神は人に何を伝えてるのか?正しい質問は正しい答えに導く | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

正しい的を当てた質問をすることは、正しい答えに導かれるものです。聖書に基づいた正しい質問を自分にすること、聖書から正しい回答を引き出す事を聖書を読みながらすることはとても大事なことです。

 

神の言葉は人を守る鎧兜、保護ガード、安全ガード、境界線です。自分の家の周りに安全な柵がある、自分の住む周りに敵が侵入しない壁がある、家のドアに窓に鍵がある。それと同じです。それらを取り払うことは危険である事は誰でも理解出来る事、

でも異邦人は神の言葉を捨てる事が今の時代に正義!であるなどと考えてしまっているのです。神の言葉には賞味期限も消費期限も使用期限も有効期限もない、時代を超えて変わらない永遠の真実であり、人が生きる全てを神が人に伝えているものなのです。

 

聖書を読みながら、一般に見聞きしている事とは違う教えが聖書には記されている事を発見すると思います。そもそも聖書自体を

異邦人の世界では満遍なく読み学ぶと言う習慣、システム、教育が元々ないから聖書を学ぶ事が根付いてないのです。聖書の最初の75%に記された教えが自分=異邦人には無関係などと教えられてしまっているのです。

 

聖書の所々の箇所数節を取り出して誰かが聖書を通して自分の考えを語る事は一般に聞いても、聖書を満遍なく読み続け、書いてある通りを学び教えると言うことを全く聞いた事がないです。

ユダヤ人の世界は全く逆です。神の言葉=契約の詳細を生きる事を世界へ伝える役割を与えられた残りの民の中にある意識は違う。

厳密に言うと全ての人がそうではないのですが、しかもある人達は聖書ではなく、タルムードを学び、神秘的解釈などをするずれた思想を持つ人達もいます。これは別の大きなトピックなのでいつか取り上げたいと思います。

 

ここに取り上げた食べ物に関して、レビ記11章を読み、即座に

終わった教えだとクリスチャンは考えると思いますが、正しい

質問をしてみてください。それは誰の考え、教えですか?神がそう言われたのでしょうか?神は途中で変化する教えなど1つも人に教えていない事が神の言葉=聖書に基づく永遠の事実です。

聖書に書いてある神の言葉の事実を曲げれば神の伝える永遠の

真理、神の意図している意味を理解する事に至ることはないのは当然の結末なのです。

 

どうして神の教えを神に創造された只の被造物である人間が否定しているのか?それは神ではなく、人がそう教えるからであり、神の古い教えは今は呪いの律法でユダヤ人だけが生きれば良いのさ!人は神の言葉を生きる必要などないと主張したダービーの

デイスペンセーション神学。その大元は1世紀後半から出現した

西洋教父達が編み出した反ユダヤ思想、反モーセの五書思想であり、神が言った事とは全く異なる反逆的な思想である事を突き止めた方が早いのです。神が言ったのではない、人が勝手に神に対して物申すと言う事をし続けて現在に至る、それが神の言葉を否定する思想の根底にある原因なのです。

 

神の教えはどの箇所も一点一画、イエシュアが言われた通りに

廃らない!マタイ5章。廃らない!と言われているのに、クリスチャンの世界では神の言葉は廃る、そして成就=終わりなどと解説しているのです。成就と言う言葉の意味は終了したなどと言う意味などないのです。成就と翻訳されている裏にあるヘブライ語の言葉は、”クム”堅く確立すると言う意味です。大体神が神の言葉を変えたり終わらせる!と言う思想が聖書とは完全に異なる異物!!!!この事実に聖書からいち早く気が付かないとならないのです。

ウルトラマンタロウがウルトラの父に反旗を翻し戦いを挑む!

ウルトラの家族の大反乱、内部分裂崩壊!と言う話になってしまいます。

神が内部分裂するとでも言うのでしょうか?おかしな空想話。

 

イエシュアが父の言葉=トラーにいつ反逆した教えをしたと言いましたか?

そんな事聖書には書いてない、わたしと父は一体、わたしが話しているのはわたしから出たものではなく父の言葉=モーセの五書と言っているでしょう。

どうしてその事実をイエシュアの言葉を読みながら気がつけないのか。それは父の言葉と聞いたらユダヤ人ならモーセの五書と

気がつけるのに、その様な知識が異邦人には無いからと言う単純な理由です。そして神が神の言葉を変える!などと言う聖書にない思想=異教徒、異邦人思想だからです。

 

神が神の言葉に敵対し廃止したら、神の国は立ち行かなくなります。そんな空想話、イエシュアが来て、父の言葉=トラーを破棄した!などと言う聖書に無い教えなど信じていたら、神の伝える

永遠の時空を超えた、時代を超越した永遠不変の真理、真実に

気が付かないまま歪んだイスラエルの神像=イエシュア像を自分の中に作り上げてしまいます。イエシュアはなんでもする事を許されると言いました?だから、あるクリスチャンの間で、なんでも受け入れることが愛なんて言う危険な思想があるのです。なんでも受け入れらたらどんなに人が破壊されて行くのか聖書を読めば分かると思います。腐ったリンゴを普通のリンゴの中に入れたら周りがみんな腐敗します。

それらを教えるためにも食べ物の教えがあるのです。聖別、境界線、神のものとそうでないものを、はっきり区別して教えているのです。

この世、偶像、異教の神々、この世の思想や生き方と交わってはならない。自分と人を守るために神がそう言われているのです。それは人里離れてこの世の楽しみを断ち西洋教父達みたいに洞窟に住む事ではないのです。人の中にあって、自分達神に聖別された人は彼らの教えや生き方には同調しない、でも彼を批判もしないと言う事、生き方で聖別=神の栄光を表したら、光=イエシュアが浸透したら周りの人がどの様な反応をするのか、それだけなのです。

