異邦人クリスチャン説教者の教えを読んで | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

異邦人クリスチャンの世界で一般的に教えられている教えや聖書解説をネットで読んでみて、な〜るほどルターやダービー、初代西洋教父達の教えを忠実に継承し続けた人達と同じくモーセの

五書終わりありきで、神の言葉を曲げて全ての解説を語っている内容でした。

神の言葉を曲げる=今の時代はモーセの五書を生きなくても、

ある部分は有効で、ある部分は自由選択で良いと言う教えは、

異邦人が勝手に創作した教えです。

 

聖書解釈には、基本的ルールがあるのです。よく聖書は聖書により解釈せよと言いますが、神の言葉に照らし合わせる事をやめて

人の思想や教えに照らし合わせて解釈、解説してしまえば、それは自ずから聖書とは違う解釈、解説が出来てしまうのです。

何が聖書は聖書で解説するのか?神が神は変化しない、神の言葉は永遠に廃らない、変わらない、一点一画も人間が神の言葉に

手を付け差し引き、付け足しするなかれ!と神の口から直接語らられた言葉が書いてあるのに、その神の言葉を真っ向から無視した解説方法=西洋神学、西洋ヘレニズム哲学を土台とする彼らの思想により解説される聖書の中身なのです。

 

それらの解説は聖書の事実ではありません。パウロの書簡の

1コリント9章からの解説でしたが、典型的なパウロの書簡、

聖書を曲げた解釈の解説をしています。その大前提はパウロが

モーセの五書=神の教えを現在却下しても良いと教えていると言うものでした。これは一般的な異邦人クリスチャンのパウロの

書簡の解説です。でも聖書解釈のルールに沿えば、その解説は

矛盾だらけなのです。

使徒21章のパウロのナジル人の請願の意味=パウロは100%モーセの五書に違反していないと言う公での宣言の意味を知れば以下にある解説がパウロの言葉とは違うと理解出来るものです。

ナジル人の請願の項目の中にはパウロは異邦人に対してもモーセの五書に反する教えなど1つもしていないと言う項目も含まれているのです!

パウロはある時こう言って、一方発言と違う行動をするとか<パウロは、分裂傾向、性格異常なのでしょうか?>、パウロは人種によりトラーを無効にする、又は有効にするとか、パウロの書簡でパウロが語る内容を完全に誤解し、翻訳の上部だけをさらっと

見て解説している事は明らかな事実です。モーセの五書に根付き照らし合わせ、言語の意味、内容に関して深く真実を学ぶ追求をしない聖書の読み方をしています。パウロは100%モーセの五書など否定しない!その永遠の事実からだけ聖書を読み直さない限り、聖書に記された永遠の事実に盲目のまま、人の教えに神の言葉の真実を目隠しされたまま聖書を読みながら、実は人の思想を頭の中にインプット、刷り込みされ続けてしまいます。

 

この解説者はパウロが1コリント9章で語っているのは、「モーセの律法からの自由」を話していると言うのです。典型的な異邦人クリスチャンのパウロの書簡に関する解説をそのまま語っているだけですがそのパスターが語っている説教を引用してみます。

 

ここで律法と言うのは、モーセの五書=トラー、神の言葉の解説では、永遠不変の神の言葉、教え、インストラクションと言う意味のヘブライ語で記された言葉を、不適切な翻訳=律法と言う言葉で表されているのです。

赤い文字の部分は聖書ではなく、この説教者の思想です。

青い文字は聖書の事実です。

 

<「聖書に記されている、律法の中でも一番大事なものは十戒であり、十戒だけでも守らないとならないと思う人の方が多いだろうが、パウロは十戒を守らなくてもいいのだと言っている。なぜなら私達〜現代のクリスチャンは聖書ではシャバット=安息日は、土曜日であるのに日曜日に集っているのは、安息日では無い週の初めの日だからである。なぜ日曜日に集まるのか、それはキリストが復活した日だから、日曜日が特別なのは十戒の教えのためではなく、復活日だからである。

 

ここで解説を入れると、この説教者はとんでも無い矛盾と非聖書的教えを同時に混ぜて語っても何も気が付かないのです。

十戒=ヘブライ語では10の言葉=神の教え、聖書の大柱、題目

であるもの、神の言葉を退けて、人の思想=復活日と考えられる日にちなんで、安息日とする、神の創造された本物の安息日=

シャバット=第七日目は変更、却下、祝わない事とすると言う事

を言っているのです。

この行為の大問題は、第一に神の言葉を否定している事です。

神を愛する人は、神の教え=言葉を愛して、それを生きると書いてあるのです。神を愛する人は、神の言葉を聞いて、神の言葉とは違う事を自分の悟りに頼り生きると書いてあるのでしょうか?

