異邦人の世界で語られる定番の教え、定説は、神が救い主昇天以降、今までの古い教えを捨て去る様に教え始め、ご自分の言葉を
破棄したと神が言い、人々に神の言葉を道徳的な教え以外は、
生きる必要がなくなったのだと教えていますが、それは聖書の
教えの何物でもない、単純に、異邦人が勝手に創作し編み出した教えです。聖書に照らし合わせて、神が宣言する永遠不変の神の性質と、神の言葉の性質がはっきり記されている、この永遠の真実からズレないで聖書を読み直す必要があるのです。
その教えが出現し、そして19世紀の間に渡り、異邦人の世界で語り継がれ恒久化してしまった事には、いくつもの複雑で込み入った理由があります。
まずその様な神ご自身が永遠不変と言われる言葉を、創造されたにすぎない人間ごときが神に向かって逆らい、神の言葉を否定し始める教えをし始めた一番の理由はローマ帝国による、モーセの五書を生きる事を禁じる勅令に、異邦人達が命乞い、保身のためにトラーを捨てよと言うローマ帝国に魂を売り、完全屈服、服従し迎合した事。それには違和感を拭うための自ら編み出した理由付けが必要だったのです。
なぜなら、神の言葉は永遠不変で、神の教えを否定する行為をする事に矛盾、違和感があるから、自分達の教えを作り理由付けして、神の言葉を否定する事を正当化する必要があったからです。
更には、70年ADに、神殿がローマにより破壊された事で、
パウロ達、イエシュア信者、ユダヤ人達が昇天以降変わらずに
シャバット、祭りを祝う事、動物を祭壇で捧げることを、神殿の中では出来なくなってしまったので、それが神からの、古い教えが終了した証拠、啓示である!などと異邦人達が言い出したのです。昇天以降も聖書を読めば分かる通り、変わらずに神殿の祭壇にきよい動物が捧げられている事実が記されています。
しかもパウロはナジル人の請願を果たした使徒21章に記されていることは、パウロも動物の捧げ物を祭壇でしました!と言う
証拠が書かれているのです。
神殿が崩壊されるまでは、何も変わらず神殿の中で儀式が行われていたのです。神殿が存在しなければ、動物の生贄は他の場所では捧げてはならないので、それが今行われていないだけなのです。
神殿崩壊までシャバットに、新月に東の門が開かれ、そして祭りの時は盛大に神殿の中で祝宴、祝いが変わらずに行われていたのです。未来は、イエシュアが戻られたら再びエルサレムの神殿でシャバット、祭りが行われる!と未来預言があります。動物が
捧げられるのは、罪の仮の赦しのためなどでは無いからです。
神殿の中でイエシュアのされた業の意味、新しくされた人の生き方、実態、レビ記に記されている聖別された人の生き方を教えられる学習ツールなのです。目に見えない天の神の家が、地上で
そっくりそのまま再現されたものがエルサレムの神殿なのです。
神の家は全てイスラエルの神の家に属する人の祈りの家と呼ばれると未来預言があるのです。異邦人の世界でやる寓話化したり、別物の教えに変えたりしないで、神が伝える事実を読み取る
必要があります。
イザヤ57:6わたしはこれをわが聖なる山=モリヤ=にこさせわが祈の家のうちで楽しませる、彼らの燔祭と犠牲とは、わが祭壇の上に受けいれられる。わが家はすべての民の祈の家=<神の家はエルサレムの神殿>ととなえられるからである」。
イザヤ66:23「新月ごとに、安息日ごとに、すべての人はわが前に来て礼拝する」と主は言われる。
ゼカリヤ14:9 主は全地の王となられる。
その日には、主ひとり、その名一つのみとなる。
<2つバラバラの家族、2つバラバラな契約、教え、人種により
変身するイエシュアではない照明がされているのです。>
14:17 地の諸族のうち、王なる万軍の主を拝むために、エルサレムに上らない者の上には、雨が降らない。
