神と共に相見え喜び楽しむシャバットの祝福を与えた創造主 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

タイムマシーンに乗って(そんなものは無いけれど)1世紀に

戻ってみたら、異邦人クリスチャンはきっとびっくりする数々を発見すると思います。

多くの異邦人クリスチャンに取って、1世紀イエシュアの時代、

イエシュア昇天以降の信者達の生活や、礼拝が現代のものと全く違うものである事を本当に知れば驚く事の連続だと思います。

 

昇天以降は、イエシュア信者は異邦人が殆どで、ローマのバシリカ寺院に日曜日に集い現代の様な礼拝式をし、新約聖書を主に

読み、モーセの五書は廃れて終わったと言う教えを聞き、毎月

最初の日曜日には聖餐式をし、春にはイースターを祝い、12月にはクリスマスを祝っていたと想像しているのではないのでしょうか?

現代異邦人クリスチャンの世界で見聞きする、モーセの五書を

律法だ〜恵みを捨てる生き方に戻るのか〜などと否定する教えや置換神学、デイスペンセーション神学、ローマ新宗教、祭りや

記念日は1世紀当時など微塵も存在もしていない、異邦人達が

未だその様な教えや祭りを作り出してもいない時期なのです。

 

プラス、神は神の教えを歴史のどの時点でも永遠の中から変えてもいないし、永遠に代々祝われるわたしの記念日と言われた

レビ記23章に記された神が神の子らを呼び出している定めの日も、人間がどう解釈し発言し否定して行動しても、神の側では

全く変化しないものなのです。

 

イエシュア昇天以降の1世紀の信者達は、引き続きエルサレムの神殿や、エルサレム以外に住む人達は、ユダヤ人のシナゴーグに集い、(諸外国でも同じ)毎週シャバット=第七日目にトラーや預言書、諸書などの朗読をユダヤ人達から聞き、教えられ、交わりをして過ごしていたなどと想像出来ますか?しかも、諸外国に

トラーを教えに行ったパウロは、パリサイ派所属のトラー学者である事をどれほどの異邦人クリスチャンが聖書から認識しているのでしょうか?パウロは新約聖書なるものなど持っていない、

パウロの頭の中にはタナックが暗記されてそれらを諸外国でも教えたのです。パウロが教えたのは、福音書〜黙示録ではありません。福音書以降が聖書として認められたのは、ずっと後、3世紀半ば以降の事なのです。広く流通もしていない。だから聖書に

登場する人達の”聖書”とはと語るのは100%、モーセの五書、預言書、諸書のみである!と言う事実にまず注目して下さい。

聖書の最後の箇所、聖書の25%はタナックのまとめ、エピローグでしかないのです。詰まりタナックに無い教えや、反する教え、創世記〜マラキの中に記されていない新しい教えなど1つも記されていない!それが神の伝える永遠の事実なのです。

 

2世紀まで、イエシュア信者は、ユダヤ人が大多数で、少数の

異邦人イエシュア信者がユダヤ人の群れの中に加えられていたのです。

使徒15章にある様に、神の教えに何も馴染みのない背景の異邦人達は、当時はパリサイ派が主流(パウロも生涯死ぬまでパリサイ派の教師)彼らの会堂でトラーを教えられていたのです。

諸外国に居た人達は、エルサレムのパウロの拠点=パリサイ派の

会堂に書簡で質問を送り、パウロからトラーに基づき、解決法や知恵を仰いでいたなどと、異邦人クリスチャンは想像も出来ない事実だと思います。

パウロの書簡は当時のパリサイ派の教育方法であり、エルサレムのパウロの拠点はパリサイ派のシナゴーグであったのです。

 

元々、ユダヤ人と異邦人とは交流がない、仲良くもない、関係も全くない間柄でした。トラーを知らない異教徒生活の異邦人と、生まれた時から神の言葉=トラーを聞いて育つ文化にあったユダヤ人との間には、分厚い隔ての壁があったのです。