神はシャバットは、神と神の子らの印〜関係の中にある印として与えて、その日第七日目は永遠に代々に渡り祝われるべきもの、

第七日目に神は神の子らを呼び出している、この日を聖別して

汚してはらならないと言われました。その神の語る永遠の真実の大前提を最初から無視して、人間の思想、伝統を語っています。

次にどうして日曜日にシャバットが変更になった本当の理由を

この説教者は知らない事は明らかです。

そして日曜日が特別なのは神の教えに由来せず、復活の日が週の特別な日、大事としている理由は、単なる人間の理由づけ、考えに基づく事であるとはっきり書いています。

 

詰まり、安息日を土曜から日曜日に変更したのは、人間の考えであると言っていますが、その通りです!人間が変更した〜神は

その様な変更をする事を人に断固として禁じていて、神のシャバットを汚す事は死に値する罪と人に伝え教えているのに、神の記念日を変える罪の重さにさえ、このパスターは全く神の言葉の事実に無頓着、真理に気が付けないのは、モーセの五書が廃れたと言う異邦人創作の教えを土台にしているからです。この様な偽の教え=神の言葉を否定する負のスパイラルに気が付いて下さい。

 

シャバットと神の創造は繋がっています。神は1〜6日の間に

創造の業をされ、完全に完了して第七日目に止まられた。そしてその日=第七日目を聖別され、人は1〜6日の間働き、第七日目に止まる。第七日目だけが週一度の聖別された主の日。この事実は神の前に永遠に変わらないものです。それとも神は昇天以降創造を全部最初からやり直し、第一日目にとまり2〜7日に創造し直し、そして人に第一日目に止まる、神と共に祝うと言う事をされたのでしょうか?第七日目を聖別し、神と祝う事も神が復活の日に変更する事もないのです。

 

神の教えを変える罪を表す代表としてヤラベアムの罪と聖書には、ずっと記されているのです。何をヤラベアム王はしましたか?神の教えを退け、神の祭り=記念日を変えたのです。日時と、そして祭壇をエルサレムの神殿以外の場所=ダンに設けて、そこで動物を捧げた、レビ族以外の人達を祭司と任命したのです。1列王記12:27ー33

 

神の教えではない人間の教えを土台にして考えているから神の語る真実からズレてしまうのです。灯台の光を退け、船の方が勝手に迷走しているのです。灯台は変わらずにそこにあり、光を放っていますが、船がその正しい道を照らす光を無視しています。

神の教えを退け、どうして人間が神の上の権威を持つことが許されているのでしょうか?

昨日、日本に居る家族の一人と会話していました。最近カトリック教義を聞き影響を受けてしまったようで、この様に言っていました。

”神は人に権威を与えているから、権威が聖書を曲げても良い”これ、実はユダヤ人ラビの世界にもある教えですもちろんユダヤ人は異邦人のする様に、神の言葉など曲げませんし、シャバットを第七日目から第一日目に変更するなど、その様に神の教えを曲げる様な事はしません!ではどう言う共通点があるのか?です。

 

寄り道しながら書きますが、どんな事なのか理解するために書いてみます。色々な要素が入っているので、よく考えながら読んでもらえると、見えてくると思います。

まず、前回のルターの思想によりナチスが実際にユダヤ人を大量殺戮した事に繋がる事です。

 

マルコ7章ですが、この箇所は、要約すると、市場から帰って、市場=汚れた異邦人達が商売して、そこで売られている動物=きよい動物でも、その他諸々、その人達が取り扱うと汚れていると考えていた、これは偶像に捧げられた肉に関してのパウロの教えている事と共通する内容なのですが、当時のユダヤ人の間では、モーセの五書の教えではないけれど、当時の人達は外から帰ったら、汚れた手を念入りに手洗いしない限り食事は出来ない、市場から帰ったら身を清めないと食事できない、杯、鉢、銅器まで洗うと人の言い伝えを守っていたのです。異邦人と接触する世界と触れたら汚れると人の迷信=律法の戒め、律法の行いと呼ばれる人の教えを神の教えだと信じていたからです。

