異邦人の世界では、正しく聖書を学ぶ事、追求する事から
遠く遠く遠く離れてしまいました。元々神の教え=ヘブライの
モーセの五書、預言書、諸書をユダヤ人達の残りの民が熱心に
探求し続ける様なその様な教育の下地が最初から全く無いのが異邦人の世界なのです。異邦人がヘブライの書=聖書=タナックに全く馴染みがない背景である事実が使徒15章にも記されています。
もともとオリジナルのヘブライ聖書に記された神の言葉、神の国
の文化に全く馴染みもない、聖書を知らない、しかも翻訳聖書
しか知らないまま異邦人の作った思想=反ユダヤ、反トラー思想を土台に聖書を曲げて読んでしまう事しか教えられていないのなら、どうして正しく聖書を読み解き理解する識別力を備える事など出来るのでしょうか?
神の言葉は、神ご自身であり、神の腹の底の深い所にある考え
神が創造された人の性質、神の性質、人はどの様に生きるのかを
被造物である人間に伝えているものなのに、それら神からの啓示を排除すると言う思想自体が異常な行為なのです。神の言葉は
丸ごと全部で完全であり、シャローム、聖霊そのもの、イエシュアご自身なのです。人の体から臓器を抜き取り、排除するなら正常に機能しないのと全く同じ事です。不完全になる。知らない間に神を愛しているつもりで、神ご自身=神の言葉に敵対する事が正義である、神の古い教えに固執するのは恵を捨てた生き方なのだと言う、異邦人が編み出した思想に汚染され、神ご自身を間接的に見えて、直に捨て去り、否定しているのです。
人間の書いた書でも、もしその中身を読まなければ、その内容を理解しないなら、その著者の思索は理解出来ず、多くの開かずの間、自分の知らない世界が出来てしまうのです。尚更、聖書は、神の考えそのものであり、福音書〜黙示録はモーセの五書、それに付随するモーセの五書を解説する書=預言書、諸書の短い短い聖書の最後の部分の解説でしかないのです。
しかも聖書のたった4分の1しか占めていない箇所なのです。
1世紀当時の人達、聖書に登場する人は誰も福音書〜黙示録を
知らないと言う事実を考えて下さい。教科書があり、その内容を説明する参考書は教科書に書かれた内容を否定するなどありえないのです。
異邦人の世界で称えられ尊敬される西洋教父達、ルターを含め
神に対してのとんでもない冒涜と、非聖書的教えを編み出し続けてしまって、それらが異邦人クリスチャンの世界では語られることもなければ、教えられることもない黒い汚点の歴史が存在して
いるのです。そのおかげで、非聖書的な思想が現在に至るまで
異邦人の聖書解釈の世界を乗っ取り、汚染し続けてしまっているのです。私達は人の教えで薄められた宗教の教えによっては本当の意味で生かされる事はないのです。神の言葉だけが人の中に
本来神がデザインした命を生み出す事ができるものなのです。
人は神の口から出る1つ1つの言葉により生きる様に創造されているからです。神の言葉は種に例えられる通りです。神の言葉の中に命を生み出す秘訣、要素が搭載されているのです。
人間の頭脳に植わり、人がそれを生きたら神の性質通り、栄光が
喜びが祝福が内側から溢れ出る様になっているからです。
歴史の中で明らかな事実は、神が神の言葉を変えないと言われた通り、神の言葉は変化しないのですが、1世紀後半以降、ローマ帝国の政治的弾圧=モーセの五書を生きる事を禁じ、そして
西洋教父達は、特に70年ADの神殿崩壊後、神殿が無くなり、
神殿での様々な儀式やサービス、祭りも出来なくてなった事を
神からの啓示〜モーセの五書は終わりになったのだとなどと都合の良い理由にし、勝手に解釈し、それ以降、異邦人に馴染みのある異教の文化を取り入れた教えを創作し始め新宗教を作り出す幕開けとなったのです。
それは異邦人の勝手な創作の教えであって、一方ユダヤ人達、
