異邦人クリスチャンが非聖書的教えを土台にパウロを解説する | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

パウロがモーセの五書を終了させたと言う事を1コリント9章を引用して主張する説教者の解説内容を書いていますが神は神の言葉を終わらせたと言う教えは、それは神が言ったのですか?

そしてそれは聖書のどこに記されているものですか?

聖書は神の言葉に関して何と人に伝えていますか?

人の思想や宗教教理ではなく、聖書からだけ検証して下さい。

 

福音書〜黙示録は、100%タナック=モーセの五書、預言書、諸書のみを指して語り、聖書に聖書はと書いてあったらそれは、

100%タナック=モーセの五書、預言書、諸書のみを指して

語っていると言う事実を聖書から知って下さい。

 

聖書の最後のエピローグ=タナック=モーセの五書預言書諸書の解説が書かれている間は、誰もこれらを聖書とは認識していない、多くの人がその存在さえ知らない、一部の人だけが読んでいたものなのです。聖書として認定されたのはのはずっと後、4〜5世紀の時なのです。そして福音書〜黙示録、その中にはタナックとは異なる別の新しい教えなど何1つとして記されてなどいないのです。

あなたの参考書が教科書とは異なる別の教えが記されていたら

それは教科書を正しく解説していものとして役に立ちませんよね。福音書〜黙示録に、聖書の最初の75%をどの箇所でも否定する教えが記されているなら、それは聖書とはなり得ません。

 

そして、読んでも分かる通り、福音書以降の聖書著者は100%

タナックから全てを話しているのです。

モーセの五書に記された神の教えを指して人に解説しています。

 

2テモテ3:14 しかし、あなたは、自分が学んで確信しているところに、いつもとどまっていなさい。あなたは、それをだれから学んだか知っており、

3:15 また幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている。

3:16 聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。

3:17 それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。

 

ヤコブ2:8 しかし、もしあなたがたが、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」という聖書の言葉に従って、このきわめて尊いトラー=モーセの五書=父の教え=シナイ山の婚姻契約を守るならば、それは良いことである。

 2:9 しかし、もし分け隔てをするならば、あなたがたは罪を犯すことになり、トラーによって違反者として宣告される。

2:10 なぜなら、トラーをことごとく守ったとしても、その一つの点にでも落ち度があれば、全体を犯したことになるからである。

2:11 たとえば、「姦淫するな」と言われたかたは、また「殺すな」とも仰せになった。そこで、たとい姦淫はしなくても、人殺しをすれば、トラーの違反者になったことになる。

2:12 だから、自由のトラーによってさばかるべき者らしく語り、かつ行いなさい。

2:13 あわれみを行わなかった者に対しては、仮借のないさばきが下される。あわれみは、さばきにうち勝つ。

 2:14 わたしの兄弟たちよ。ある人が自分には信仰があると称していても、もし行いがなかったら、なんの役に立つか。

その信仰は彼を救うことができるか。

 

ヨハネ14:24わたしを愛さない者はわたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉は、わたしの言葉ではなく、

わたしをつかわされた父の言葉である。

 
イエシュアが言っている言葉の意味を把握しないとならないのです。聖書に登場する人達は、み言葉、仰せ、命令、戒めetc 全てはモーセの五書を語っているのです。聖書は全てモーセの五書を
語っているからです。イエシュアを愛さないものは、わたしの言葉=モーセの五書、父の言葉を守らない!と言っているのです。どうして、神の言葉を否定する事が正義、恵、自由なんて考えているのか?それは、異邦人教師達の教えに洗脳された脳回路で聖書を曲げて読んでいるからです。

 

神の言葉から解放されると言うならば、神との関係から遠のき、キリストから離れて解放されると言っている事に気が付いていないのです。神が人に教えている生き方とは、婚姻関係の生き方の詳細を捨てると言う事だからです。

私達が神との関係にある根拠、事実はモーセの五書=婚姻契約を土台に神との関係がある事を全く知らないのだと思います。夫から切り離され、婚姻届も破棄し、結婚指輪も捨て、婚姻している関係の生き方を無視し、夫が指定した記念日も無視し、独身の

ごとく自由勝手気ままに生きる。自分が一方的に考えた記念日その日に夫は現れ祝わないのだけど現れたつもりで盛大に祝う。

 

パウロの書簡を書いてある通りに学べば、トラーに記されている

通りを直視したら、その様な教え、パウロの教えている内容を信じる、トラーは今の信者の生活に現在関係していないと主張する人々は、必然的にイエシュア=トラーを教えた内容ではなく、

モーセの五書を否定している??パウロだけに行くと言うことになってしまいます。その人達はパウロは、イエシュアとは違う

モーセの五書とは違う新しい教えをしたと信じているからです。

 

イエシュア100%父の教えを生きて教えたからです。パウロも同等に同じなのです。でも、異邦人クリスチャンは、パウロが神の教え=トラーに初めて対抗して立ち上がった勇気あるヒーローだと考えているのです。本当に混乱を招いているズレた非聖書的教えです。

イエシュアを福音書に記された内容から知れば、イエシュアが

行った事は100%トラーを生きただけではなく、他の弟子達や人々にトラーを同じ様に生きる様に教えていた記録しか聖書には書かれていない事を発見するはずです。

 

