週一度の聖別された日 シャバットは神に取り全ての労働を超えて大事な日 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

先週6日〜7日はプリムの祭りや他の行事があり、今週はドイツのとある都市からお客さんが2人我が家に滞在、イベントや近所でのパーテイと盛りだくさんの週であっと言う間に日にちが過ぎてシャバットを迎えました。

4月5日には過越の祭りを迎えるので、それまでに春の祭りを

迎える最終準備があります。一番は秋の仮庵から春までの間に神に教えられて来た事、1つ大きな課題=自分の中に潜んでいる新しく創造された本物の自分を生きる妨害をしているものを教えらそれらと取り組む事です。

これは一年に渡り神が聖別した時を生きる実践をする場合には、

はっきり気が付くものでもあります。

 

イスラエルの神が地の上でミクダシュを作りなさいとモーセに伝えました。

出エジプト25:8 また、彼らにわたしのために聖所=ミクダシュを造らせなさい。わたしが彼らのうちに住むためである。

25:9 すべてあなたに示す幕屋=ミシュカンの型および、

そのもろもろの器の型に従って、これを造らなければならない。

出エジプト25:40 そしてあなたが山で示された型に従い注意してこれを造らなければならない。

 
シナイ山の山頂=雲の中=天の臨在が直接降りてきたその中で神がモーセが見せられたものは、天に実在する神のミシュカンです。パターン=型がある=実在する元の型の事です。
実在する型通り、天に実在する神の家=ミシュカンそっくりそのままを作りなさいと神はモーセに言われたのです。
 
イスラエルの神=聖霊です。それ以外の神々は全て闇の霊=悪霊です。中間のグレーゾーンに属するものは無い、イスラエルの神=聖霊か、イスラエルの神に属さない他の神々=闇の力=悪霊
その2種類しか存在していません。
 
人間の作った宗教〜イスラエルの神に属さない人間創作の宗教の全ては、自分達の考えで様々なものを作り出し神を拝む、礼拝します。
異教の神々の宗教にも預言者がいますが、それはイスラエルの神から出たものではないので、どこから出たのかその出所は明らかです。闇の世界に属する霊であり、イスラエルの神と何の関係も
ないものです。
 
イスラエルの神は、神が人に直接語りかけて、神が人にどの様にするのかの全て伝えています。神への近づき方も同じです。人は神から聞く事でそれを生きる神の口から出た1つ1つの言葉に
より人は生きると神が人に説明しているのです。
そして、モーセに言われた事と同じく、神が伝えた通り、そっくり、そのままを実行して!と言われているのです。
 
DNAや設計図と同じく元の型に沿わなければ、実際に天に実在する神のミシュカン通りのものは現れ出て来ないものだからです。
そして、それを神は人の手により作られせたのです。
 
よくクリスチャンの世界では、神はイエシュアが来られるまでは怒りの神で、過去は生贄の動物の血を流して怒りがなだめられていたと説明しますが、それって一体どんな神なのでしょうか?
イスラエルの神とは違う性質の神像を人が勝手に語ってしまっているだけです。
異邦人クリスチャンの解説者がヘブル6:1-3を取り出してこの様に解説しています。
古い全てを置き去りにする。ユダヤ人の生贄システムを去る
古い教え=旧約聖書の、生贄システムを通してメシアに関する教えを捨てて、メシアの犠牲を通して救いを得る事をしようと言います。
でも最初から、動物の血は人の罪を一時的にも永遠にも贖う事は
不可能!と神が伝えているその事実を無視している発言です。
最初からミシュカンの中で行われる一連の儀式、コルバン〜動物の血は一時的な罪の赦しのため、それが目的ではないからです。
 
イエシュアが永遠の中で既に完了されている”贖い”の意味、
子羊の血の意味をこの神の家の中で教えているのです。
しかも、2000年前まで神が贖い、救い、許しを人に与えなかったと主張するならば、2000年以前の人は誰一人神の元に繋がる方法がなかったと言っている事になりますが、それって一体どんな性質の神なのでしょう?人をある時点まで放置する神は、タナックに記されているイスラエルの神ではありません。
 
