神の家を中心に全ての人が生きる世界 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

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全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

もっとも大事な神の契約の書の保管場所は、ミシュカン=神の住まう家のどこに保管してあるのでしょう?

 

ミシュカンの中の一番奥、至聖所と呼ばれる場所に契約の箱は

保管されていました。そこに神の臨在があり、しかも24時間

肉眼で見える天から降り注いだ神の火の柱がその上にあったのです。神はそこから語られたのです。ミシュカンとそして出エジプトしたイスラエルの12部族、プラス異邦人達がどの様に宿営を配置していたのか、その図を見るだけで神が何を教えているのか見る事が出来ます。

 

ミシュカンをめぐり12部族全部が部族ごとに宿営しました。

全員がミシュカンに向かって取り囲み宿営しています。そして

全ての人がお互いと向き合う位置に宿営しているのです。

そして全ての宿営、全ての人のその中心は神の至聖所です。全ての人が神の臨在を通して、神の目から見る通りお互いを見る事を学習する設定がここにされています。

神の至聖所の上には火の柱があります。神の臨在=雲と火の柱、目に見える形で神の臨在が見えたのです。これ重大なポイントなのです。肉眼で見える神の臨在を荒野の40年の間ずっと表した。40年の間、シャバットの日以外、毎日天からマナが与えられた。

学者は、シナイ山で成立し与えられた契約書は、古代紀元前14−15世紀の古代中東に存在したヒッタイ人のスゼリアンバサール条約(宗主国臣下誓約/条約)にとても似た形式であると言います。

メレデイス G クラインによれば、この契約書の2つのコピーが

作られたのは、1つは宗主に、1つは家臣に対して作られたものであると説明しています。

そしてそれぞれのコピーを彼らが尊重する聖なる場所に保管するものであったのです。

今現在の契約書でも両者お互い契約書の写しを所有していますよね。お互いに誓約した内容の証拠が文字として記されているものを保管するのです。

イスラエルの場合、偉大なる王は神であり、家臣はイスラエルの民であり、彼ら神と人はお互いに共通の聖なる場所を持っている、それがミシュカン=神の家なのです。

そしてこの2つの石の板の契約書は全く同じ写しのコピーでありその両方を神の家の最も聖なる場所に保管したのです。

神の家は、世界で唯一神が聖別した神が指示して人に作られた場所なのです。神が聖別された場所。そして神は神の聖所から神の契約の箱=神の言葉から直接語られたのです。

神の聖別=神の目的通りに分かたれた特別な場所です。

 

神はこの契約の箱、契約から語られると特別に明確に指示し、

話された事が記されています。

出エジプト25:22 その所でわたしはあなたに会い、贖罪所の上から、あかしの箱の上にある二つのケルビムの間から、イスラエルの人々のために、わたしが命じようとするもろもろの事を、あなたに語るであろう。

契約の箱=神の言葉は ミシュカの中の一番中心の場所に保管されました。

そして神はイスラエルにイスラエルの民の宿営する真ん中にそのミシュカン=神の家を置く事を指示しました。 

出エジプト 24:8 そこでモーセはその血を取って、民に注ぎかけ、そして言った、「見よ、これは主がこれらのすべての言葉に基いて、あなたがたと結ばれる契約の血である」。

 

これは、宿営の真ん中に位置する神のミシュカンの中の中心に神の契約が置かれる事であり、同時にそこには神の特別な臨在があり、国民全体の特別な注目、フォーカスの中心である事でもあります。

これはじっくり考えないとならない事であり、目で見て分かる、神のデザインされた人の生き方神との関わりなのです。

 

出エジプトしたイスラエルとそしてイスラエル同様神の声を聞いて同じくエジプトを脱出した少数の異邦人達は共に荒野に40年住まいました。

移動式のミシュカンが神の指示により作られましたが、このミシュカンと、シナイ山で起きた事と比べる事が出来ます。

シナイ山と移動式ミシュカン両方は聖なる場所であるのです。

 

全ての人が全ての地点に入る事が出来ないのです。

それぞれの人はそれぞれの地点までしか入る事が出来なくて、

同時に清めが要求されています。これはミシュカンと同じです。

 

出エジプト19:10 主はモーセに言われた、「あなたは民のところに行って、きょうとあす、彼らをきよめ、彼らにその衣服を洗わせ、

19:11 三日目までに備えさせなさい。三日目に主が、すべての民の目の前で、シナイ山に下るからである。

 

ミシュカンに入る時に、その中で手を洗う場所がありました。

シナイ山では、雲と煙が山頂に降りて来ましたが、ミシュカンも

同じです。

そしてシナイ山でも、契約を成立させる晩餐がありました。

 

出エジプト 24:8 そこでモーセはその血を取って、民に注ぎかけ、そして言った、「見よ、これは主がこれらのすべての言葉に基いて、あなたがたと結ばれる契約の血である」。

24:9 こうしてモーセはアロン、ナダブ、アビウおよびイスラエルの七十人の長老たちと共にのぼって行った。

24:10 そして、彼らがイスラエルの神を見ると、その足の下にはサファイアの敷石のごとき物があり、澄み渡るおおぞらのようであった。

24:11 神はイスラエルの人々の指導者たちを手にかけられなかったので、彼らは神を見て、飲み食いした。

神を見る〜これイエシュアではないかと考えます。神には人間の顔は無いからです。

 

