アメリカの神学校で教えられる西洋教会史は、ある側面が全く
語られる事がないものです。そして神の言葉を神が変化させた、
その過渡期、移行期の内容が使徒業行伝の記録であるなどと言う聖書の記述に反した教え〜神が言葉を変えたと言う前提で聖書の教えの全てを語ってしまっているのです。聖書の真実を知れば
この様な嘘で塗り替えられた教えに、普通の神経を持ち合わせていれば耐える事など出来なくなるのです。
クリスチャンの世界で”黄金の口”と讃えられる事でも有名な説教者、ジョン クリソストムがいます。歴史家ケアンズは、クリソストム自身の性質は、親切であり、”道徳と宗教は切り離して教えられるべきではない、主の十字架と倫理は一致しないとならない”と発言した事を記しています。
その一方クリソストムには全く別の顔があったのです。
これは、殆どの福音的な立場の人が知らない事であり、
そして語り合おうともしない内容です。
ここでぜひ誤解しないで読んで頂きたい事があります。
聖書に記されている神の口から直接宣言されている永遠不変で
ある神の言葉!と、一般に異邦人クリスチャンの世界の中で解説されている聖書には無い聖書解説=神の言葉は変化した!と言う異なる教えがどうして出現したのか?そしてヘブライ語聖書=神の言葉に書かれた意味と何が異なるのか?と言う事を、聖書に
照らし合わせて再検証すると言う事が目的です。
異邦人世界で一般に語られているけれど、聖書の事実ではない事の聖書に基づく検証です。
一般的に語られる仮説、教えとは全く聞きなれない事をこのブログに書いているので、異物に受け取られてしまうと思います。
単に他のクリスチャンを批判してるの?と誤解されてしまう事があるかもしれません。
でも誰かに対する批判をする意図でこのブログを書いているのではありません。
聖書に何が本当は書いてあるのか?何が書いてないのか?定番の
定説でも非聖書的な教えがたくさんあるので、その内容の再検証の個人的な探索記録なのです。
聖書の教えが変化した証拠がある、安息日は昇天以降日曜日に変更されたと神が言っていると主張するならば、その証拠が聖書のどこに記されているのか、知らないとならないはずです。
そんな記事がどこに記されているのか、神が途中で神の言葉を
撤回した箇所を是非とも教えて伝えて頂きたいです。神が神の
言葉、神の記念日を変更していない!と聖書には書いてあるのに、その言葉を丸無視して、人間が創作した勝手な解釈、創作の空想話の方を信じたら、その人に取り聖書などは本当に意味の
ないものとなってしまいます。純粋な神の言葉教えではない
人造の宗教と言う、偽札、コピー品、まがい物を作り続ける行為と全く同じです。見た目が似てる、似てる部分がある、でも生粋の正真正銘の本物とは違う、本質が違うものだからです。
自分の感想や、都合や、考えなどではなく、聖書には何が本当に記されているのか、本当に探りたい人は一緒に考えませんか?!神の永遠不変の真実=本当の事追求しましょうと言う思いから
この様な記事を書き続けています。神の子らは神の教えを愛して生きる!と聖書には書いてあるのに、神の子らは、神の言葉に
見切りをつけて、神の言葉を捨てる様に自分に人に教え、神の
言葉の代わりに人の教えを生きる!又は自分のインスピレーション=これを聖霊に導かれたままに生きると言いますが、神の言葉=聖霊そのものなのに、神の言葉を捨てよと一体聖書のどこに書いてあるのでしょうか?そんな事どこにも書いてないのです。
矛盾していると聖書の記述から気が付いたら、神の語る永遠の
真実が見えて来ます。聖書とは異なる人が作った教えを神の言葉に混ぜたもの=宗教の教えを聞かされて来て祝福失っていた事に気が付いた者として、弊害を受けた来てしまった事をはっきり自覚したので、聖書にはこの様に書いてある!と言う事を伝えたいと思ってこのブログを始めました。ヘブライ聖書の学びに出会ってから15年以上、ブログを書き始めて既に約10年経ってしまいました。
聖書ではない教えが19世紀の長きに渡り伝えられ、異邦人の
