事実だけに基づき考え始める | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

一般的な現代の異邦人クリスチャンは、何故ユダヤ人のグループ

(シナゴーグ)とクリスチャンのグループが2つに決裂したのか、決して疑問、質問、考えないと思います。

その大きな理由は、ユダヤ人イエシュア信者と、異邦人イエシュア信者は、聖書にある通りに、最初は1つのグループであったと言う事実を最初から全く認識していないからです。

 

以前の記事にも書いた通り、異邦人クリスチャンの中では、1世紀のイエシュア信者は、現代のクリスチャンと同じ様な信仰、

礼拝をしていたと考えているのです。

でも事実は、イエシュアの弟子や信者達は、”キリスト教会”と

言う所に行ったこともない、もちろん新約聖書と人がタイトルを付けた、福音書〜黙示録もまだ聖書として編集されず、殆どの人は読んだ事も無い。パウロが教えていたのは、タナックのみ!

その様なものが第一1世紀には存在していない、現代の様にシャバットを日曜日に変更して祝ったり、イースター、クリスマスなども祝ったことがないのです。

そして、モーセの五書を否定する教えなど存在していない、モーセの五書とは違う教えも存在していない時代の事が聖書には記されているのです。もちろん、聖書とは違う思想が入り込んで来ていたことは記されているのです。

 

1世紀、福音書〜黙示録に記されている時代の人達は、何も変わらず、1世紀のその頃パリサイ派が主流でしたから彼らユダヤ人の会堂で、異邦人は一緒にシャバットにトラーを聞き、学び礼拝していたのです。

この事実を異邦人クリスチャンが聖書から、そして歴史の史実

事実から認めるのはとても困難な事なのです。

私が以前聖書を読んで空想していたのは、昇天以降特に使徒2章以降、異邦人もユダヤ人も現代の様な十字架が屋根に付いた教会と言う場所に日曜日に集い、賛美歌を歌い、案内係が席上献金を集めに来て、説教の内容は、”律法から恵へ”、モーセの五書から、モーセの五書を廃止された恵の生き方=福音を伝えていたのだと考えていました。

 

でもそれは聖書の事実ではなく、人が語る想像、空想の話であるのです。都市伝説の如く、誰かが言い始めると、嘘が真実として

定着して行ってしまう事は無数にある事を多くの人は知っています。事実とは違う事の刷り込みで生まれる別の意識。

 

実際は当時のイエシュア信者は、既存のユダヤ人達の信仰の中で

”ナザレ派”と呼ばれる人達だけであり、同じパリサイ派の会堂で

シャバットごとに、異邦人さえもパリサイ派の中に加えられていた記事がはっきりと記されているのです。使徒15章。

15:5に語られる、”割礼”とは、異邦人が儀式を通して完全にユダヤ人となる、その”改宗儀式”プロセラライトを通らなければ救われないと言うもので、それは聖書の教えではない、当時の

ユダヤ人の中にあった教えなのです。

その改宗儀式に”割礼”と言う名前が付いていたのです。

”律法の戒め”とパウロがエペソ2:15で書いているものは、

律法=モーセの五書の事ではなく、人々が編み出したこれこれあれこれをしないとならないと言う複雑な数々の”戒め”であり、

それらはユダヤ人と異邦人を隔てるものであった事は、改宗儀式をしないと救われないと考えてしまっている人たちの思考回路に染み付いていたことでも明らかなのです。ペテロでさえそれに

影響されていた事が記され、その為に天から動物が降りてくる幻を見せられたのです。

しかももし、パウロがモーセの五書を否定するなら、これはアヴラハムの割礼も含めて否定していると言うなら、使徒21章に書いてある、パウロが財と時間を費やして、パウロがモーセの五書に背く教えをし、モーセの五書に反する生き方をしていると言う街の噂は嘘であると証明するためにナジル人の請願を神殿で果たした記録、事実を完全に無視している行為であり、聖書の記述に矛盾する発想なのです。ここで気がつかないとならないキーポイントがあるのです。ナジル人の請願とは、モーセの五書に記されている神の仰せである!それをパウロが実践している!!!と言う事実をどれほどの読者がその事実を知って、理解して21章のパウロの神殿での請願を読み、その意味を理解しているのでしょうか?