14:18 エジプトの人々が、もし上ってこない時には、主が仮庵の祭を守るために、上ってこないすべての国びとを撃たれるその災が、彼らの上に臨む。
<仮庵は1年を締めくくる祭りです。仮庵を祝うと言う意味は、
一年に渡るシャバット、新月、春と秋の祭りの全てを祝う!!!と言う意味で記されている神の言葉の基本中の基本の真実を先ず知る必要があります。神の言葉、記念日は自分が好きな所だけを取り出して生きる、祝うものとしてデザインされていないからです。>
ローマ帝国からの弾圧で、異邦人が自分達をローマから守る保身
手段としてしたのは、ローマ帝国に対して、異邦人がユダヤ人の様にモーセの五書など決して生きていないと言う事を、言動と
態度、行動で示して証明したのです。私達異邦人は、ユダヤ人とは、モーセの五書とは何の関係もありませ〜〜〜ん!と言う
宣言をするのは、言動だけでなく行動も共に示すのが手っ取り早い証拠になるからです。
この警告が黙示録に記されています。
黙示録2:4 しかし、あなたに対して責むべきことがある。
あなたは初めの愛=トラー=モーセの五書から離れてしまった。
<はじめの愛とユダヤ人が書いて、それを読めば、シナイ山で
与えられた”婚姻契約書”=モーセの五書=トラーに記されている神が人に伝えた愛の詳細、行き方のことである事は説明しなくても理解している、その人たちに警告しているのです。
ここに書かれた通り、トラー=最初の愛から離れてしまった事が
こんなにも早くに起きた、その警告です。>
2:5 そこで、あなたはどこから落ちたかを思い起し、悔い改めて初めのわざ=トラーに記された神の教えを行いなさい。
もし、そうしないで悔い改めなければ、わたしはあなたのところにきて、あなたの燭台をその場所から取りのけよう。
聖書を書いてある通りに理解しない弊害が書いてあるのです。
異邦人グループの望みは、ローマ帝国に対して、彼らの非ユダヤ性を説得することが最大の目標、関心事だったのです。しかし、それをする方法を彼らが選んだのは全く他の事であり、聖書解釈における事と、異邦人教会とユダヤ人会堂との間にそれ以降歴史の中で永遠の黒い汚点を付ける事になったのです。
言葉と行いによって、ユダヤ人とは違うことを証明するとは、
言葉=神の言葉を否定し、神の仰せを生きていない事でそれらを
証明したのです。
2世紀に半ばには、異邦人、西洋教父達は、書簡や、説教の中で
モーセの五書に対する痛烈な批判、激しい攻撃をひどい言葉で
表現する反ユダヤ思想を土台とする説教シリーズなどを編み出して行ったのです。
130−138年ADでは、”バルナバの書簡”と言うものがあります。バルナバとは聖書に出てくるバルナバではありません。
この書簡が出てくる前までは、多くの異邦人の間でも、モーセの五書を支持し、ユダヤ人に対して好意的な人達が存在したのです。この様な人の言葉、書物がどれほど人を誤った方向へ先導
していくのかの良い例です。
バルナバの書簡の中では、彼らユダヤ人がモーセから契約を
受け取った後、契約は異邦人の手に渡ったと記しています。
(4:6−7)
その後、ジュステイン マーターがバルナバの書に書いてある事
同様、”契約はユダヤ人のものではなくなった。アヴラハムと
モーセの契約ー割礼とシャバットそれらはもうこれ以上意味なく、有効ではない。なぜユダヤ人はそれらの仰せを神から受けたのか、ユダヤ人は気がついていない。彼らの罪と彼らが頑ななので、それらの仰せを神がユダヤ人に与えたのである。”と
言っているのです。異邦人が契約を受け取ったと言う空想話と、
では一体その契約書はどこに記され存在しているのでしょう?
モーセの五書を神が否定して書き換えた聖書はどこにあるのですか?そんなものは存在しない、異邦人宛の別の契約書など神は
記していない、まして神の永遠不変の言葉をイスラエルの神ご
自身が否定した教えはどこに書かれ、存在しているのですか?