世界では闊歩し、広く拡散、流通、浸透してしまい、しかも神学校や異邦人グループの間で非聖書的教えが幅広く教えられ、語られているのに、その誤りの教えが殆どと言って良いほど、異邦人クリスチャンの世界では全く認識されていない、故に非聖書的教えが全く正されない事はイスラエルの神に属する者として大問題なのです。
そして、救い主を信じたユダヤ人の中で、ルターやクリソストムの様な西洋教父が教えた非聖書的、反モーセの五書、反ユダヤ思想、間接的に反イスラエルの神、それらの教えのおかげでホロコースト、ユダヤ人迫害の歴史の辛苦、悲しみ、悲劇を先祖代々、家族親族が体験して来ているのです。今も同じなのです。
日本人やアジア人はユダヤ人迫害をした歴史が無いから<一方、他の人種に対しては差別、偏見を持っていますが>ピンと来ませんが、欧米ではこの反ユダヤ思想、Anti Semetism思想は顕著に深く根付き、今も益々それが健在なのです。ユダヤ人イエシュア信者が言っていました。天でそれらの人に会ったら正直謝罪して欲しい、正しい方法=神が伝える方法で修復してほしい、その上で初めて本当の和解が成り立つと言っているのを聞いて当然だと思いました。
何事もなかった様に、やった事の深刻さ、重大さ、問題に触れずに和解は有り得ない事は聖書に記されている事実だからです。
膿を出して初めて傷は正常に癒える過程を始めるのです。真実が覆い隠されたまま、神が神の言葉を変化させたと言う教えにすり替えられてしまい、偽物の教えが人の頭脳を占領したままではならないからです。
何を信じ、何を考え、何を生きるのか、それは個人の問題であり選択であり、誰からも強要されるべきものではないのですが、
正しい情報に触れないまま偽情報だけに触れたまま、偽の教えを選択する様な事が無い様に、イエシュアも”わたしの羊はわたしの声=神の言葉=父の言葉=モーセに書かれた神の教えを聞き分ける!”と言っているのです。それには神の言葉を知らないとならないのです。
この様なイエシュアの言葉を聞いて、空想で考えてはならないのです。イエシュアの言う”声”=コルとは、神の言葉、シナイ山で永遠の証拠で誰も改善しない様に文字として与えられた父の言葉文字で記されたトラー=モーセの五書、それ以前からエデンの園から神の口から直接教えらて来た、同じ神の言葉の事です。
それらは人が神の前に何かをして、救いを得る、救いを保持する又は神から特別な好意や得点や評価を得るために神の言葉を生きる、その様な目的のために神の言葉や教えが与えられて、生きるのではないのです。人が神の性質に造られているから、神の性質通りを生きるのが本来の人の姿であり、妥当であり喜びの源泉=神と繋がり生きる本来の状態に留まれるために神の教えがあるのです。危険で汚染だらけ異教の神々=サタンの教えに染まり汚される危険から守られ、この世を歩み生きる中で、安全に守られるための神の言葉は保護ガードなのです。
人は宗教や人の編み出した教えを生きたら、人の本来の性質、
状態が死にます。ある酵素を高熱に晒したら死滅するのと同じです。又は納豆菌と同じく、温度が低すぎたり、高すぎるとうまく発酵しない、それは本来の状態ではないからです。喜び削がれ、苦痛を感じ、神との親しい関係を楽しむより、神との隔たりばかりを体験してします。人は神の言葉により生かされる様にデザイン創造されていると神が伝えているのに、その源泉を断ち切る=神の言葉を捨てたら人は、鏡=神の言葉の前を離れて自分が誰かすぐに忘れてしまい、宗教の教えに引っ張られ、本来の喜び関係を削がれて奪われてしまうと警告されているのです。
神の言葉を覆い隠せば、喜びの源泉に厳重に重たい扉の錠がかけられ、蓋されてしまうのです。エデンの園の出来事を思い出す。
進化論や偽科学仮説と全く同じく、嘘なのに真実だと拡散され
広く流通し、人に受け入れられ信じられて人の頭脳を占拠してしまうと、考えれば変だと分かる事なのに、嘘に対して完全に騙され、真実に対して目隠しされた盲目状態になってしまいます。
それには、神が伝えている言葉=真実な情報にだけ触れ始め、