そしてユダヤ人イエシュア信者達は、モーセの五書終了などと言う異邦人の考えには、賛同しない、ローマ帝国に迎合しないでもちろん神の仰せ通り、偽物の教え、新興宗教には従い付いて行かなかったのです。だから、異邦人信者と、ユダヤ人信者は完全に別の路線に進み、2つのグループとして完全に決裂してしまったのです。
遺伝子組み換えのものは、似て非なる本質性質が違う人を害する
ものなのです。純粋な神の言葉だけに戻る本当に終わりの時代に
入ったのです。
1800年の長い歴史の中で、反ユダヤ的表現が異邦人クリスチャン教会中のいわゆる最も優れたとする聖書解説―幾人もの西洋教父達により、頑強な思想が築き上げられてしまいました。
アメリカの聖書大学や神学校でも、ユダヤ人信者に関して殆ど
何も語られない教えられる事もありません。ユダヤ人信者達と
クリスチャン達との関係も当然語られないし、知られていません。
初代異邦人教父達が歴史の中で存在した最もひどい反ユダヤ思想を持つ人達なのに、彼らに関して、素晴らしく肯定的なイメージしか語らないのです。
そして福音派と呼ばれる異邦人聖書学者達が、聖書解釈ルール前提を無視した解説をし続けている問題、使徒に記されている内容を見て、使徒は、別の教え、律法から恵に移行して行く事が記されているなどと解説しているのです。先ず前回の記事で書いた通りパウロの21章でのナジル人の請願の意味、パウロは100%トラー=モーセの五書に背いた事をしてない、100%モーセの五書に忠実に生きていると言う証明をするために果たした神殿での請願の意味を丸っ切り無視して、パウロをモーセの五書を否定する新しい教えを編み出した人であるなどと言うとんでもない
仮説を編み出してしまったのです。この箇所で、アメリカで有名な聖書学者メリルCテニー博士も同様に、使徒はユダヤ人から
異邦人へ移行し、そして律法から恵へ、パレスチナから帝国へ
移った過渡期の記録であると言う解説をしています。
(New Testament Survey 234)彼の書は、聖書学校の標準教科書とされているのです。この様な人の教えを神学校で教えられてしまっては、それを教えられた人達を通して聖書ではない思想が一般人に拡散されてしまう事が起きているのです。
この様な解説は使徒21章のパウロの証言と、そして神の証言、
神の言葉は完全で永遠に変わらない!と言う聖書解釈の大前提を
真っ向から違反し破っている行為の発言なのです。
しかも、パレスチナと言う名前が付く土地、場所は世界のどこにも存在していないのに、パレスチナと言う土地があるが如くに話しているのです。偽情報です。
使徒の書は、新しい教えや別の福音が語られている記録ではなく
その時代までトラーはほぼユダヤ人の間だけで教えられていたのに、それ以降は広く諸外国へ伝えられて行く事が始まる記録なのです。イスラエル近隣の諸外国でバシリカ寺院に日曜日集ってパウロは別の教えを教えていたのではなく、ユダヤ人のグループは彼らの家、又は会堂に集まり、トラーを学んでいたのです。使徒の記録を見ても、パウロが毎週シャバットでトラーを教えていた記録が書かれているのです。その様な記録を無視してバシリカに日曜日集い、モーセの五書とは違う別の教え、別の福音を伝えたなどと勘違いしたままでは、聖書の事実は見えてこないのです。
安息日=第七日目 安息日=日曜日と聖書の事実を曲げないで
読んで下さい。
使徒13:14しかしふたりは、ペルガからさらに進んで、ピシデヤのアンテオケに行き、安息日に会堂にはいって席に着いた。
1世紀、聖書の最後の4分の1が記されていた時代には、聖書としてこの箇所はまだ編集されておらず、人の間で手書きのコピー
も読まれていない時代です。100%彼らが聖書と記しているのは、モーセの五書、預言書、諸書を指して、聖書と記している