 

パウロが”律法の戒め、戒律”と書いて解説しているものを、神の教え=モーセの五書だとクリスチャンの世界では勘違い、誤解されています。

パウロが説明している事は、人が作った”ハラハ”、彼らの当時の人達が創作した教えであり神の教え=トラー=モーセの五書であるのだと混同して読んでいるので見えないと思いますが、イエシュアが戒めていたものは、当然の如く、父の教え=モーセの五書の教えを生きる事に関して生きるなと戒めていたのではないのです。パウロも同様です。

 

イエシュアは人の伝統で作り出された人間の教えを、神の言葉とはズレていると正しているのです。その様な箇所を内容全体を読んで何が書かれているのか、掘り出さないとならない良い例です。

イエシュアがここで正しているのは、父の教え=モーセの五書を生きる事を否定しているなどと、とんでもない誤解をして読んだら聖書、神の絶対性、権威が崩壊します。イエシュアが正しているのは、人の教え=言い伝え〜宗教の教え=人が創作した教えに対して、それは神の教えではないよ!と教えているのです。

多くの人は、どの時代でも人の教えを生きてそれが神の教えだと頑なに盲目的に信じているのです。

 

神の創造された記念日を退け、人が1世紀後半以降に編み出したものを神の創造されたシャバットの代わりに祝う、その行為は、このイエシュアの言葉にぴったり表されています。

そして、さらにイエシュアが言われた事です。

 

マルコ7:6 イエスは言われた、「イザヤは、あなたがた偽善者について、こう書いているが、それは適切な預言である、『この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。

 7:7 人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる』。

7:8 あなたがたは、神のいましめをさしおいて、人間の言伝えを固執している」。

7:9 また、言われた、「あなたがたは、自分たちの言伝えを守るために、よくも神のいましめを捨てたものだ。

マルコ7:19 それは人の心の中にはいるのではなく、腹の中にはいり、そして、外に出て行くだけである」。

イエスはこのように、どんな食物でもきよいものとされた。

7:20 さらに言われた、「人から出て来るもの、それが人をけがすのである。

この上の青字の文章は、原典聖書に無い文章を異邦人が勝手に挿入したものです。翻訳ではこの様なトリックが出来てしまうのです。でももしこの文章が挿入されたとしても、ここでイエシュアの言葉を聞いていた人達は、ての食べ物〜レビ記11章に記された人が食するにフィットした、相応しい動物=きよい動物、

腐肉食、清掃動物=汚れた動物をさして、全ての食べ物であるなどと話してなどいない事を知って聞いているのです。日本人でさえ、犬、猫、ハムスター、ゴキブリ、ネズミ、アルマジロ、ワニカピバラ、その他聞いたこともない動物生物を人間の食べ物と考えますか?これらの動物は、レビ記11章、申命記14章で伝えられている豚や馬やエビと同じカテゴリー、全て同様に神が伝える”きよくない動物=人間が食するために創造されたのではない動物なのです。

モーセの五書を知る当時の人は、神が人が食するために創造された動物以外を、人間の食べ物=全ての食べ物などと言う発想、神の伝える教えに異議申し立てしようと考える、する人は1人もいないのです。なぜなら、清掃動物、腐肉食の汚れた動物は、人間の食べものではないと神の言葉からはっきりと神の永遠不変の言葉の意味を理解している人達だからです。彼らは神の言葉は絶対であり、変わらないと理解しているからです。

でも異邦人の様にその様な汚れた動物を普段から日常的に食している文化に代々に根付いて生きている人、神の言葉、教え=トラーを知らない人には、イエシュアが汚れた動物、全てが今はきよいなどと言うわけなどあり得ない事を全く理解出来ないのです。

イエシュアが、盗め、殺せ、姦淫せよなどと言うわけないのと

同じ事なのです。

その上、常に神の言葉は変化する、終了すると言う人間の教えを土台にして聖書に記されている内容の全てを考えているから、神の言葉が変わらないと言う大前提が無いから、神の言葉の真実が見えないだけなのです。

 

続く