神は人に全て生きるのに必要な事を伝えています。言葉で直接
人に語るのは、イスラエルの神だけです。それ以外の霊=悪霊が
いくら肉声で人に語りかけても、異教の神々の預言者と名乗る人が何を書物に書き記しても、それはイスラエルの神から出たものではないから何も意味もないものです。異教の神々は永遠の命も、人の修復も贖いも救いも何ももたらさない偽物なのです。
 
1ヨハネ4:1 愛する者たちよ。すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうかためしなさい。多くのにせ預言者が世に出てきているからである。
 
神が言われた通り、そっくりそのまま、天にある神の家の型通りを作りなさいと言われモーセは人々に神が言われた通りの寸法、材料でミシュカンを作らせました。
そのミシュカンは、”わたしが彼らのうちに住むためである。”と神が言われました。人を最大限に利用し、搾取するだけの異教の神々とは全く違うイスラエルの神がその言葉の中で現れています。住まう〜ミシュカン、この中にはエデンの園で失われた神との関係を取り戻す修復が教えられているのです。神と繋がる、人と人とが神のデザイン通り繋がり修復する、それらが教えられているのです。家族の家。ミシュカン。
 
イスラエルの神がこの世界を創造され、神は時を創造され、
場所と時を聖別されました。
 
場所=住まう場所、人、物、動物、そして時を聖別した事実、
それは歴史の途中で決して変化しないものなのです。
でも異邦人の世界では、神の言葉が変化したと教えられてしまっているからであり、でも事実は神の言葉、教えも変化しないのです。
神の性質や神の言葉が変化すると言う教えは、人が作った教えであり、神は神の言葉教え、神が聖別された場所、人、物、動物、そして時は永遠に聖別された事実があり、神のされた事言われた事に変化などないのです。
考えれば分かりますが、問題は、人が神が言う事を無視し、人の編み出した教えに聞き入れそれを取り入れ信じ実践する事にあるのです。エデンの園で起きた騙し、神が言われた事ではない事を囁いたあの動物の声は、半分嘘が混じった言葉でした。

 

創世記3:3 ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」。

 3:4 へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。

3:5 それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。

 
嘘=決して死なない。
真実=目が開け、神のように善悪を知る者となる
 
死なないと言うのは嘘でした。死と言う意味はもっと別の意味が
あると思います。肉体的に朽ちるこの事実はありました。これは人を他の人達から隔てるものです。
もう一つ、死とは神から切り離されてしまう場所に閉じ込められる事です。神は聖なるお方で、それ以外のものと交わる事が出来ない性質だからです。
 
目が開ける〜神の目から見る通りだけを見るのとは違う目が開けてしまう事です。そして神の如くに善悪を知る、これは人間では扱えない、出来ない事人は神の様に全てを知り得ないからです。そして神の目からだけ見る通りに見る以外の見方を人には出来ないからなのです。知識の木から食べた後は。それまでは、アダムとハワは神が見る通りだけ見ていたのです。
半分嘘、半分本当これが大きなつまづきの石なのです。
だから神の言葉を曲げてしまえば、半分本当、半分嘘の神の現実から離れた世界に閉じ込められてしまうのです。
 
聖書に書いてある単純な事に今目の前に記されて見えていても
それさえ読み取れなくなる盲目と言う目隠しが与えられてしまっているのです。
神が伝える深い世界はもちろん深く考え続けないと見えないですが、神が聖別した週一度の日、止まる日は週の最初の第一日目ではなく、第七日目であると聖書の最初から最後まで同じことが記されているのに、そんなシンプルな永遠の真実事実さえ見えなくしてしまう人の創作した教え。異邦人の世界では、人が1世紀後半から主張し始めたローマ帝国の勅令に反しない日曜日に礼拝日を変更=それが復活日であるとも信じているので、その理由も取り付けて、異邦人が変更したのです。
そんな単純な聖書にはっきり記されている意味も、神の言葉を捨てる場合には、耳に頭脳に何の意味もなくなり、第七日目は神が永遠に聖別された日である事実を知ることもなくなってしまって
いるのです。自分の頭で考えないとならない終わりの時代に入りました。世の中は偽情報印象操作は毎日の事であり、それに聞き入る場合には偽情報を真実であると信じてしまうのです。
 
