忙しい日々でも、必ず週の終わりには止まる、そしてシャバット
から又新しい1週間が始まります。週の第一日目が労働開始日。
週の終わりが第七日目、これはシンプルにクリアーな神の伝える
永遠の事実です。神は第一日目から第六日目を労働し、第七日目に止まられたから、人も同じ様にしなさい、人はその様に神に
造られているからその様に生きるのが一番相応しい、神のデザイン通りだからです。
今週の土曜日のトラー朗読は、出エジプトの最後の箇所、
35:1−40:38でした。出エジプトはヘブライ語では
”シェモット”=名前(複数)と言うタイトルが付いています。
今週のトラー箇所=パラシャは、2つの箇所が繋がっています。
この箇所は、神のミシュカンを作る事を神から命じられている箇所です。シナイ山でモーセが40日40夜山頂に居た間、イスラエルの民は金の子牛を自分達の手で作り拝む罪を犯したのが
この前の箇所です。
色々盛りだくさんの内容がこの中には記されています。
時は、”ヨム キプル”そして、ミシュカンを作る政策は、次の春の過越前の出来事なのです。
ミクダシュ=神の聖なる場所。ミシュカン=神の住まう場所。
ミシュカンと言う言葉は、住むと言う言葉と繋がっています。
隣人と言う言葉とも繋がっています。
神は神の家を通して何を教えているのでしょうか?
住まう。近所の人、隣人=シャヘン。
イスラエルの神の家族、コミュニテイとはどんな風に生きる人達なのか、神のミシュカンを通して教えているのです。
今の時代特に都会など隣は何をする人?隣近所の人の顔さえ知らない様な状態ですが、神のデザインしたコミュニテイは、お互い
をよく知っていて、お互いを常に助け合う親しいコミュニテイ
です。隣近所の子供達の遊ぶ声が聞こえて、井戸がありそこに水を汲みに行く女性はそこでお互いが親しく挨拶や話をする。
近しい親しい隣人同士が住まう中に、神が住まわれるこれが神の
伝えるコミュニテイの実態なのです。
そのコミュニテイは、皆親しく、皆共に住まい、1つのルール=神の教え=言葉=インストラクションで生きる、1つの神を中心にお互い皆繋がっているシャロームなコミュニテイなのです。
だから、異邦人とユダヤ人とではイスラエルの神は別の教えを
与えていると言う異邦人創作空想話は完全に聖書から逸脱した
異邦人の思想であることは、聖書だけに戻れば明らかな事実なのです。
エデンの園=神の中から飛び出てしまった人達、その問題の根は分裂!なのです。神から離れ、夫婦が本来の状態から離れ、互いに責め合い、相手に責任転嫁し、批判し、そしてお互いの姿を神が見る通り見るその見方を両者が失った。本来の自分=神の似姿の性質からズレ、そのズレた目でお互いを見て誤解し、その結果争いが生じたのです。そして神の前から隠れる。神との距離が出来た、隔たりの壁、恐れが人の中に入り込んだのです。
人類初の犯罪は、アダムとハワ一家の、兄弟殺人!この事の意味を考えてみたらリアルに現実が迫ります。自分の家族の中で、子供達同士が他の兄弟を殺す悲劇はどんなものでしょう。そんな
事件に親は耐えられないはずの種類の出来事です。人の問題の根は、神の性質に造られた元の姿から外れ、誤解、妬み、疑い、
色眼鏡、恐れ、無責任、それらの要素は本来は人が持つべきものではない毒素そのものズレた状態です。
その分裂、破壊を修復し1つ神に、1つ家族が、1つの生き方=
神の言葉=人間の本来の性質を生きる!と言うことに修復しようと神がしている、神が1つ元の姿に修復している歴史の事実の中での大きなプロセスなのに、それをどうして人が再び2つ別物に分裂しよう、分裂しようと言う教えを言い続け、その様に実践し続けるのか、神の目的ゴールが神の言葉から見えていないから、そんな空想思想哲学を信じてしまうのです。
出エジプトのこの最後の箇所を見ても、ミシュカンは、神の聖別された場所であり、聖別された神の民が神と共に住まう場所です。
そしてもう一つシャバット=聖別された時がフォーカスで神より
語られているのです。この2つ、ミシュカンとシャバットは
お互いを反映し、手と手を取る様に1つに繋がって神から教えられているものなのです。
この箇所にもミシュカンとシャバット両方が並んで記されているのは、偶然でもなんでもない、神の深い意図があり人に伝えているものなのです。
神が神の家の設計士、建築家であり、神が全てをプランするお方であり、神の考え通りの家を神が地上に建てる様に伝えたのです。天にある神の家、その型通りに地上に作りなさいと言われました。
どうして神はそんな事人に言うのでしょう?どうして神はご自分の家を地上に作らせたのでしょう?
よくよく考えると見えることがたくさんあります。神の言葉が
終わりだと言う場合、神がされた事も無効であると言っているのです。本当に注意して、神の言葉=教えと違う事を見分ける洞察力、識別力を神の伝える言葉から知る訓練を養わないとならないのです。
神がされた、される事の全て、言われる事の全てには目的と意味があるからです。それを捨てよ!今は既に無用!と教えられ、今は神の言葉の大部分が無意味と言う教えに耳を傾けたら、神が
何を自分に教えよう伝えようとしているのか分かる術が無くなります。神のどの箇所の言葉でも今は無用と考えるその場合には、神が伝えている永遠の真理を学び理解するチャンスを失うのです。
神が神の臨在が宿り、人と共に住まうミシュカンを作らせる時に
細かい指示を人に与えています。その中の中心は”シャバット”に関して、神が人に伝えているのです。
ミシュカン、ミシュカン、シャバット、ミシュカン、ミシュカン、シャバット。神はずっとこの二つを繋げて人に伝えています。
なぜ、シャバットに関して人に伝えているのでしょうか?
