

この箇所を翻訳で見ても何も見えません。

ヘブライ人が5と言う数字を見たら、モーセの五書=トラー=神の教えとすぐ繋げられます。そして10=10の言葉です。

神の家族は神の同じ1つの教えに下生きる、神の義=イエシュア

を通してお互い引き寄せられた存在である事が記されています。

そして、神の家では同じ生き方をし同じ記念日を祝うのです。

1つ家族は、分裂したそれぞれ勝手な生き方をそれぞれが思うままに生きて良いなどと教える神の教えなど無いのです。

 

日本語だと何も出てこないのですが、5枚の幕を”互いに合わせ”

と訳されている箇所は、אִשָּׁ֖ה=イシャ(女の人)エル אֲחֹתָ֑הּ=

アホタ(姉妹)と書かれています。女の人をその姉妹に結びつけると書いてあるのです。

חֹֽבְרֹ֔ת=ハボロット=繋げると言う言葉ですが、凝縮、繋げる、交わる=フェローシップを持つ、盛り上げる、自分に繋げる、一緒に、連なると言う意味の言葉ですが、関係を表している事が

見えると思います。家族、ファミリーを表す、姉妹、女性と言う言葉で特別に親しい家族関係を表しているのです。

そして幕の両端を1つ=エハッドに繋げると言う事。1つ家族が

住まう1つの神の家なのです。分裂家族の生きる姿など神は教えていません。福音とは元の状態=1つ神に、1つ家族が1つの神の教えにシャローム=欠けのない状態で生きる事に戻る事であるからです。

 

詩篇133:1 見よ、兄弟が和合して共におるのはいかに麗しく楽しいことであろう。

133:2 それはこうべに注がれた尊い油がひげに流れ、アロンのひげに流れ、その衣のえりにまで流れくだるようだ。

133:3 またヘルモンの露がシオンの山に下るようだ。これは主がかしこに祝福を命じ、とこしえに命を与えられたからである。

 

それぞれの女性が、その姉妹と繋がる、5つの幕が継ぎ合わされるとずっと記されています。

4節には、青色の乳とありますが、幕と幕を繋げる部品です。

その部品は青色とあります。タへレット=神の御座の色、義の色

で繋がれるとあります。神の家族は新しく創造された人達、神の義で繋がれている1つの家族である事を表しています。

イエシュアにより新しく創造された人、聖別された人達が住まう場所=神の家=神の中を教えています。

 

ミシュカンを通して教えられているのは、関係の世界です。

神と繋がる、人と人と繋がる、1つ家族が神を通して繋がる。

神を中心に神の業を通して新しく創造された人達は1つの神の中に1つの義=同じ教え=神の言葉を生きる共同体であることが

最初から最後までずっと記されているのです。

人と人、家族、姉妹、兄弟、友人、コミュニテイ全体が繋がれ

そして神と繋がれて生きる事実が記されています。

そして、この繋がれた幕は1つ=エハッドと記されています。

1つ=エハッド=1つ以上で完全に1体と言う意味の言葉です。

そして次のセットも50のつなぎ目があります。

そして最後に金の繋ぎ目50で繋がれるのです。

金は朽ちない性質のものであり、ミシュカンに置かれるメノーラ

1つの金で出来た7つの支柱=世界の家族、イスラエルと異邦人全体を表すものでもあるのです。神の言葉、神のミシュカンの中の物で神の家族は1つ家族である実態が伝えられているのです。

 

出エジプト36:10 その幕五枚を互に連ね合わせ、また他の五枚の幕をも互に連ね合わせ、

36:11 その一連の端にある幕の縁に青色の乳をつけ、他の一連の端にある幕の縁にも、そのようにした。

36:12 その一枚の幕に乳五十をつけ、他の一連の幕の端にも、

乳五十をつけた。その乳を互に相向かわせた。

36:13 そして金の輪五十を作り、その輪で、幕を互に連ね合わせたので、一つの幕屋になった

<イスラエルの唯一の神、1つ神の家、1つ家族が同じ生き方

神の教え=トラーに生きるシャロームのコミュニテイが集う家が完成>