でも真実に基づき自分で考える人は、真実を掘り出す事が出来ます。聖書に書かれた神の言葉の事実は歴史の途中で変化しません。もし変化すると信じているのならば、それはイスラエルの神の言葉ではない、人間の思想を信じている!と言うことにまず気が付かないとならないのです。それらは神の言葉=本物の羊飼いの声とは違う、神の言葉に反する聖書には記されてなどいない教えだからです。
1ヨハネ2:3 もし、わたしたちが彼の戒めを守るならば、それによって彼を知っていることを悟るのである。

2:4 「彼を知っている」と言いながら、その戒めを守らない者は、偽り者であって、真理はその人のうちにない。

2:5 しかし、彼の御言を守る者があれば、その人のうちに、神の愛が真に全うされるのである。

それによって、わたしたちが彼にあることを知るのである。

2:6 「彼におる」と言う者は、彼が歩かれたように、その人自身も歩くべきである。

2:7 愛する者たちよ。わたしがあなたがたに書きおくるのは、新しい戒めではなく、あなたがたが初めから受けていた古い戒めである。その古い戒めとは、あなたがたがすでに聞いた御言である。

2:8 しかも、新しい戒めを、あなたがたに書きおくるのである。そして、それは、彼にとってもあなたがたにとっても、真理なのである。なぜなら、やみは過ぎ去り、まことの光がすでに輝いているからである。

ここに書かれている戒めとは、トラーの中に記されている神の戒め=教えの事です。そして最後に書かれた”新しい”戒めとは、
彼らの中に体験がない生き方、歴史の中で誰一人直接見た事がない、イエシュア=神が地上に来られて実際にトラーの真実を生きられた事、人間がその様に生きた事を誰も見たことがない、その様な新しい戒め=イエシュアが生きられた通りの神の教え=トラーを生きることをヨハネが書いているのです。父の言葉=シナイ山で与えられた婚姻契約以外の別物の教え、生き方など聖書には書かれてなどないからです。
 
そして、今日第七日目がイスラエルの神が聖別された週の唯一の記念日です。この事実だけを考え続けるだけでも神が語る言葉の真実な意味が見え来ます。全ては、神の言葉を曲げる妨害が、神の言葉を知る機会を奪い、神の語る言葉、教えに耳が目が塞がれる、神の本当の言葉が聞けない飢饉に陥るのです。
 
光は常に闇の中で輝いています。神の言葉は暗闇の別の声の中に静かに今も響いています。それは神の言葉の中を覗き込めば記されていますから、取って食べよ=神の言葉を見て、神の言う通りを自分の中に取り入れ実践して生きよ!と言われています。
しかもシャバットをガードすることは自分の命をガードすることであると神が教えているのです。命に匹敵、死に値するもの。
古い要らない教え!恵みを捨てる生き方だからそれに戻るな!と言う教えはエデンの園のあの動物が出所の声ですイエシュアの教えられた教えは100%異邦人クリスチャンが要らないと言う、トラー=モーセの五書!のみなのです。それを聖書から
はっきり捉えて、神の言う静かな川のせせらぎの音の様、でも常に流れている神の言葉に耳を傾ける人には、神が伝える永遠の真実が神の言葉の中からはっきりと聞こえて捉えることが出来るのです。それは肉声ではなく、神が文字で記された神の言葉=聖書が存在している揺るがない証拠があるからです。
 
Shabbat Shalom