触れ続け、真実の中だけで考え続ける事を始めないとならないのです。
黄金の口と言われたクリソストムは、カトリックの僧侶と共に
23歳の時から、アンテオケ郊外の洞窟に住む様な生活をします。カトリックは、人里離れてこの世の楽しみから断たれる禁欲こそが、霊的な生き方であると言う、グノーシス主義的生き方がきよいより優れた霊的な生活であると信じるからその様な生き方をしました。
グノーシス主義は、神の教えと真逆な肉的発想=人を縛る教えです。この世の楽しみを断つ事が霊的崇高な生き方と教える禁欲主義です。肉体は悪、汚れている、霊は崇高良い清いなどと言う思想。楽しいと後ろめたさを感じるのはその様な人の思想から来るものです。神はこの世界を全て物理的に造られた事実を無視した教えです。
神は全てのものを人のために創造し、与え、人がそれらを神の意図通りに治め、生きるならば、それらをフルに喜び楽しめる祝福を得る様に造られたのです。神の創造された全てとどの部分でも間違った関わり方をするから、人は神の意図とはズレた方向に行ってしまうだけです。
もちろん、彼ら異邦人司教達はパウロの様にヘブライの聖書など学んだ事がない、西洋人が発想する、トラー破棄ありき!の教えや思想哲学を土台とし、自らの教えを数々生み出して行った宗教を作った先駆者達なのです。それが西洋宗教の手引きのリーダー
教師達なのです。
”憎しみの中心は、ユダヤ人は“キリスト殺し”であり、彼らの伝統とライフスタイルはクリスチャンの人生に何も関係のないものである”と記しています。彼らのライフスタイル=トラー=モーセの五書に記された神の教え!!!それとクリスチャンはな〜〜〜にも関係がございませんと言っているのは、神ではなくこの様な
異邦人教父達であり、彼らが神の言葉に対抗し勝手に言った事なのです。
エドワードH.フラナリーは、ローマカトリック教区のアメリカ人司祭で、1965年に出版した「ユダヤ人の苦悩:23世紀の
反セミミティズム」P50-52の中でこの様に言っています。
彼の書の中に、”ユダヤ人の苦悩”と言うものがあります。クリソストムの言葉と自分の思想を一緒に記しています。
”全ての人の中で全てのユダヤ人の魂も同様、最も惨めな人、
貪欲で、欲深く、裏切り者で無法者、飢えた殺人者、破壊者、
悪魔に取り憑かれた人達である。”彼らの宗教は“伝染病”である。”クリソストムはこう語っています。
”キリストを嫌う(ユダヤ人)に対抗して戦った事がない人は、
キリストを十分に愛していない人である。逃げろ!彼らの集会から、そして、彼らの家々から、彼らが尊ぶシナゴーグから遠く離れよ、彼らの書物は同じ理由で、憎しみと嫌悪である。
私はまさにシナゴーグを憎む、なぜなら、律法と預言書があるからだ。私は彼らが法を破るからユダヤ人を憎むのだ。”
これを西洋人教父、クリソストムやフラネリーの様な人達が言う意図通りに読むと、ユダヤ人が滅びる事は神のみ旨であると言ったルターと同じく、ユダヤ人を憎むことは、神のみ旨であるとなります。
彼らの様な、反ユダヤ、反モーセの五書思想を持つ人々、リーダー達が率先して神の教えを憎むよう、逆らうよう、軽んじるよう、捨てる様に教えているのであって、神がこの様な事を言ってなどいません。
律法=トラー=モーセの五書、預言書=それはイエシュアそのものであり
イエシュアが教えた父の言葉であるのに、神の永遠不変の言葉に対して何と言う事をこの教師達は言って、多くの人々を歴史の長きに渡り偽情報による悪影響を与え、誤りの教えで人を間違った方向に導いているのでしょう?神の前にとんでもない冒涜です。ユダヤ人がキリストを信じないのではなく、この様な異邦人の教えは、神への冒涜そのものである!神の言葉を生きる事を禁じる宗教には同化できない、何も理解しない異邦人の教えに付いて行ってはならないからなのです。
1世紀後半のローマ帝国によるモーセの五書を生きる事に対する
弾圧から、この様な様々な要因が重なり、反ユダヤ思想、反モーセの五書思想が膨れ上がって行った経緯を辿る事が出来ます。
続く