福音書〜黙示録?それらは、モーセの五書、預言書、諸書の
短いエピローグでしかないのです。モーセの五書のどの教えも
否定などしている箇所は聖書の中には無い。あると思う場合、
それは福音書以降を正しく書かれた通りに読んでいない異邦人
聖書教師たちの教えだけを聞かされ続けてそう勘違いしているだけ!それが神の前に事実なのです。
考えれば考えるほど、空想話、裸の王様の洋服と同じく、存在していないのに、あるのだ!と言い続ける話の方が非常に奇妙なのです。
なるほど、異邦人の教師が、イスラエルが契約=古い教えを与えられた理由は、彼らイスラエルがどれほどひどい罪人であり、
うなじのこわい人々なのかを知らしめるために、律法を与えたのであると言う教えは、この様な2世紀の西洋教父達の教えの受け売りであったと言うこと、こんな古代に迄遡る教えが現代にも
その様な人の思索に悪影響を与える反聖書的思想が根強く巣食っている原因を発見し、見るのです。
神が言ったのではない、黙示録の警告にある、はじめの愛=神の言葉を捨てた異邦人達が勝手に創作した思想、教えであるのです。
そして、サミュエレ バッキオが、この声明を取り言った言葉は”日曜日はクリスチャンの礼拝日として採用したのだ。”
シャバット=安息日と訳される止まる日=第七日目が日曜日に
変更だと決めたのは人間=異邦人であり神ではない証拠があるのです。聖書に、そして史実の中に、この様な書物の記述の中に。
カトリックが、第七日目のシャバットを日曜日礼拝に変えたのですと彼らの質疑応答の書物の中で、公に公言しているのです。
聖書の事実と異なる、神が神の言葉や教えや記念日を昇天以降
変えたと言う嘘の証言をし続けるのはやめなくてはならないのです。それを言うなら、異邦人が神の言葉を様々に塗り変え、数々の非聖書的教えを、自分達流の宗教として作りかえ、異邦人の
先祖代々の宗教伝統で守っていますと言い換えるべきなのです。
これが反ユダヤ思想、反トラー思想をが爆発する要因と密接に
関係しているものなのです。ローマ帝国に、ユダヤ人とは違うと証明するには、ユダヤ人が行う聖書の記念日を祝わず、割礼をせず、そして神が伝える汚れた動物〜清掃動物、菌、ウイルを溜め込み、動物の死骸を食べる動物を異邦人異教徒と同様に食する事で証明したのです。
日曜日はローマ帝国にとり、皇帝を崇める日、太陽神を崇める日であるのです。異邦人も同様に、ローマ帝国の記念日を自分達の記念日であるとローマに行動で示し、ユダヤ人とは関係の無い
生き方をしていると行動で証明したのです。
反トラー思想をアピールする事で、福音を当時の異教徒異邦人達に好感を持たせるためにも行ったのです。この思考回路は、
フランシスコ ザビエルが、日本にカトリックを紹介した思考回路の性質と全く同じ事を発見します。ザビエルは当時日本では
仏教が主な地場宗教だったので、拒絶されないために、”この宗教ーカトリックーは、仏教の一派である天竺教と言うものである。”と日本人に紹介したのです。それってユダヤ人である救い主、トラーを教えて生きたイエシュアの実態=聖書に記されている事実を正しく伝えている事になるのでしょうか?
完全に混ぜ物の教えを最初から教えられてしまった、歴史の黒い
汚点が日本にも存在しているのです。
同時にローマ帝国政府側からの反ユダヤ主義の敵意を回避しようするために、異邦人は徹底的にモーセの五書とは無関係であることを、言論と行動で示し続けて行ったのです。
この点ではっきり気が付かなくてはならないのは、神が神の教えを変えたのではなく、異邦人が政治的理由=ローマ帝国の弾圧
迫害から逃れ、同時にローマ帝国市民にも同時に福音をアレンジして、彼ら異教徒にも受けが良い教えに変化させた!!!それが
異邦人がオリジナルの神の言葉から離れて、新宗教、別の教えを
作って行った本当の理由なのです。
その様に、初期異邦人教会の反トラーに対する態度は、福音を
異教徒に好感持たせるためと、彼ら異邦人はユダヤ人ではないと言う事をローマ帝国の皇帝政府に納得させる両方の努力を開始して、それにより政府側の反ユダヤ主義の敵意を回避しようとした事が本当の理由なのです。
続く