事を念頭に置いて読む必要があります。そしてパウロから教えられている人、聖書に登場する人達で西洋教父の教え=モーセの五書は廃れ終了破棄されたなどと言う思想を持つ人は誰一人存在などしていない、その様な冒涜的な教えを語る人もいないと言う事実を絶対に頭から外さないで聖書を読まないとならないのです。
アヴラハムはイエシュアの日を見て喜んだと言う意味は、イエシュアを通して救いを得て、聖霊を内側に受けていた残りの民はどの時代にも存在している事実があるのです。神の子羊、子羊の血で贖われる事実を彼らはタナックに記された事を通して、まだ見ぬものでも信仰を通して受け取り自分のものとしていたのです。ダビデの告白を読んでも、イエシュアの血により贖われ罪赦されすすがれて、神の前に陰りなく立ち関係を回復している事が記されているのです。
2000年前に急に救いが登場したのではない!救いは最初から
この世の礎が出来る前から神の選びの民のために備えられていたと言う永遠の中に存在する同じ救い=イエシュアの実態があると言う事を理解出来れば、過去の人は永遠の中に、目に見えない救いの事実が、未来の地上の上で見える形で証明される事を信仰で受け取り、今の人は過去にその事実を過去に見る、それら同じ
イエシュア=永遠の中から用意されていた救いを信仰により受け取り新しく創造された人として作り変えられた事実を内側に得ている事は何も変わらない、同じ実態である事が聖書に記されている事を理解出来ます。
著名で善良な異邦人聖書学者や教師達が聖書に記されている内容とは異なる事を教える大きな弊害があるのです。人を誤った教えに導いてしまうからです。
エルサレムに居たユダヤ人は、4万から80万とも考えられ、
その40%位はイエシュア信者になっていたと言う事です。
イエシュア信者になった人達は、皆トラーに熱心に生きていた
記録もはっきり記されているのです。
使徒21:20 一同はこれを聞いて神をほめたたえ、そして彼に言った、「兄弟よ、ご承知のように、ユダヤ人の中で信者になった者が、数万にものぼっているが、みんなトラーに熱心な人たちである。
この様な記述を無視して、新しい教えに付いて行くイエシュア
信者であるなどと考えていたら、別の宗教の教えに変身してしまうのです。1世紀当時のイエシュア信者は殆どがユダヤ人であり、そして、異邦人信者がその中に加えられ増えて行く記録が
使徒行伝なのです。
イザヤ書2章2~3節
終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る。
多くの民が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。
聖書が閉じられた後の出来事は、第一ユダヤ戦争=神殿崩壊、第二ユダヤ戦争=バルコクバの乱で異邦人イエシュア信者達は、
殺され、散らされて諸外国に散って行った。
異邦人信者達は、ローマ帝国の弾圧、ローマによる神殿崩壊を
モーセの五書の終わりだと勝手に発言した西洋教父達の教え、
その教えはそれ以降、自分他達異邦人異教徒育ち流にアレンジ
してしまい、新しい宗教を作ったと言うのが歴史の本当の事実
なのです。
海外に住んでみると、例えば日本食などを食べたら、それらが
その国の人々の好み、舌に合わせてアレンジされていると言う
事を発見します。日本で食べる中国料理は日本流であると中国人が言うのと同じです。アメリカに行って中国料理を食べると、
それらはアメリカ風にアレンジされたものなのです。
日本で食べる中国料理とはまた別物です。
それと同じ様に、異邦人は神の言葉を自分達流にアレンジし、
別の宗教を作り、その新しい宗教が4世紀にローマ皇帝により
ローマ帝国の宗教として認定され、中世までそれがカトリックと言う宗教で、16世紀以降、プロテスタントと言うものが出てきた、ざっと言うとそれが西洋宗教歴史なのです。
続く