神は人を人種により違う構造に造られたの?ユダヤ人だけの教え? | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

更に説教者の解説が続きます。

<私たち日本人クリスチャンも、モーセの律法を守るためには

お寿司、特に甲殻類が食べられなくなってしまう。とんかつも食べられなくなってしまう。パウロはそのような不自由から私たちを救ってくれたのだと言える。>

 

パウロが神の言葉=命のパン=イエシュアを生きる不自由から

救ってくれた?。。。

この解説は単なる自分の都合を話しているだけなのです。神の言葉終わりありき、今は自由選択と言う異邦人の教えを土台にして高らかに語っているのです。言い換えると、神の目に忌み嫌われる、聖別を汚す罪が今は全て許される様になったのですとこの

解説で言っています。そんな事聖書の何処に記されているのでしょうか?神が伝える聖別、神の宮の定義は永遠に変更がないのです。神が永遠に変わらない神の言葉=教えと伝えている、しかも動物も人間も進化変化などしません。

 

この教えは1世紀後半から出現したローマ帝国の勅令と、それに

乗った異邦人西洋教父達の教えと全く同じ声が現代まで伝達、

継承、継続、恒久化しています。

人間は人種により肉体精神構造が違う様に神に造られているのでしょうか?昇天の前後で、人間、清掃動物、腐肉食の生物の構造が変化、進化したのでしょうか?

 

理解しないとならないのは、使徒15章の異邦人はイエシュア信者になっても、神の教えを知らないから神に何を教えられているのかを全然理解していないので、救い主を信じた後も変わらずに異教の神々の神殿に詣でて、汚れた動物を絞め殺し、祭壇に捧げその血を食べ、そして神殿娼婦と交わって姦淫の罪を犯していたその様な事はイエシュア信者として一切出来ません!それがユダヤ人と食卓を囲む交わりをするに最低限知らなくてはならないトラーの神の教えですよと書いてあるのです。

 

この様な箇所を異邦人は浅く考え、真実を汲み取らないのです。

4つの教えだけモーセの五書から守れば、異邦人は後の神の教えなど特に守らなくても良いと解説するのが一般的な異邦人クリスチャンの教えの解説ですが、それは聖書の解説する教えではない不真実な教えです。なぜなら上記した通り15:25の箇所を読めば、彼らパリサイ派のリーダー達は、異邦人に徐々に神の教え=トラー=モーセの五書をシャバットごとに教えて行こう、そして神の教えをこれから理解してもらおうと提案しているからです。

その箇所に記された内容を全部丸ごと把握して読まないとならないのです。

異邦人クリスチャンの世界の典型的な例は、ある節だけを取り出して解説する主題説教ですが、本当はその書全体を何度も何度も読み、その箇所の内容の全体を読んで何が書かれているのか正しく書いてある意味通りに把握する読み方をしなくてはならないのです。あれと同じです。

 

よく有名人がインタビューされて、記事に彼らの発言が切り抜き的に掲載され、前後の話の脈略が全く見せないまま、話している

内容を意図的に誤解される様な形で掲載されてしまうから、インタビューは嫌であると言うのを聞きます。異邦人のパウロの書簡の解説はそれと同じであり、そして書いてある内容をパウロがモーセの五書を終わらせた!と偽の教えを前提として語っている大問題があるから、非聖書的解説がこの様に普通にされてしまうのです。

 

昇天以降は汚れた動物を食して良いなどと神は永遠に絶対に教えないし、パウロも同様にそんな事教えていません。

そう言う教えがありならば、神は恵の時代は姦淫、盗み、なんでもOkと言っているのと全く同じです。

だからトラーに記された教えを破るとは、1つ守って1つは

破る、その行為は全部の神の教えを違反した事と同じであると

教えているではありませんか。人間の生き方のどれ1つでも

ズレた状態は、神の性質通りに造られた人の本来の生き方とは

ズレているからです。

 

こう言う教えを誰かに聞かされた時には使徒21章のパウロの証、証言、ナジル人の請願の意味を思い出して下さい。パウロはモーセの五書を破るように教えている、行動していると言う疑惑を払拭する神殿での請願を果たした事実が記されています。

そして

聖書解釈のルールを破らない様に読んでください。聖書に書いてある事実を人の考えで曲げてはならない。パウロは100%モーセの五書に忠実に生きて、モーセの五書を破る教えなども誰に対してもしていませんし割礼も禁じてません!と言う証拠を残した記録が聖書にちゃんとあるのです。聖書に記されている事実を

丸ごと無視した創作話は作るのはやめなくてはならないのです。

 

一般の異邦人クリスチャンの世界で語られている教えは、神はユダヤ人だけの教えを設けていて、ユダヤ人だけモーセの五書を守っていれば良いと言います。ユダヤ人だけ神のオリジナルに創造された記念日を祝えば良い、ユダヤ人だけきよくない動物を食べる事を禁じていると教えます。それって神の教えではなくて、西洋教父たちが勝手に言いだした教えを、神の教えだと錯覚、勘違いしているのです。

なぜ?聖書を書いてある通り正しく検証し学ばないからです。

もし人が神との関係にあるなら人種に関わらず漏れなくその人は神の契約を生きる事に加えられていると言う事実が全く見えていないのです。その人が婚姻契約の生き方に反する事をするか、

しないかが書かれているのです。

 

神が、神の言葉が進化変化、神の創造物が進化変化する、そんな発想、異邦人の考えは、神の言葉、教え=聖書ではないし、根本的に変で、神の言葉のあらゆる箇所と矛盾しているのです。

人間とは、人種により体の構造機能が全て異って創造されたのですか?人種により人々のニーズや、感情が異なるのですか?

