神の造られた週一度の聖別された特別な記念日 シャバット | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

シャバットが近づくと、気持ちはリラックスしホッとして、様々な地上での歩みのチリが付いた足を洗ってリフレッシュしたいと言う感じになります。シャバットが心待ち。

 

1週間、シャヴアと言うのは人間が考え、創作したものではありません。”時”も人間が創作したものではないのです。人は何1つ

無から生み出せない、神ご自身が与えたものからだけ創作し、

生きることが出来るのです。この世界の全てを創造されたご自身が、創造物に対して、唯一解説する事が出来るお方なのです。

神ご自身が決めて、週の意味を定義し人に明確に伝えているのです。神の言葉を人が聞いて、その通りに受け取るか、人が勝手に別の解釈をつけて、神の言葉を変更してしまうのかそれはその個人個人の選択行動によるのです。でも異邦人の世界では、周りが集団で神の言葉を変えることが当然のごとく実践されてしまっているので、それが神の言葉、教え、記念日なのだと完全に錯覚してしまっているだけなのです。

聖書だけに戻らない限り、人の創作の教えはやみません。

聖書とは違う教えに常にエクスポーズ、晒される、触れ続けてしまえば、それが聖書に書いてない事なのに、聖書の真実だと聖書とは違う教えを信じ実践してしまうのです。宗教の同調圧力は既にローマ帝国により1世紀半以降から始まり、行われてしまって来たのです。それ以前は、異教の神々の国々による圧力。

1週間は7日間です。ずらずらずらずらたくさんの日が単独で

ただ連なっているのではなく、7日間と言うワンセットの区切り

区間があるのは、創造主=イスラエルの神を知らない人でも、

誰が時を創造したのか知らなくても、知らない間に神の創造の事実を生きている、神の創造された暦に従って生きている、事実を考えてみて下さい。

創造主を知らなくても、朝になれば日が昇り、夕には暗くなり

休む。これは誰がどう否定しようとも、人間に与えられた生きる

”時”なのです。神が創造で表している通り、1週間は7日目で止まる。人は第一日目に止まり休み、第二日目から第七日目=土曜日に働くと神は人に伝えていません。でも宗教の教えは第一日目

を止まる日と2世紀以降変更してしまったのです。神が変更したのではなく、人間=異邦人=西洋宗教のリーダー、ローマ帝国が

その様に変更した!それが永遠の事実です。

神はこの世界を造られた時、過程を伝えて、神は第一日目から第六日目を創造で活動し、そして第七日目に止まった、だから人も同じ様にする!と記されている神が人に伝えている永遠の事実に注目して見て下さい。

 

この最後の日は一番重要、神に取り人に取り永遠に重要な日で

ある事を神が創造した人達に伝えているのです。神が言うなら、その意味を知り、生きるのが人の自然な成り立ちなのです。

シャバットに関しては幾度も神から直接この日がどれほど重要な日であるか語られ、教えられています。この日を汚すと言う意味は、死に匹敵すると伝えられるほど、重要であると伝えられています。

そしてもう1つ、神は第一日目から第七日目、1週間の日の中で、唯一神が名付けて、唯一聖別している日は、いつですか?

第七日目だけです。

その日を、シャバット=止まる、停止、労働の手を止めると言う意味の名が付けられ、その日には重要な意味を表す教えが凝縮されている日、実際に生きて神を体験する日として神が人のために設けられたと記されています。

 

神の前には、他の週の中の全ての日は、普通の日であり、特殊な日ではないので、数字だけで第一〜第六日として表されているだけなのです。そして、シャバットの前日は、”準備の日”と呼んでいます。止まるための準備。荒野でのイスラエルも、この日の昼間、天から二日分のマナが降って来て、ちょうど二日間食べられる量を集めて準備した事が記されています。人が働けない日も神が必要を備えて下さる事を教えている日でもあります。

余計な事をしたら無駄になる事も教えられています。

 

単純に神が伝えている教えを、どうして人間が破棄したり、変更したりして良いと考えてしまうのか?と言う事です。神の側では

神の言葉、教え、そして神に造られた人の生き方、神の記念日は

たとえ人間が変えても、永遠に変わらないのです。異邦人が知らない間も、神は聖書に記されたレビ記23章に説明されている日を聖別=主の日として神が直接呼び出し、神の子らが祝う日で