神のミシュカンを建てる、でもシャバットはミシュカン建設を
超えて神に重要視されているものなのです。
シャバットが来たら、ミシュカン建設の手を止めないとならないのです。シャバットが、神の家=ミシュカン建設より優先されている事を神が人に教えているのです。
シャバットを破ってはならない、シャバットを汚してはならない。それほどシャバットは神に取り、人に取り大事なものであることを神が人に教えているのです。
そんな事言われてもシャバットがどうしてそれほど重要なのか
全然ピンと来ませんよね。その理由は神が伝える内容シャバットがどれほど重要なのか人が理解していない、全く頭脳の中に意識、知識、理解がないから!それが理由なのです。幼児にダイアモンドを見せてもその価値を理解しないのと同じ、その意味価値が見えないから分からないだけなのです。全ては人の側の問題、神が伝える重要な事が重要であると考えられないのは、人の頭脳の中に理解する脳回路、知識が無いからなのです。
でも神が言うならば、それは重要な意味があるのだ!と分からなくても神の言葉の重要さ重さ=カボット=栄光と訳されているその重さがある!と言う事だけ分かれば、自分が今理解出来なくても神の伝える事を探求し続ければやがてその意味栄光重さ重要さが理解出来るだろうと考えれば良いのです。
神の伝える内容を理解しようとして、初めて神の真理を理解出来る道のりに入る事が出来るのです。探し続けよ、求め続けよと
言われているのに最初から神の言葉を捨てたら、それはイエシュアが言われた言葉を実行していない事なのです。
自分には理解出来ない、人が神の言葉は廃れた無用と教えるから
神の言葉をポイ捨て!ポイ捨てとは行かなくても、注意を払わない、神の伝える言葉の意味さえ考える事さえしない!それは
本当に宝をドブに捨てている事と同じ行為なのです。
神の言葉=イエシュア=神の奥深い所にある神の考えに触れる
唯一の方法=神の言葉を通して神が人に神の考えていることを
伝えているのにそれを捨てよ!と言う教えが全く変!と言う反応をしないと危険なのです。
神の言葉を捨てたら、神が考えていることはその人には伝わらなくなります。その代わりに人の思想、空想、哲学、神の考えとは違う人の考えを自分の頭脳に放り込まれてしまうのです。
週に一度、ミシュカンを建設できない日はシャバットでした。
神に取り、シャバットは止まる日として重要であると伝えているのです。神のミシュカン建設より、シャバットが重視されているのです。
神は、時〜シャバットと場所〜ミシュカンを聖別しています。
ミシュカンとシャバットはお互いを映し出し反映しているもの
なのです。
しかも、シャバットに神のミシュカンを建設する場合には、死に値すると書かれています。怖い神〜!そんな反応をするのですが
神が言う事には意味があるのです。人が神の伝える真理を理解出来ないだけの事なのです。
それほど、シャバットを破ると言う事は神に取りあってはならない事である!と人に伝えていると言う事、それほどシャバットが
重要である!と言う事を神が人に伝えている事をまず分からなくても理解しようとしない場合には、神の伝える事は意味不明のまま理解出来ないまま行ってしまうのです。
出エジプト35:1 モーセはイスラエルの人々の全会衆を集めて言った、「これは主が行えと命じられた言葉である。
35:2 六日の間は仕事をしなさい。七日目はあなたがたの聖日で、主の全き休みの安息日であるから、この日に仕事をする者はだれでも殺されなければならない。
35:3 安息日にはあなたがたのすまいのどこでも火をたいてはならない」。
シャバットに火をおこしてはいけないと言われました。
イスラエルで現代正統派ユダヤ教の人達は電気のスイッチも触れてはならないと言いますが、そんなものではないのです。
ここに書かれているヘブライ語でも分かるのですが、火を起こすとは、ちょっとした火ではなく、金や銀、金属などを溶かすほどの強い火を起こす事です。沢山の労力が必要な火起こしなのです。プラス、創作、建築などの重労働の作業に必要な火です。
シャバットには、この様な創作、創造、建築などのタイプの労働
をしてはならないと教えられています。
もしも、普段の労働、研究勉学の論文を書いたり、宿題をしたり
そんな事をすれば、シャバットの意味はそれで消えてしまうのです。
ヘブライ語でこのタイプの労働を、”メラハ”と言います。
何かを生み出す、創作する、仕事、ビジネス、余計な労働。
家事で言えば、年末にする様な大掃除、窓拭きや壁紙張替え、
家具の移動や配置換え、探し物など。
そんな事に時間を費やしたらシャバットの醍醐味、目的は消えて
しまうからです。
働かない間に、神が備えてくださる。そして止まる日に合わせて
1週間を過ごす。全部理解出来ないままでも、何より神が言われる事を尊重する、これを教えられているのです。
イスラエルでは、極力食べる事も前もって準備しておいて、
余計な家事はしないで、家族で一緒にその週のトラーの箇所、
聖書を学んだり、みんなで交わりを持つ楽しい時を過ごします。
今春で荒野に花が咲いたりしますから、外に出て家族とその様な時を過ごす人も多くいます。
今の世界、ネット時代、みんな繋がっているようで顔と顔を合わせる、余計なものがない純粋な繋がり交わり、会話の時がなくなっていますから、なおのこと週一度のシャバットで家族、仲間
コミュニテイが繋がりを取り戻す大事な時になるのです。
続く