 

ペテロでさえ、異邦人に対して偏見を持っていた事が使徒10章に

記されています。ペテロが見せられた天から降りてきた動物が

入った敷物の幻=夢は、異邦人だと言って汚れた人達であるとか、ペテロの時代にあった”ラビ達の教え”で、異邦人と交わるなかれ=汚れた人達と交わってはダメ!と言うその様な教えにペテロも影響されていた事でも理解出来ます。それほど、ユダヤ人と

異邦人は最初から隔ての壁が分厚くあったのです。

 

エペソ2章でパウロが語る様に、ユダヤ人と異邦人とは超えられない分厚い隔ての壁があったのです。パウロの語る内容を誤解しないで読まないとならない箇所でもあります。

 

 2:13 ところが、あなたがたは、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなったのである。

 

2:14 キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、

2:15 数々の規定から成っている”戒めの律法”を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、

 

この15節に注目してみて下さい。この様な箇所をクリスチャンの聖書学者は、パウロがモーセの五書を破棄したのだ〜などと言う根拠であると勘違いして解説していますが、パウロは一体何を話しているのでしょう?当時、イエシュアと議論していたラビ達やリーダーとの会話でも分かる通り、今の時代もそうなのですが、ラビ達の編み出した様々な”ハラハ”=トラーをどの様に生きるのか?と言う教えの数々があるのです。それらはあるものは神の教え通り、性質通りなのですが、多くのものは、神の教えとは何も関係の無い人が編み出した教えで、それら複雑なやらなくても良い事を1日の中でずっと行わなければならないとされてしまっているのです。

 

当時存在した”ラビ達の編み出した掟リスト”の事を、”戒めの律法”と言う名前で呼んでいたのです。ここでパウロが語る戒めの律法を破棄したと言うのは、モーセの五書を破棄したなどと読み違えて、神の教えが破棄されたなどと言うとんでもない解説にされてしまっているのです。

 

聖書解釈のルール原則に戻って下さい。聖書に書いてある意味をその通りに適用して下さい。神は神の言葉を変化させない、永遠である、人が神の言葉に付け足し差し引きするなかれと言われたのです。

そしてパウロも使徒21章で、長い日々をかけて神殿で、当時

パウロがモーセの五書に違反することを人に教えている、割礼を

禁じていると言う噂があり、それが根も葉もない嘘である事を証明するために、100%モーセの五書に忠実に生きている証明をするために、ナジル人の請願を果たした!と書いてあるではありませんか?

その様に聖書に記された真理、事実を無視して、勝手な自己流解釈や非聖書的発想が、聖書解釈に違反した人の思想を生み出しているのです。

パウロは、人を隔てる、人が編み出した教え=”戒めの律法”を

破棄した、詰まり、ユダヤ人は異邦人とは関わりを持ってはならない、異邦人と食事などもしてはならない、近寄ってもダメだ

その様な人が作った戒めの律法は廃れた!と言っているのです。詰まり人の中にある偏見は、間違った教えを刷り込まれて洗脳された事によるから、偽の教えは破棄されなければならないと言っているのです。

パウロは神に天から声を直接かけられ、使命を受けた人であり、トラーを世界へ運ぶ役割を与えられたトラー学者であるのに、

そのパウロがモーセの五書=神の言葉を否定する教えを世界に

発信する!と言う事自体が聖書の教え、聖書が伝える真理と矛盾する、そんな事は書かれていない!と聖書から気がつかないとならないのです。

エペソ2:16 十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。

これは、2世紀以降、異邦人が反ユダヤ思想、反トラー思想を

いとも簡単に持てたのかと言う、もう1つの理由でもあるのです。元々異邦人には、神の教えは異物であった!馴染みがなかった!と言う下地があるからです。

 