食事が提供されたのは契約の晩餐で、契約が成立するたびに食事を提供する祝宴がもようされました。契約には契約成立後に祝宴が付き物なのです。親しい関係に入った印でもあります。

 

シナイ山、そしてミシュカンの両方にトラー=契約が伴い関わるものなのです。シナイ山で起きた出来事が重要であることを常に思い出す機会として記されたトラー=契約書がミシュカンでイスラエルに提供されたのです。

 

モーセだけが山の山頂に行く事が許されました。地上での祭司はレビ族のしかもアロンの家の大祭司だけが至聖所に入る事が出来ました。地上の神のミシュカン、神の祭司=天にある神の家、

大祭司=イエシュアを代表する人達なのです。

天の祭司はメレキゼデクに属する大祭司です。

これはイエシュアを表しているものです。

イエシュアだけが父と直につながる道を与えている事を表して

いるものだからです。道は1つ!救いは1つ!他の方法は無い!

誰か代わりにはなれない。他の道は無い。

 

ミシュカンは様々な事を 教える教育機関として、神が地上に天の

家そっくりそのままのレプリカを作られました。

このミシュカンの中で何を教えられたのでしょう?

イエシュアの業そっくりそのまま、そして神の性質、神にどの様に近づくのか、神の目に贖われた人がどう受け取られているのか

新しく創造された人、シミも傷もないかぐわしい香りとして受け取られている事実etc etc の全てがこのミシュカンの中で教えられて居たのです。それがモーセの五書に記されているのです。

 

1 許し 2義とされる 3 救い 4贖い更にもっとあるのです。

儀式と聞くと堅苦しい面倒なものだと言う意識があります。

でも儀式とは意味ある事なのです。

ミシュカンの儀式とは何を意味しているのでしょう?

ゴードン ウエンハムはミシュカンの中の儀式に参加する事は

天の観客者と人がステージの上のドラマを見ることであると言いました。

この描写は的確です!ミシュカンで行われた儀式の全て、トラーに記された儀式は、神の真理を聴覚的にだけではなく、ヴィジュアルに、視覚で捉えるためにされているものなのです。

 

ミシュカンの儀式に参加することは、古代のテレビを見るのと

同じです。

古代のラジオは、預言と祈りです。耳で聞いてとらえるものです。テレビ放送とラジオ放送ですね。

この全ての方法で伝達されるものは聖なるお方の生き生きとした真理を人に伝え教えるものであるのです。この方法で神の完全な教育機関としての役割を果たしているのです。

視覚と聴覚に訴える。そして視覚、聴覚だけでなく、五感=外の環境を自分の内側に取り入れる全てを駆使しているのです。

視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚の全てです。

視覚〜神殿の中の全てを目で見る。

触覚〜捧げる動物を自分で運び、自分で直接屠るのです。

味覚〜捧げた動物をBBQにして食べる。

嗅覚〜焼かれた動物の匂いBBQの匂いはとても良い匂い、かぐわしい匂いでしょう。そして視覚で焼かれた動物の煙が天に昇る様子を見て、神の中に受け入れられている事実、かぐわしい香りとして受け取られている、傷のない動物を通して自分がイエシュアの業により新しく創造されて傷のないものにされている事実を

ミシュカンの中で実体験して学習記憶するのです。ヒソプと水=イエシュアの血の贖いによりきよめられている事実を体験的に

学習するのです。インパクトあります。キッザニアみたいに職業を子供が実体験する施設がありますが、ミシュカンはイエシュアの私達にされた業を実体験する学習機関でもあるのです。

 

そしてミシュカンを通して実際にメシアを地上に迎える準備を

イスラエルにさせていたのです。救い贖いの意味、実態。

ミシュカン全体を通して古代イスラエルに、メシアの人としての、そしてメシアの業が何であるのかを教えていたのです。

 

多くのユダヤ人が誤解していた事、いや残りの民は理解していた

神であるお方がこの様に限られた場所=ミシュカンの中に臨在を表し、火の柱雲の柱で現れ出た事。そして神であるお方が制限された人間と言う肉体を取って地上に来らる事、制限された時、

場所に存在すると言う事をこのミシュカンを通しても教えていたのです。神は何でもする事が出来ます。ご自分の臨在をどんな形でも人に表す事が出来ます。神の言葉をロバの口からでさえ語らせる事が出来ます。でも人がそれを理解するには、この様に様々なステップ、準備が必要だったのです。

永遠不変の場所に時に制限されないとらわれない全世界に存在する神が1つの場所に現れる出る?なんて人の理解の許容量を遥かに超えた内容を伝えようとしているからです。

 

ミシュカンをと通してイエシュアが教えられていた、それがどうしてこれが分かるのでしょうか?それはヨハネの福音書に記されています。

ヨハネ1:14 そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。

 

言葉=トラーに記された神の言葉です。

ヨハネはここで、ミシュカンと言う言葉のワードプレー=言葉遊びを取り入れて説明しています。

ヨハネはギリシャ語でこれを書いていますが、ヨハネはトラーをヘブライ語で考えてギリシャ語に置き換えて書いてるのです。

 

” 彼は宿った” シャカン

”住まう場所” ミシュカン=私たちの中、間にすまう

”栄光が住まう” シェキナ〜栄光が見える

”恵み” 祭壇の上のオラーの捧げ物=焼き尽くす捧げ物

”真理” 神が神のミシュカンの聖なる場所から語られる。

 

 

続く