ある事を変えてなどいないのです。

私がヘブライ語聖書、聖書に書いてある通りを書いてある意味通りに学ぶと言う事に出会う前は、人の教え=西洋神学=神の言葉は使徒2章以降変化した、以前の古い教えは終わったと教えられそうかなと信じてました。いや深く考えもしませんでした。

 

多くの異邦人クリスチャンには、神の言葉は神ご自信=イエシュアであり変化が無いと言う認識がありません。ヘブライ人ヨハナン がイエシュア=肉体を取って来られた言葉=トラーである事を

知っていた様には、異邦人はその事実を知らないからです。

 

神の教え=古い箇所は、律法〜人を縛っていた呪いの教えでありイエシュアが来られた意味は、その呪いの律法から解放されるためなのに、そんな古い教えを生きる事は恵みを無駄にする生き方なのだ!と教えられ続けて来ました。

でも神が伝えている事は、神の教えを生きて、その結果”救い”を

得たり、救いを保持しキープする、その様な性質、目的のものでは無い!とはっきり伝えられています。

元々、イエシュアが永遠の中に支払われた代価で、この世界の

礎が造られる永遠の中から既に私達は選ばれていたと書いてあります。それは自分の手柄や努力や選択によるものでは無いのです。その事実を、アヴラハムの契約を通して教えています。

 

”信仰により受け取り”義とされ、神の元に繋がれた事実。それは

神が一方的にイエシュアを通して支払われた代価によるものであり、人は一切その事に関して、何の業も業績も、努力も付け足せない、つまり人は自分自身を贖い出す術はありませんと言う事を

伝えているのです。それが神がアヴラハムと結んだ儀式でも表されています。古代の契約を結ぶ時に儀式で、動物を2つに裂く=そしてその動物の間を歩く、詰まり、契約を破る場合には、この動物の様な事になる事を受諾しますと言う宣言です。

この儀式の時に、アヴラハムは眠らさられて、神だけがこの動物の間を通ったのです。100%この契約は神が保証し、責任を持つと言う意味なのです。

そして、シャヴオート(ペンテコステ)の祭りで、トラー=契約を受け取った事を祝う祭では、モーセを通して与えられた婚姻契約は、神の子とされた人達=アヴラハムの契約で信仰により義と

された人達、神の花嫁となぞられて表現されている、イスラエルの神の家族の一員となった人達は、神が創造されたデザイン通りを生きる、その詳細がモーセの五書には記されているのです。

 

その神の教えを捨てたら、人は勝手な自分の悟りを生きる事になります。クリスチャンが多大に誤解しているのは、神の言葉に古い新しい両方がある、聖書の最初の部分と最後の部分では別の教えが書いてあるという、聖書に書いてない神話を信じている事です。聖書を書いてある意味通りに学ばなければ、その中に書かれている事が何かを知る術はありません。異邦人は、2世紀以降、ユダヤ人のグループとヘブライのトラーを学ぶ事から完全決裂した後、聖書に書いてある内容を学ぶと言う事から遠く遠く遠く離れてしまったのです。

神が人に伝えていることは、シンプルです。人は神の性質に造られたのに、その事実から離れたのは、神の言葉を曲げたから、

エデン=神の中、喜び=本来の状態から飛び出て、神との隔たりの中に飛び込んでしまったのです。

でもその時点で既にイエシュア=救いは用意されていたのです。

そして、この地上で神の元に再度繋がれた人達は、エデンの本来の状態=神が造られた神の性質を生きることを、モーセの五書の

中で詳しく教えているのです。

人の生きる全ての領域が網羅されている教えがモーセの五書であり、モーセの五書の解説が、預言書、諸書なのです。

 

イスラエルが神の教えを捨てて、異教の神々の教えと混じった時どんな悲惨な状態になったのか記されています。

聖書には、モーセの五書=父の教え以外の別物の教えは1つも

記されていません。多くの異邦人クリスチャンは聖書の最初を

学ばないので、福音書以降だけを読んでも神の教えの全貌が見えないままでいるのです。

神の言葉に敵対せよ!捨てよ!などと神はいつ人にその様な愚かな事を言われたのでしょうか?聖書の教えでも無い、聖書に照らし合わせたら死に匹敵する神に対しての冒涜そのものです。

 

そしてもう1つの誤解は、神の教えを生きることが律法主義であると考えている事なのです。この律法主義の性質は別の箇所に書かないとならないほど深いものです。律法主義と偶像礼拝は一体です。その図式は、何かをする事で、神に認められる、神に特別な報酬を貰う、自分の願いを(祈りを)叶えてもらう、自分から神にアプローチする、神に喜ばれるために何かをする、この様な

意識こそが律法主義で根本的な性質がずれた状態なのです。

異教の神々が人に要求する事に対応する意識と全く同じです!

