神の子らにされた後はどう生きる? | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

昨日のトラー朗読の箇所は、出エジプト21:1- 24:18。

もう一箇所は、2列王記12:1−17でした。

(その箇所に関連する福音書以降の箇所はマタイ5:38−42 17:1−11)

世界中のどこに住んでいても、ユダヤ人はこの同じ箇所をシャバットに朗読し、学びます。飛ばさないで聖書を満遍なく学ぶと

言う体験は私には無かったものです。このトラー朗読のスケジュール三年サイクルもありますが、これは1年で読む朗読プランです。そして、主題説教ではなく、書いてある内容を聖書に書いてある通りに解説するのです。これは聖書を学ぶ大きな手がかりと

なるのです。聖書に書いてある事を、書いてある意味通りに教えられると言う当然のことが欠けているのです。

出エジプト記には、イスラエルの歴史が直接書かれていますが、

これは、イエシュアを通して贖われた一人一人の歴史を辿るもの

でもあります。

エジプトのヨセフの元に12人の兄弟達、70人の家族が上って

行った後、その後も彼ら一族は必要以上にエジプトに留まり続けてしまいました。

エジプトは、異教の神々を代表する国として聖書に記されています。異教の神の大元は、エジプトのラー=太陽神です。太陽の

シンボルが世界中で使われているのは、異教の神々を代表するからでしょう。エジプトの10の災いは全て、10の異教の神々への裁きです。

エジプトに住んだと言う事は”奴隷”の自己像を植え付けられ、

偽の神々と偽の主人に仕えて束縛、拘束され本来の自分のID、

自己像を忘れ、別の自己像を刷り込まれ生きて来てしまったと言う事です。これは救われる前の全ての人の状態とぴったり同じです。偽の神々、この世の価値観、この世の基準、偽の自己像、

この世が与える成功者と言うゴールなどなどに引きずられて、

神から切り離されてそれらを目標として生きて、それらの目標や水準に合った生き方が出来ない人は失格者、駄目な人、価値のない人であると皆が刷り込まれているのです。

競争の世界に生きている。

 

神に創造された一人一人は、神のそれぞれのプランがあり、個性

性質が与えられているのに、それらを教えられる事は全くありません。神の教え、神が伝える本当の自己像を知らない人達には、

それらを教えることができないからです。

その様に別の自己像を刷り込まれた人達が、エジプトを脱出して

奴隷の意識を丸ごとリセットする生き方に導き出されたのです。

これは過越で表されている事で、過越の祭りを祝う=神に贖いだされた事実の一連を思い出す祭りです。そして、2000年前の

過越の祭りに、イエシュアは屠られた子羊として処刑されたのです。事実が見えますか?神のデザインされた記念日全ては、

イエシュアを表すもの、イエシュアに繋がり生きる人が辿る

新しく創造された人をリセットしながら生きる、命のサイクル

なのです。

神はイスラエルと言う国民をその時作り、その中に少数の異邦人が存在し、全て丸ごとで1つのイスラエルの神の家族と言うものを誕生させたのです。それらの人は、神が伝える本来の生き方を

1から学び直さなければならなかったのです。今まではエジプトの王、偽の主人に偽物の教え、生き方を刷り込まれて来たのですが、出エジプトした後は、イスラエルの神に贖い出された人達として、神が伝える事を1から学ぶと言う事が必要でした。

 

荒野の40年は、神の言葉だけを聞き分ける、旅路だったのです。ミッドヴァ=荒野=言葉と言う同じ根源が入っているのです。神の言葉を聞く場所に導き出された。

これは、一人一人皆同じ事です。以前の自分=肉の自分=罪の法則に縛られて生きる事しか知らない世界、聖霊が内側に住まう事

がなかった自分から、イエシュアの贖いの血で買い戻され神の前に”義”とされ、新しく創造された人に生まれ変わった!その事実を神から無償で与えられたのです。これは、人間の努力や、行い

により獲得出来る性質のものではありません。だからクリスチャンの世界で語る、律法主義とは、もう少し聖書に基づき掘り下げて検証し認識する必要があるのです。元々、ユダヤ人の中には