ある人種は数種類の性別があり、体の構造が違うのでしょうか?

誰でも神のデザイン通りを生きれば喜びあふれ、誰でも互いに傷つけ合えば同じ様に痛むのではないのでしょうか?

聖書=神の解説によれば、人はアダムとハワ、大元はアダムと言う一人の人から全ての人がこの地の表に出てきたと書いてあります。

ある人は、”イエシュアは全ての動物をきれいにして、十字架で

亡くなった事できよくない動物が全てきよくなったのではないの?”と言います。

答えは聖書から、実際の事実からも明らかです。

イエシュアの十字架の死で、牡蠣の腐食性、ゴミ、菌、死骸を

食べる性質が変化、進化したのでしょうか?

人間も十字架の死以降、進化、変化したのですか?

 

動物も体の構造中身が進化変化した?清掃目的で作られた、陸の海の空の生物が進化変化した?腐肉食の動物はその生態を変化させた?死体、腐敗物、排泄物、なんでもかんでも食べる動物は、汚れた動物で、その動物は昇天以降も同じ性質の動物で進化、変化しない汚いものを内側に溜め込む、人間が食べるにフィットしていない清掃動物である事には何も変化がありません。

 

人はなんでもかんでも取り入れる事をしてはならない、牛の様に

取りれたものを吟味し、反芻し、自分の性質に属さないものは外に出す、これらきよい動物で聖別が教えられ、毒を溜め込む性質の動物の様に、自分の体に、頭脳に神の性質とは違うものを取り入れ、溜め込む様に造られていない事で聖別を教えられているのです。安全な境界線を与えられているのに、人が勝手にそれを破壊して害毒危険を呼び込んでいるのです。罪が戸口であなたを待ち受けるけどあなたはそれを治めなくてはならないと警告されている言葉に繋がります。

 

神の言葉で教えられる、人は神にどの様に造られている、どの様に生きるのか?が記されている事実、現実を直視して考えてみれば見えてきます。

神の教えが変わったと言うのは、神が創造された世界、人間、生態系動物の構造が変わったのですと、あり得ないことを主張しているのです。

 

イエシュアの十字架=贖いは永遠の中に完了しているのです。

この世の礎が築かれる以前に私達は神の上に取り分けられた

聖別された者として選ばれている神の言葉の事実がそれを伝えています。イエシュアの地上で表された永遠の中にある贖いの事実は、同時に神の創造されたきよくない動物はきよくなるものではありません。神の教えが取り去られたと言うならば、それらの

清掃動物、腐肉食の動物の構造が進化した変化したと言うあり得ない仮説を信じている!馬鹿馬鹿しい作り話なのです。

 

その大元は、命の木、知識の木に繋がります。その様な神の言葉が変化した教えを主張するのは、神が禁じているものが今はOkになる、知識の木から食べなさい〜と神が言い直しているのだ、

神の創造は第一日目に止まり、2〜7日に創造の業をしたのだと無理やり事実では無い事に置き換えて解説しているのです。

それは人間の考え出した宗教の教えです。

現代の疫病は、神が人類に警告している汚れた動物=人が食するのに不適切な清掃動物を食くするリスク、神の言葉に反対して、犯している結果生まれたものです。

 

神は人が健康をどう守るか、その保証に対する神のプランがあるのです。
聖書に記された人の健康を保証するプラン、神が私達に何を食べ
何を食べないかとシンプルに伝えている事にどうして、神に属する人達は注意を払う事をやめよと教えているのでしょうか?神がこの世界の全てを創造されて、神が人の食べ物である動物を創造されたのです。
神の伝える事実、人は何を食べて、何を食べないと言う事を聞く
事は、私達の命、健康、体、精神を守り、その結果私達に益を
もたらすものなのです。そしてそれは神が伝える聖別を守る事に
直結しているものなのです。神の宮の中には汚れた動物は持ち運んだり、神との一番親しい交わりの場所=お茶の間=祭壇の上に
捧げたり出来ないものなのです。
 
そして、食べると言う、命を繋ぐ日々必要不可欠、基本的な事を通して人に聖別を教えているのです。命の木、知識の木は食べる事そのものと直結しています。人は神の口から出る1つ1つの
言葉により生きるとある通り、神が伝えた通りを生きる様に
造られている、その基本中の基本を、人の考えで破っても良いと言うのはエデンの園のあの動物の声です。
 
異教の神々の世界の人達と同じ様に、神の言葉を識別しないままなんでも、かんでも取り入れてはらないと、境界線を敷いているのです。交わってはならないもの、取り入れてはならないもの、神の安全地帯の境界線の外側とは人は交われない事を教えているのです。
 
これは大きなトピックですから、別の記事にシリーズで書かないと見えない内容ですが、神の家=聖なる神殿=神の臨在を地上で表される場所、神の祭壇=神の子らの神との一番親しい交わりを
するその食卓の上には、汚れた動物を持ち運び、捧げる事は
神に取り、荒らす忌むべきものと記されているそのものがする行為であることが聖書に記されているのです。
 
私達神の子らは、神の聖霊の宮と言うでしょう。聖霊の宮は、
物理的に地上の実際の神の宮でその実態を表し人々に聖霊の宮
神の宮、天の祭司達の生き方を神殿の中で教えているのです。
 
どうして、神の宮に汚れた動物を持ち運べないのか、どうして
神の宮である人の中に汚れた動物を取り込めないのか、神が人に
教えているのです。昇天以降、神の教えが変化した、人が動物が
変化、進化したと言う教えを聞くならば、それは神から出た言葉ではない、別物の教えを聞いているだけなのです。
 
続く