 

聖書に記されているのは、神の言葉を生きる事が律法主義ではなく、神と神の教えに関わる人の状態がずれている内容に付いて記されているのです。夫である人にビクビク近づく、何かをして

機嫌を損ねない様にしようなどと言う関係は不健全です。

人が人らしく生きる、人が神の創造されたデザイン、性質、関係

を生きる!それをどの様にすればその状態からズレないのか神が説明している、それがトラーです。鏡の前=トラーの前、神の言葉から離れる人は、すぐに自分が誰か、神の教えが何か忘れる!と書いてある通りです。

あなた方はもう律法の下にいない=つまりモーセの五書を生きるとは律法主義だ!あなた方は恵みの下にいる=聖霊により生きる!などと勘違いしているのです。

 

”あなた方は、罪の法則(律法)=ノモスの下にいない、なぜなら、神の恵みにより、罪の奴隷として罪の法則の下に留まり続ける状態がズレている!と内側に住む聖霊により神の言葉が伝える真理に気が付く、だから愚かな罪を繰り返さない!と言う事が

出来る力が聖霊により与えられているからである!とパラフレーズすればその様な意味なのです。

それを、あなた方は律法=モーセの五書の教えの下にはもういない、なぜなら、聖霊が与えられて自由=自分の思うところを自由に生きて良いその状態が与えられたからだなどと勘違いして解説しているのですが、それはパウロが語っている内容とは全く異なるものです。パウロは100%モーセの五書を支持し、モーセの五書から教え、解説し、諭していると言う永遠の事実を知らなければパウロの話している内容を誤解してしまうのです。

 

神の言葉=聖霊そのものです。神の言葉を生きるとは、聖霊に

導かれ神のデザイン通りを生きる手引きなのです。あなたの新しいパソコンのマニュアルは、そのパソコンに関する機能の全てが

書かれているのです。それを無視したら、10000ある機能の1、2又は違うことを操作することになるのを知っているはず。

神の言葉、教えを生きる事、それは神に造られた人の本来の生き方なのです。人は神の言葉から離れて、自分が誰か分からなくなり、どの様に生きたら良いのか分からなくなったのです。

 

永遠の中から、イエシュア=神は居られ、永遠の中に全てが用意され、救い、贖いも完結しているのです。どの時代に生まれても

救いの方法は1つしか無いのです。だからイエシュアが”わたしが道であり、真理であり、命である。わたしを通してでなければ

誰も父の元に来る事が出来ない。”と言われました。

この真理を、イエシュアが来るまで誰も知らなかったのでしょうか?いいえ、どの時代にも、神の言葉を聞いた残りの民が

存在していた事実があり、神は同じ福音を最初から伝えているのです。個人個人がそれを理解して、受け取り生きていたかいないかの違いだけなのです。

異邦人クリスチャンの間では、モーセの五書=聖書の最初の75%は、廃れて、福音書以降を読む参考程度にあるものだと

考えているのですが、事実は全く逆です。

聖書に記されている人達は、モーセの五書、預言書、諸書しか

存在していない時代の人達の事しか記されていません。

彼らがどうして救い主の到来を待っていたのか、それはタナック

に記されていたからです。でも実際にイエシュアが来られた時にそのイエシュアがタナックに書かれたイエシュアであるのか、

否か、認識出来た人、出来ない人が居たと言う事だけなのです。

 

神の言葉に少しでも敵意を持ち、破棄し、終了せよ!などと教えられる不幸に気が付かないと危ないのです。それは神から出た教えではなく、エデンの園のあの地を這う動物の声!と気がついて

本当の羊飼いの声=イエシュア=トラーの言葉を聞いて!と

イエシュアは言っているのですから。

神の仰せを生きる事が出来ることは なんと言う喜び、満足感、幸福感、永遠に尽きない快い空腹感を神の言葉=聖霊=ご自身で

満たしてくれる、これを誰が奪う事を許されようか!

 

Shabbat Shalom