その様な思想は無い、なぜなら事実、”贖い”と言う意味は、

ある主人からある主人へ所有権が変わる時に払う代価だからです。人=奴隷は自分で自分の代価など払えないからです。

しかも、私達が支払わなければならないのは、”命”しかもイエシュアの命しかその事を成し遂げるものがない。他の代価は適用できないこのことは、クリスチャンの世界でも語られる事です。

 

だから、人は神の言葉や教えを実行する事で、新しくされた命を

取り戻せないのに、それを神の言葉を行う事で手に入れると考えているなら、それは神の意識からずれている律法主義的思想と言うものです。

 

異邦人クリスチャンが多大の誤解している要因はこんな事だと思います。

1 神の言葉、聖書の最初の75%に書かれている内容と、

福音書以降、聖書の最後の25%、この箇所は最初の75%の

短い要約、注解、エピローグなのですが、最初と最後の箇所には

違う教えが書いてあると全く誤解している事です。神の言葉が

変化しないと神が言う大前提を無視して、人の思想を通して聖書に書いてある内容を曲げて読む事を教えられてしまっているからこの様な思考回路になってしまっているのです。

 

2 この様な神学思想から、聖書の最初の75%は呪いの律法である。これらを生きる人は、神の恵みを無駄にしている!と

信じて主張していますが、これはパウロが語る言葉を完全に誤解した解釈のみを聞いているからです。律法の下にいないとは、神のトラー=教えの下にいないなどと言う意味では無い。新しく造られた人はもう”罪の法則”の下にいないと言う意味です。でも新しく造られた人でも、罪の法則の下に留まり続ける選択をする事も出来るのです。だから神の伝える聖別された人の生き方を神の

言葉から知らないとならないのです。

今は恵みの時代とあって、昔は怒りの神の呪いの時代などと解説していますが、何を言っているのでしょうか?神は最初から恵みに富み憐れみと許しに豊か愛の神と人に紹介されているのです。個人個人がイエシュアに出会うまで、神の恵みを生きる中に入っていないままであった、だから救われた人に取ってイエシュアに出会って、初めて神の恵みの中に生きる事が始まった!と書いてあるのです。それを、過去は呪いの時代、今はなんでも許される恵みの時代などと言う、本当に聖書をちゃんと書いてある通りに読まない読み方を身につけてしまって、神の真実を素通りしているのです。そして古代の人には、同じ恵み、許し、救いがなかったとまで考えているのですが、聖書には最初からイエシュアが書かれてずっとその事実が記されているのです。それを知っていたか、知らなかったか、個人個人によるだけなのです。イエシュア=贖いの事実は永遠から永遠に存在している。

 

3 それ故に、今恵みの時代なのだから、呪いの時代の呪いの

律法=モーセの五書に書かれた事を生きる人は、神の恵みを無駄にする生き方に戻るのだ〜!そして2世紀以降に出現した反ユダヤ、反モーセの五書の思想を説いた、西洋教父の教えを復唱し、それらを生きる人は、神に背く事をしていると言う、古い教えに固執しているキリストの恵みを無駄にしているなどと考えているのです。これらひとえに、特にパウロの書簡をとんでもなく

誤解して解説されてしまっている産物なのです。

パウロは100%モーセの五書を支持し、モーセの五書に記された神の教えのどの箇所にも違反していない、人に神の教えを禁じる教えをしていない事を、民数記6章の神の仰せ=ナジル人の請願を神殿の中で他の人々と共に公に行い、パウロが100%モーセの五書を生きている立証、証明しているのです。使徒21章。

 

聖書に記された記述を無視する人の教えに照らし合わせると

聖書の事実とかけ離れてどこまでも辻褄が合わなくなり、それでますますその偽りの教えをカバーする非聖書的解説を勝手に編み出して行くと言う悪循環を繰り返しているのです。

単純に、神に贖い出された人は古代でも現代でもどの時代に於いても、新しい主人=本物の創造主が伝える生き方、ライフスタイルを1から教えられる必要があるのです。それがモーセの五書に