この説教者の持論は更に続きます。

 

<パウロは特に、ユダヤ人でない異邦人クリスチャンにモーセの

律法を守らせようとすることに強硬に反対した。>

 

この意味が何かを考えないとなりません。使徒15章にある通りイエシュアを信じても神の教えを知らない異邦人に初めからトラーを知り先祖代々生きて来たユダヤ人達の様に、神の言葉の全ての理解が異邦人にはないのに、全部を異邦人がいきなり理解する事を要求するのは無理であるとパリサイ派の長老達が言った事は正しい事なのです。こう言う事と同じです。ヨチヨチ歩きしか出来ない幼子に、大人の様に早く走れ!とは要求出来ない、足し算の知識しか無いレベルの生徒に、掛け算、ましてや因数分解など要求出来ない、知識が揃って能力が備わって行くに応じて教え導いて行く。そう言う事を言っているだけで異邦人には神の教えを要求すべきでは無いなどとパウロは言っているのではないのです。しかも、ここで反対された事は、異邦人達がユダヤ人になる

改宗儀式をしないと、天の一員とみなされないから、仲間に入れないと言うのは、神の教えとは異なる、改宗儀式は人が考え出したもの、誰でも信仰によりイエシュアを受け取り新しく創造された人の事実を受け取ったら、儀式を通して義とされるのではない

からです。

異邦人が改宗儀式=プロセライト=割礼と言う名前が付いたアヴラハムの割礼の意味とは違う、1世紀当時のユダヤ人の中にあった、異邦人を改宗させる儀式の名前を割礼と呼んだ、その様な複雑な儀式を通る事を強要しないで、楽に仲間に加われる様にしようと言う下りが15節に記されている内容なのです。

 

使徒15章では、異邦人がユダヤ人信者と交わりを持つためには、異邦人が絶対にしてはならない事最低限、取り敢えず4つだけは、最初に理解しないとならない、それらのズレ罪をやる事から手を引いて下さいと言う内容なのです。

後の神の教えは、シャバットごとに会堂でユダヤ人と共に異邦人がトラーを学ぶうちに、神の教えを分かって行くだろうからとも書いてあります。

 

パウロがモーセの五書は異邦人が生きなくて良い、強要しない?完全に飛躍した、聖書に語られている内容を誤解して、聖書を

丁寧に書いてある内容を学ばない解説をこの説教者もしているのです。

ここで理解しないとならないのは、15章の異邦人はイエシュア信者になっても、神の教えを知らないから神に何を教えられているのかを全然理解していないので、救い主を信じた後も変わらずに異教の神々の神殿に詣でて、汚れた動物を絞め殺し、祭壇に捧げその血を食べ、そして神殿娼婦と交わって姦淫の罪を犯していた、その様な事はイエシュア信者として一切出来ません!それがユダヤ人と食卓を囲む交わりをするに最低限知らなくてはならないトラーの神の教えですよと書いてあるのです。

 

この様な箇所を異邦人は浅く考え、真実を読み取らない、汲み取らないままモーセの五書終わりと言う思想で解説してしまう良い例なのです。

4つの教えだけモーセの五書から守られば、異邦人は後の教えなど守らなくても良いと解説するのが一般的な解説ですが、それは不真実です。なぜなら、上記した通り15:25の箇所を読めば、彼らパリサイ派のリーダー達は、異邦人に徐々に神の教え=トラー=モーセの五書をシャバットごとに教えて行こう、そして神の教えをこれから理解してもらおうと提案しているからです。

 

その箇所に記された内容を全部丸ごと把握して読まないとならないのです。

クリスチャンの世界の典型的な例は、ある節だけを取り出して

解説する主題説教ですが、本当はその書全体を何度も読み、その

箇所の内容の全体を読んで何が書かれているのか正しく書いてある意味通りに把握する読み方をしなくてはならないのです。

あれと同じです。

よく有名人がインタビューされて、記事に彼らの発言が切り抜き的に掲載され前後の話の脈略が全く見せないまま、話している

内容を意図的に誤解される様な形で掲載されてしまうから嫌で

あると言うのを聞きます。異邦人のパウロの書簡の解説はそれと同じであり、そして書いてある内容をパウロがモーセの五書を

終わらせた!と偽の教えを前提として語っている大問題がある

から、非聖書的解説がこの様に普通にされてしまうのです。

 

汚れた動物を食して良いなどと神は絶対に教えないし、パウロも同様に教えていません。それを言うなら、盗み、姦淫、偽証、なんでもOKと神が言うのだと同じことを言っているのです。

トラーのどの箇所でも違反する人は、全体を違反していると教えているからです。ヤコブ2:10

こう言う教えを誰かに聞かされた時には使徒21章のパウロの証、証言、ナジル人の請願の意味を思い出して下さい。パウロは100%モーセの五書に忠実に生きて、モーセの五書を破る教えなども誰に対してもしていませんし割礼も禁じてません!と言う証拠を残した記録が聖書にちゃんとあるのです。事実を無視した創作話はやめなくてはならないのです。

 

 

 

続く