申命記6:14 あなたがたは他の神々すなわち周囲の民の神々に従ってはならない。

彼ら=異教徒との生き方とは交われない事を知っていないと危ないのです。異教の神々と言いますが、実際は全部悪霊です。

イスラエルの神に属さない聖霊ではないものは、悪霊です。

中間の霊なんてないからです。グレーゾーン 半分聖霊半分悪霊なんて存在しないからです。

 

私達は神の宮、天の祭司とクリスチャンも言いますが、神の宮の定義はどこに書いてありますか?天の祭司はメルキゼデクに属するイエシュア、その生き方、それらはクリスチャンが終わったと言われるモーセの五書に詳しく記されているのです。イエシュアがどんな生き方をしたと書かれていますか?イエシュアはモーセの五書=父の教えをそっくりそのまま地上で生きたから、”生けるトラー”と呼ばれたのです。

 

神の宮には汚れた動物や偶像を持ち運ぶことは許されないのです。神の宮である人の中に汚れた動物を食べて取り入れることなどありえないのです!勝手な聖別は神の前には全然無意味であり

知らない間、神の宮を汚すことをし続けてしまうのです。

未来預言、聖書に書いてある神が忌み嫌われること=異教の神々の教え、生き方と交わることが記されています。

 

イザヤ65:1 わたしはわたしを求めなかった者に問われることを喜び、わたしを尋ねなかった者に見いだされることを喜んだ。

わたしはわが名を呼ばなかった国民に言った、「わたしはここにいる、わたしはここにいる」と。

65:2 よからぬ道に歩み、自分の思いに従うそむける民に、

わたしはひねもす手を伸べて招いた。

 65:3 この民はまのあたり常にわたしを怒らせ、園の中で犠牲をささげ、かわらの上で香をたき、

65:4 墓場にすわり、ひそかな所にやどり、豚の肉を食らい、

憎むべき物の、あつものをその器に盛って、

66:17 「みずからを聖別し、みずからを清めて園に行き、その中にあるものに従い、豚の肉、憎むべき物およびねずみを食う者はみな共に絶えうせる」と主は言われる。

 

神の教えが変わらない、神にとり忌み嫌う行為、汚れた動物の

定義も永遠に変わらない事が未来預言でも記されているのです。

 

いや、イエシュアは全ての食べ物はきよい!と言ったとあると

主張すると思いますが、全ての食べ物=レビ記11章に記された

神の創造した人間の食べ物の中の全てであり汚れた動物もきよい

なんて言っていません。そこに書いてある論点は手洗いの儀式です。外に言って異教徒と触れ合う、又は異教徒の市場で何かに

触れたらきよいものでも汚れると考えていたユダヤ人。

その手できよい動物、食べ物を触ったら汚れると考えていた事に

関して、人が人を汚すのは、人の内側にあるものだ!と言う

本質をイエシュアが伝えている下りなのです。とても勘違いして

聖書を読み続けているから”全ての食べ物はきよい=なんでも食べて良い”レビ記11章は廃止されたなどと言う。

考えれば分かるでしょう。神は神の言葉は完全であり永遠!一点一画も廃らない、人は神の言葉に付け足し差し引き出来ない!とあるのです。

神が、汚れている、きよくない、毒である、人の食べ物ではない!と言われるものは神が人に伝える通りに毒でしかない、

神の忌み嫌う行為を人が敢えてする意味は一体何なのでしょう?

神を愛しますと言いながら、同時に神が禁じ忌み嫌うことをする、それって一体何をしているのだろう?と考えてみる。

 

神の言葉に照らし合わせたら辻褄が合わない教えであることは100%明らかです。この様な箇所をトラーを知る人が読んだらなんでも食べて良い時代になったなどと考えさえもしないのです。

しかも全ての食べ物はきよいと言う箇所は、人が付け足した文書なのです。もしそう書いてあっても全ての食べ物=レビ記11章にある神の創造された人間の食べ物!と理解しないとなりません。

なんでもかんでも全てのものと識別無く交わってはならない、

同化して同調して自分を汚してはならない。

毒を内側に取り入れて溜め込まない、人の性質と反するものが何かそれらの生き方は人の生き方ではない事を食べ物を通して神は人に教えているのです。

それなのに、今はなんでも食べられます!ではそれらの清掃目的で造られた動物はいつ別目的の構造に進化変化したのでしょう?

それとも人間の体がそれらを完全に浄化する構造に変化、進化したとでも言うのでしょうか?又は神の宮の定義、神の神殿の定義が変更になったのでしょうか?神の祭壇に、ゼカリヤ14にある

未来に皆でエルサレムの神殿で仮庵や過越が祝われる時、その祭壇に汚れた動物が捧げられるとでも書いてあるのでしょうか?

体の構造も、清掃目的である動物の性質も何も変化していないのです。それらは今でも清掃動物、人が食するにフィットしない汚い動物なのです。口には甘く、腹には苦いのです。

神の言葉を素直に聞いて、はいははい、いいえはいいえ、

ダメはダメOkはOKなのだと言う至極単純な神の教えの真理、

真実に完全に鈍く盲目にさせられて危険にさらされてしまって

いるのです。

神の言葉を聞いて生きるとは、地に着いた普通の日常生活の中での事なのに、何か遠く崇高で物理的ではない霊的世界なのだ〜と考えるのは異教徒思想が根底にあるからです。

 

続く