神はメシアが地上で処刑されるまで、”怒りの神”であり、神の怒りをなだめるためには、動物の血が流されないと気がすまない神、怒りの時代であったと教えられました。異邦人クリスチャンの世界の典型的なイスラエルの神像の教えです。
太古の時代は血が流されないと怒りがおさまらない恐ろしいイスラエルの神??
でも聖書に記されている神はそんな神ではないのです。
変化しない、移り行く影もない、永遠から永遠に変わらない神が
聖書に記されたイスラエルの神であるのです。異邦人の空想、想像、印象で語られるイスラエルの神は聖書とはマッチしない別の神像そのものを語っています。人の考えや印象で、ある人を判断し、その人を勝手にどんな人なのかと評価して語る事は日常茶飯事に行われますが、それと全く同じ事をイスラエルの神に対して
しているのです。
実はこ〜んなに怖いイスラエルの神=怒りの神を想像するのではないかと思います。ひど!怒りで人を上から睨みつけているイメージです。でも本当のイスラエルの神は違う性質の神です。
1ヨハネ3:1 わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい。わたしたちは、すでに神の子なのである。世がわたしたちを知らないのは、父を知らなかったからである。
19:11 三日目までに備えさせなさい。三日目に主が、すべての民の目の前で、シナイ山に下るからである。
19:12 あなたは民のために、周囲に境を設けて言いなさい、『あなたがたは注意して、山に上らず、また、その境界に触れないようにしなさい。山に触れる者は必ず殺されるであろう。
19:13 手をそれに触れてはならない。触れる者は必ず石で打ち殺されるか、射殺されるであろう。獣でも人でも生きることはできない』。ラッパが長く響いた時、彼らは山に登ることができる」と。
こんな箇所を読むと、古い時代は怒りの神などと考えますが、
ここで記されている事の意味を考えれば分かる事なのです。
神は聖なる方であり、人は神の領域にそのまま侵入出来ない!と言う現実があるのです。高圧電線に触れたら、放射能に触れたら
人が触れてはならないものに触れたら死んでしまうのと同じです。神の聖なる領域にそのままでは入れない事、それは神の家の中でも教えられているのです。神が怒りの神で意地悪で融通がきかない神だから血を求めるのではなく神が聖なる方であるから人がそのままでは神に近づくのは不可能!そのままで近づいたら
人は死んでしまうからです。だから、人が神の顔を直接見たまま生きられないと書いてある意味が見えて来ます。
エデンの園の入り口に置かれたチャラビムは、命の木への道をガードしました。人がそのままでは元のエデンの状態には戻れない事を教えているのです。でもこのチャラビムが命の木をガードしている事は、ミクダシュ=神の聖なる場所の一番奥の至聖所にある命の木を表す”契約の箱”その上にあるのは、贖いの蓋と呼ばれるもので、チェラビムが神の言葉をガードしているのを見ます。
メッセージが全部繋がっているでしょう。命をガードする!
それは命の木=神の言葉をガードし生きる事で命を生み出す生き方が出来る事をはっきりと教えているものだからです。
世界の全ては神の言葉により造られている。
命の木=神の言葉=イエシュア=トラーです。
人の中に神の性質ではない罪が侵入した後、人は神と直接繋がれない状態、隔離された中に閉じ込められてしました。
でもエデンの園以前から永遠の中にイエシュアの業=同じ福音、
同じ救い=イエシュアは存在しているのです。
それが神の家の中で細かく教えられているのです。
シナイ山の麓にいた全ての人は衣服を洗いなさいとあります。
神の家に入る時も、東の門から入り直ぐに手を洗う場所があります。そして中庭には24時間/7日間天から下された神の火で燃やされている祭壇があります。常にその上で焼かれている動物は、
イエシュアの贖いは24/7有効である事実が表されています。
私達の贖われた命は、このオラー=焼き尽くす火=神の火で焼かれるコルバンが土台です。イエシュアが全ての土台。
簡易式ミシュカンで表されているものがエルサレムの固定式神殿
になると家の中にもっと様々なものが置かれて、その1つ1つの意味を学ぶだけで神の福音のメッセージが浮き彫りになって来るものです。人はそのままで神の元に戻れない、近づけない。
そして、神は聖別を人間が理解出来る様々な方法で教えているのです。それが神の家の中で教えられている内容なのです。
神の家、ミシュカン=神殿の祭壇には、きよい=タメーな動物しか捧げられないのです。
だから、人も神が定めたタメーな動物しか神の宮である人の体の中に取り入れてはならないと教えているのです。
レビ記11:44 わたしはあなたがたの神、主であるから、あなたがたはおのれを聖別し、聖なる者とならなければならない。わたしは聖なる者である。地にはう這うものによって、あなたがたの身を汚してはならない。