2:17 それから彼は、こられた上で、遠く離れているあなたがたに平和を宣べ伝え、また近くにいる者たちにも平和を宣べ伝えられたのである。

2:18 というのは、彼によって、わたしたち両方の者が一つの御霊の中にあって、父のみもとに近づくことができるからである。

 2:19 そこであなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである。

<イエシュアにより、人の教えで隔てられた異邦人、ユダヤ人の分厚い壁が壊されたのに、異邦人クリスチャンの神学の教えは

ユダヤ人と異邦人とは別の教えを生きるのだ、別の記念日を祝うのだ、教会とユダヤ人と言う2つの家族グループなのだ!と

非聖書的な教えを唱えているのですが、聖書にはこの様に違う事

がはっきりと記されているのです。>

 

2:20 またあなたがたは、使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられたものであって、キリスト・イエスご自身が隅のかしら石である。

使徒、預言者=モーセの五書、預言書、諸書に記された神の

言葉の上に建てられている、その土台はイエシュアである!と

記されています。>

2:21 このキリストにあって、建物全体が組み合わされ、主にある聖なる宮に成長し、

2:22 そしてあなたがたも、主にあって共に建てられて、霊なる神のすまいとなるのである。

 

神の宮=住まいは分裂の住まい、2つの分裂した隔てのある

別物で出来ているのでは無い事実が記されています。

 

シャバットは人間が創り出した記念日ではありません。

神が創造の最初に人に教えている、神が人のために創造され聖別された”時”記念日であるのです。それは、永遠の中に、イエシュアの実態に住まう事を教えているものでもあるのです。聖書の

教え、記念日の全てはこのシャバットを中心に教えられているのです。神の言葉に注目すれば見えて来るのですが、全ては7と

言う数字中心で表されています。

メノーラ=神の家の中に置かれる燭台です。神の家族を表すもの

神の伝える人間の性質、1つ家族が1つにつながる、それは7本の支柱ですが1本の金で繋がっているのです。金の性質を調べても、神の子らの性質を表しているものでもあるのです。

 

1週間は7日。休む=止まるのは7日目。人は1〜6日目に活動し、7日目は活動の手を止める様にデザインされているのです。

そして、神の記念日はシャバットを中心に、1年を巡り、春は4つの祭、秋は3つの祭、神の祭りは全部で7つの祭があるのです。

春の過越の祭り、種無しパンは7日間、シャブオートまでの穂を数える週は7週間。そして、第7の月の15日は、仮庵の祭り。仮庵も7日間、仮庵に住まう。7年ごとのシュミタ年で、負債が帳消しになり、7年を7回繰り返すと、ヨベルの年になるのです。土地が戻され、負債を負った人、負債で使用人になった人、全て帳消しになる、全部7を中心に神が様々な事を教えているのです。新しく生きる事が出来る。

神の定めの日、祭りは、イエシュアそのものを教えているもので、イエシュアの地上でされた業を表す預言的祭りであり、

そして秋の祭りは将来イエシュアが再臨される内容である、春、秋両方預言的祭りなのです。神の祭りの全ての中心は、シャバットを祝う事で表されているのです。

 

神の記念日は、子供達が楽しく喜びをもって体験的にイエシュア

救い主に出会う様にデザインされているものです。

 

シャバットの意味を理解し、神の記念日を家族共に祝う喜びを

知っている家族は壊れないのです。シャバットで体験したこと、

教えられた事を残りの6日の間、日曜日から金曜日の間生きる事を神から教えられているのです。

シャバットは人のために造られた。そしてシャバットは第七日目。イエシュアは第七日目をシャバットして祝っていたのです。

昇天以降も、今も神の定めの日、呼び出しの日、神の子らが皆で祝う日は変化していないと、どれだけの人が神の言葉から聞いて

知っているのでしょうか?わたしの羊はわたしの声を聞き分ける

とあります。世界には本物の羊飼いの声=神の言葉とは違う教え

が氾濫しているのです。

 

続く