記されている内容なのです。新約聖書と呼ばれる箇所には、

全ての罪の詳細や、人の生き方の全領域に関しての詳細、聖別の詳細、法律や、民事に関して、人が生きる全てに関しての教えは記されていません。どうして?それは最初の箇所に全部書かれているから重複する必要がないからです。福音書〜黙示録には、

聖書の最初の75%と違う教えが書かれていると言う空想、神話偽の教えを全部削除して、書いてある通りに聖書を読めば、神が伝える永遠不変の事実が見えてきます。問題は、福音書以降には違う新しい教えが記されている!と信じ込んでいる事です。

イエシュアは創世記の最初の箇所から記されているのです。

 

ユダヤ人も長い間エジプトの奴隷でした。その人達が神が伝える

神の性質に造られた人を生きる事、自分達だけではなく未来の

次世代の人々に伝え継承して行く責任がありました。出エジプトした人達子羊の血で義とされた贖い出された人達は、今度は神の子ら花嫁としてどう生きるか?を神に教えられるために荒野に連れ出されたのです。シナイ山で受け取ったものは、婚姻契約であり、異邦人クリスチャンの世界が語る、人が生きる事が不可能な呪いの律法などではありません。本当に違う概念を主張し人の頭脳に植え続けてしまうと、神の性質も歪めて考えてしまう、神の言葉に対しても誤解した意識を持たされ、古い=悪い=呪い=縛りの律法=恵みがない生き方などなど限りなく、神が解説する事とは程遠い教え、意識を刷り込みされてしまっているのです。

 

自分達に馴染みのない教えは異物に感じるものです。でも神が

世界を創造したのです。神が人にどう生きるかをぴったり合った

相応しい事を伝えることが出来る唯一のお方なのです。イスラエルが理由や理屈は分からなくても神の教えを生きる時に守られたことは明らかです。

異邦人クリスチャンの中で煙たがられ拒絶される教えの1つは、命に直結する事、食べ物に関しての神の教えだと思います。

これを律法主義的生き方の代表みたいに言う人がいますが、

単純に自分の都合を考えているだけなのだと思います。

自分に取って楽しみ奪われる様な都合の悪い教えは全部無視したいからです。理屈が欲しい=律法=廃れた=悪い=縛り。今は

なんでもして良い恵みの時代であるからだと。

レビ記11章。神は最初の最初から、エデンの園の木として表されている、神が言われた通りを生きる=命を生み出す。神のデザインとは違う事を食べて生きる=死。これは物理的、肉体的、霊的、神との関係、人との関係、自分の自己像を失う、全てに関して一体であり繋がっている教えなのです。

 

神は人のために人が食するに相応しい動物を創造されました。

それが”きよい”動物と神の口から伝えられたものです。その動物を調べると、人が食べる様に理にかなった構造なのです。その中にも聖別、人の性質を教える教えがちゃんとあるのです。神の祭壇の上に捧げられる動物はきよい動物のみです。ノアの箱船に入ったきよい動物は2つがいではなく、7つがいずつです。7。

聖別を教えているのです。神の目的通りを生きる〜それが聖別。

イスラエルがどんな動物を食べてはいけないかと言う教えを聞いて、その構造や仕組みが分からなくても、神が言われる事は絶対であり、人が食する様に造られていないと言われたものを避けた

時には、イスラエルは安全に守られたのです。でも異教の神々を礼拝する人々と同じくそれらを食したら、疫病で多くの人が亡くなったのです。

それらの動物の目的は、地上の陸の水の清掃動物であり、死骸、ゴミ腐敗物、なんでもかんでも無差別に取り入れ、そして消化器官も未発達で体の中に毒、ゴミ、ウイルス、菌を溜め込む構造の動物なのです。食べられる魚でも汚い海や川に生息していたら、食べない方が良いと思うのに、もともと体の中に毒を溜め込む仕組みの動物魚介類、生物を敢えて食べるのは、危険であり、食べてもすぐに影響がない、でも確実に毒であると言うものなのです。

しかも、それらを通して”聖別”を神は人に教えているのです。

 

続く