11:45 わたしはあなたがたの神となるため、あなたがたをエジプトの国から導き上った主である。わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない』」。
神の教えは全部1つとして繋がり、物理的肉体的霊的などと分かれておらず、全て1体で切り離して考えたら見えなくなるものなのです。
永遠の中にあるイエシュア=救い=完了の業を、神が人に教え伝える方法がありました。
それがミシュカン=神の地上での天の家のレプリカの中で教えられるものだったのです。
大祭司が年に1度至聖所に入る時、会見の場所=至聖所の天幕の
入り口に屠られた動物の血を降り注ぐ。
贖いの箱の前にも血を振り注ぐ。
香りの祭壇の上にも。
生贄と訳されている言葉は、コルバンと言うヘブライ語です。
この言葉は、קָרְבָּן ”近くに引き寄せる” "近く”と言う意味の言葉です。生贄と言う言葉とは大分印象が違う言葉です。
誰でも、神に近づきたいなら、家畜の捧げ物をする場合、牛、又は羊を持って来なさいとあります。
一番最初に書かれているコルバンは、”オラー”焼き尽くす生贄と訳されています。オラー=24時間、天から神が直接下した火が常にミシュカンにあり、その火で焼き尽くすのです。
コルバン=オラーの捧げ物を先ず捧げる事を教えています。
その動物は、シミも傷もない”タミン”であるものが指定されています。これだけを見ても、罪の無い完全なるイエシュアが人の
ために代わって命を与えた事が教えられています。
レビ記の中に記されている全てのコルバンの意味を学ぶと、イエシュアがされた業そして、人が神の前にどの様に修復し、癒されるのかそのプロセスが記されている事が分かります。同時に人と人との和解もその中にあるのです。
動物は祭司が屠るのではなく、動物の捧げ物を持ち込んだ本人が
屠るのです。祭司は脇に居て助け、補助をする役割をしています。そして、コルバンを持ち込んだ理由などを本人が語るので
それが罪の告白として祭司の耳には届くのです。でも祭司に自分の中にある様々な事情などを語っている訳ではないのですが。
大事な動物を自分で持ち運び、それを自分の手で屠る。暴れる
動物を抑えると、その動物の匂いまで手に染み付きます。洗ってもなかなか落ちないものです。
もしも、自分がミシュカンの中で動物を運び屠る体験をしたら、
一生忘れる事の出来ないインパクトを持って覚えている事になる
と思います。捧げ物は動物ですが、動物の尊い命を自分のために犠牲にした、これはイエシュアの贖いを学ぶものであるのですが
ヨハネ1:14 そして言(言葉は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。
” 彼は宿った” シャカン
”住まう場所” ミシュカン=私たちの中、間にすまう
”栄光が住まう” シェキナ〜栄光が見える
”恵み” 祭壇の上のオラーの捧げ物=焼き尽くす捧げ物
”真理” 神が神のミシュカンの聖なる場所から語られる。
恵み〜イエシュアの贖いの業を最初から教えられているものです。ミシュカンが作られる以前から、エデンの園を出たすぐ後に
解説も説明も何1つないのに、それが語られています。
創世記4:3 日がたって、カインは地の産物を持ってきて、
主に供え物とした。
4:4 アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持って
きた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。
真理が語られる。神の言葉=至聖所の中にある贖いの蓋箱から
語ると神が言われました。
ここで神学的ジレンマ問題が生じるのです。
ミシュカンは神学的問題をはらんでいます。なぜ永遠の神、天と地を創造したお方が神の創造物の中に住まうのでしょうか?
これをするのに、神ご自身が規制されてしまい、神が臨在している事を神の民が知るために物理的な現れであると言うことです。
多分ミシュカンは、肉体をとって来られる神であるイエシュアを説明するのにもっとも最大の助けになるものだからです。これが理解できれば、私たちは他の真理を理解する事が出来るのです。
神であるお方が、肉体を取って人であり神である救い主=イエシュアが地上にこられた事は最大の謎、ミステリーです。
人は誰も細部までこの事実を説明出来ないものです。
私達は結論ではなく、事実を捉える必要があるのです。
メシアニックの間では、イエシュアを神同等とする考えに関して
落胆的な人達がいます。なぜならイエシュア=人である事は
ユダヤ人の思索に反するものであり、あまりにも異邦人的であると考えるからです。
続く