モーセの五書=民数記6章に記された仰せ、儀式を否定しながら、パウロがそれを実践している?クリスチャンの十一献金の様に都合の良いところだけモーセの五書に記された神の教えを取り出し実践するなどと言う勝手な事をパウロがしていたとでも言うのでしょうか?事実だけに照らし合わせて考えて行けば、聖書の事実に矛盾している事に気が付くと思います。ナジル人の請願が実際に今されないのは、単純に神殿が存在していないと言うその1つだけの理由からです。でもパウロが生きていた時代は70年代まで神殿が存在していたのです!この事に注目して下さい。

神殿が存在していたから、福音書以降〜、パウロの書簡でも

神殿中心でシャバット、新月、過越、仮庵が祝われていたのです。エルサレム以外に住む人はそれぞれの地域で祝ったのです。

パウロが使徒20章で、除酵祭=つまり、過越の祭から始まる

7日間の種無しパンを食べる週を祝った後、別の場所へ旅立つ

時の事が記されています。この時期は春の最後の祭り、シャヴオート(ペンテコステ)が祝われる間の7週間の中に居て、初穂=

新しくされた命を祝った事、その事実を7週間、7回のシャバットを過ごして生きる神の定めの時なのです。

過越を祝ったと書かれていたら、それは一年をめぐる全ての神の記念日、レビ記23章を祝っている!!!と言う事実がはっきり記されていると読み取らなければならないのです。異邦人には

神の記念日を祝う事を2世紀以降やめたので、それらが何であるのかも知らないし、その祭りの意味も理解できないし、それらがイエシュアの地上での業を表している預言的祭りである事も見えてこないのです。

しかも、異邦人クリスチャンが主張している様に、彼ら聖書に記された人の中で、誰も西洋人が編み出した宗教の教え、思想=

律法から恵へ移行しモーセの五書が廃れたなどと考えている人は誰一人存在していない事実を知らないとなりません。

 

もし、モーセの五書や聖書のどの箇所でも否定すると言うなら

それは神の仰せ、神に(永遠不変の神の言葉、教え、インストラクション)に対して人間が真っ向から反対、敵対、否定していると言う行為をしてしまうと言う事に気がついていますか?

 

異邦人が神の言葉に反対する、反モーセの五書、反ユダヤ思想、

反イスラエルの神の言葉思想を生み出したのです。イスラエルの神がご自身で神の言葉を否定する様に教える訳がない。

それは聖書にも書いてない教えです。

新約聖書と呼んでいるそのタイトルも人が創作した聖書の性質を反映しない言葉なので使いたくない名前なのですが、福音書〜

黙示録の中に記されているのは、モーセの五書、預言書、諸書=タナックの内容であり、1世紀はモーセ、預言者、詩篇と言う言葉でそれを語った事はイエシュアの口からも語られているの分かると思います。聖書の最後の部分聖書の25%しか占めていない部分には、タナックとは違う教えは書いてない、新しい教えも書いていない、全てモーセの五書が土台である教えの抜粋が記されているだけなのです。

だから、モーセの五書の中身が見えないと一体何を話しているのか分からないから書いてある内容を誤解してしまうのです。そして、当時存在した様々な事情、宗教的教えの背景や実践などを理解しないと特にパウロの書簡などは難解なもので、反モーセの五書思想が根底にある場合には、簡単にパウロの書簡を誤解して解説してしまうのです。しかも翻訳者が反モーセの五書思想を持っているので翻訳の言い回しが反モーセの五書思想になってしまっているのです。しかも、論点が見えないまま、モーセの五書を反対している!と言う風に読まれてしまうのです。ヘブル書などにも内容を誤解するには良い例が書かれています。でもその中に記されているのは、モーセの五書が終わって、違うものが出てきたのだなどと1つも語っていないのです。イエシュアが大祭司であるなら、

他のものは全て影であると言う事、これはもっと詳しく説明しないと分からない事なので今は脇に置きます。

 

聖書の中にはどの箇所も、神が神の言葉を終了したり、敵対する教えはない!と言う事実をまず突き止めないと始まらないのです。あなたの体の中で自分の臓器同士が互いに拒絶反応を示す様な状態なら、それは自分のものではない異物の臓器が植えられ、異物を体の中に取り入れて、拒絶反応を起こしていると言う事になります。その様に純粋な神の言葉が神の言葉に敵対などしない、調和を保ち、一貫して同じ事を話している事実しか聖書には記されていないのです。

 

イエシュア昇天以降も、当時の異邦人はユダヤ人と共にユダヤ人の家庭で、会堂、神殿でシャバットを祝い、新月、過越や仮庵の祭りを祝ったのです。これが2世紀に入るまで普通に続いていたのです。

イエシュアの信者達がユダヤ人、異邦人と決裂し始め完全に2つのグループになる様な動きは、イエシュアの昇天以降100年

過ぎまでなかったのです。

 

様々な要因がありますが、1世紀の時代パウロ達、使徒達の様な

イエシュア信者達はユダヤ人の中では少数派であった事実があります。

そして、イエシュア信者の異邦人には、元からユダヤ人の様な

トラーの教えに根付いて生きていた人達ではないのです。

 

ここで注目してみて下さい。イエシュア信者の異邦人が2世紀移行どんどん増えて行ったのです。そしてパウロ達の様なユダヤ人イエシュア信者はユダヤ人の中では少数派ですし、それ以降も

ユダヤ人イエシュア信者は少数派です。

第一ユダヤ戦争、第二ユダヤ戦争、ローマ帝国からのモーセの五書を生きること、ユダヤ的要素全て廃止などの勅令で、異邦人

イエシュア信者達、モーセの五書から離れ、西洋教父達は独自の思想、実践をする路線に移行して、ユダヤ人イエシュア信者達からも完全に離れて、その後完全に決別し、自分達の新宗教=ローマ教の教えを編み出し続けて行ったのです。

そして、モーセの五書に忠実に生きて来たユダヤ人イエシュア信者と、モーセの五書に馴染みがない、プラス、ローマ帝国政府からの迫害で、モーセの五書に見切りを付けた異邦人イエシュア信者達は、ヘレニズム思想、西洋思想を土台とする教師達の教えに

付いて行った、それが歴史の事実であり、神が神の言葉を神が

伝える通りに永遠に変えていないと言う聖書に記された証拠にある通り、神が神の言葉を変えたと言うのは嘘なのです。

もし、イスラエルの神が神の約束や、言葉、契約を途中で放棄するお方であると主張するなら、それはイスラエルの神を語っているのではなく、その人の中にある空想、聖書に基づかない思想が編み出したその人個人の脳内救い主を語っているだけなのです。

 

聖書に記されているイスラエルの神は途中で約束を変更する、

言葉を守り通さないなら、無責任でひどい神と言う事になります。聖書を読んで自分で事実に基づき考え始めることをお勧めします。あなたの神はこうで、私の神はこうだなどとその人により変化する神なら、それは聖書に記されたイスラエルの神ではない、空想の神になります。

しかも聖書には、神は変わらないとあります。イエスキリストは

昨日も今日も永遠に同じ!と言いながら、実は聖書に書いてない教え=イエスキリスト=イスラエルの神は変化すると信じているのです。イエスキリスト=父とイエシュアは一体と書いてある、一人だけ変化するの?考えただけで変で混乱する教えなのです。

 

人が生きれない呪いの律法を与えて、イスラエルがどれほど罪人で神の教えを生きられないから、それを知らしめるために律法を与えたと聞きますが、それって相当底意地の悪い神像です。

神は聖書でご自身をどんなお方であると紹介していますか?

 

出エジプト34:6 主は彼の前を過ぎて宣べられた。「主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神、

 

詩篇19:7 主のおきては完全であって、魂を生きかえらせ、主のあかしは確かであって、無学な者を賢くする。

19:8 主のさとしは正しくて、心を喜ばせ、主の戒めはまじりなくて、眼を明らかにする。

 

イザヤ40:8 草は枯れ、花はしぼむ。しかし、われわれの神の言葉はとこしえに変ることはない」。

 
ヤコブ1:17 すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。
父には移り変わりや、移り行く影はありません。

 

2テモテ3:15 また幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている。

3:16 聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。

 3:17 それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。

<ここにある聖書とは100%モーセの五書、預言書、諸書のみを指して語っている事実に注目して下さい!聖書に聖書はと記されていたら、それらは100%モーセの五書、預言書、諸書のみに対して話している事実を知って下さい。福音書以降は、モーセの五書、預言書、諸書の最後の短いまとめ、注解、エピローグなのです。