間違った教えの歴史の流れを変える | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

異邦人の世界に根強く巣食う、反イスラエルの神、反イスラエルの神の言葉=トラー、反ユダヤ、反イスラエルの国、これは聖書

の最初から”神に敵対するもの”のプラン、意図でもある事を聖書の記述から考えれば真相が見えてきます。

本物の神、本物の神の言葉=宝を人から隠したい存在がいる。

 

1世紀後半、70年ADのローマ帝国神殿崩壊、前の記事に書いた様に、ローマ帝国政府の政治的弾圧〜反トラー、反イスラエル

反イスラエルの神のスローガンにより、ユダヤ人の様に神の言葉を生きる事を禁じられた事に異邦人は簡単に降参、ローマに迎合屈して行ったのです。異邦人はユダヤ人と同じと見なされないため、聖書にある特徴的な教え=異邦人が生きない教え、神のシャバット、祭り割礼、食べ物etc etc それらは私達異邦人には関係のないものなのでやってません!と表明し始めたのです。そして

ローマ帝国の記念日=崇めるべきローマ皇帝の日、地場宗教の太陽神の日=日曜日を 崇めます!と西洋教父達の指導の下、異邦人達は自らの魂を彼らに売ったのです。神の言葉を捨てて、ローマ帝国に命乞いをしたのです。神が神の言葉を終了させたと完全に誤解していますが、それはとんでもない嘘で、神は神の口から伝えている通り、神は神の言葉を変えないのです。イスラエル同様、異郷の地で異教徒の間で迫害されたら、神の言葉を捨てるだろうと言う預言通り、異邦人も全く同じ路線を信仰の最初の1世紀にもう既に辿り始めたと言うのが本当の事実なのです。黒い汚点。

1世紀当時の聖書に記されている内容も、不適切な翻訳や様々な誤訳や、聖書に記されている中身を変えてしまう翻訳、聖書に無い言葉や文章を挿入し、意味を変えてしまっている、又は聖書に書いてある通りに読まず、聖書に書かれている内容を人の思想に置き換えて書いてある事を正しく読み取らない、解説、注解していない事により、異邦人の世界に多大に不適切で非聖書的思想を刷り込んで行ってしまいました。

 不適切な翻訳の1つ、聖書に無い言葉、完全なる造語なのですが、それらが広く使われている、その言葉の1つに”教会”と言う言葉があります。これは聖書に存在しない、異邦人が作った言葉です。この様な言葉が福音書以降に登場してしまうと、人の中に聖書では無い思想を刷り込んでしまう原因になっているのです。

 

エペソの5章でパウロが書いた、”キリストが教会を愛された様に、夫よ妻を愛しなさい”とあります。教会と言う翻訳造語は、

創世記〜マラキには無い言葉ですから、あたかも”教会”と言う

新しいものが福音書以降に出現したと勘違いしてしまうでしょう。この言葉は、この記事を読んで下さっている方なら何度も書いているのでご存知だと思いますが、ヘブライ語で”カハール” 

”ケヒラ”、ギリシャ語で”エクレシア”と言うヘブライ語の意味と同じ言葉が使われているもので、”神の声に応答し、呼び出された人の群れ”を表す言葉です。呼び出された人、神の声を聞いて応答した人達、最初の最初から同じイスラエルの神に、同じ神の言葉教えを聞いて応答し、イスラエルの神と言う大家族の1員に加えられた人、イスラエルと言う名=苗字で代表として表される1つの家族を語っているのです。出エジプトの過越でも分かる通り、

異邦人の中にも同様に神の声に応答し神の家族に加えられ奴隷

脱出した人達の記録が記されているのは、1つの家族である事実に注目させるためです。異邦人もイスラエルの部族の中に加えられ同じ家族として取り扱われ数えられていたのです。

 

カハール=エクレシアと言う言葉を、創世記からマラキまでは

”集会” ”群れ”などと訳し、同じ言葉を、福音書以降〜黙示録の中では”教会”などと言う別の翻訳用語で訳したら、全く別物新物が登場したと誤解させるのには十分な効果がある事に注目してみて下さい。

山田さんなのに、川上さんと呼んだら、同一人物ではない、別人だと思うのは当然の事なのです。教会と集会は別物だ!とその点で既に誤解し1つの家族であると言う神の言葉の事実をかき消している用語です。イエシュアが来られるまでは、ほぼほぼユダヤ人しかイスラエルの神、トラー、預言書に記されたイエシュアを知りませんでした。なぜなら世界の四隅にトラーが運ばれる時代がまだ来ていなくて、ユダヤ人に関わった人達、イスラエルを通ってビジネスをした諸外国の人達がイスラエルで見聞きした神、その生き様を伝えられただけの小規模な範囲だったからです。

違いはそれだけです。

たくさんの異邦人も同じ契約に加わる時代が始まった!でも、神の教えの中身は何も変化していない、変化したのは参加する人の数、状態です。しかも神の家族に参加する人の腹のなか、頭脳の中に神のトラーが記されている状態と言うのがエレミヤ31で

解説されている”再更新された契約”に参加する家族の状態なのです。

この様に聖書を曲げる事をしてしまうから、聖書に書かれている内容をはっきり把握できなくなってしまうのです。

律法と言う不適切な翻訳も同様の効果を発揮し、プラス、異邦人聖書学者達により、間違った聖書注解を放出宣伝され続けているおかげで、特にパウロの書簡の中に、彼がトラーを終わらせ、

否定している内容が書かれているのだなどと言い続けているのです。

これは、聖書とは何も関係の無い、聖書解釈のルールを完全に

破った読み方、解説なのです。聖書解釈ルール=聖書に記されている内容を無視し、人の思想にのっとり聖書を翻訳、解釈する事

です。

使徒21章でも他の箇所でもはっきりと記されている通り、

パウロは100%トラー実践者である!と本人が証明している、

この証明は単に口で言っているだけではなく、当時神殿があり

その神の宮で”正式に署名捺印”するがごとくの公的証明を果たして、ナジル人の誓願を行なって、パウロが100%モーセの五書を支持し生きている公的証明がされている事実が書かれているのです。

その意味は、人の世界でも同じく、正式な文書に証人、弁護士、

公証人立ち会いのもと、その請願が真実である事を証明しているのです。その事実が使徒21章に記されているのに、その事実を

無視してクリスチャンの世界では、パウロをトラーを終わらせた

張本人のごとくに別のパウロ像を塗り続けて語り続けています。

 

しかも、聖書には、神ご自身が、神の言葉は完全である、人が

神の言葉に手を加え、付け足し差し引きしてはならない、

その様な行為は死を意味すると言われました。

聖書解釈の基本は、聖書に書いてある意味、真実通りを土台に

神の言葉を揺るがさない、変えないことです。ここに書いてある

通りを翻訳でも読めば、神の言葉は終了せず、天地が存続し続けると言う強調誇張の表現を用いて、神の言葉は永遠に変わらない!とイエシュアの口からも言っている箇所を、トラーは破棄されたなどと言う根拠が書かれているのだと異邦人は本当に不思議な解説を編み出す根拠にしている箇所です。ちゃんと聖書に書いてある通りに読めば、破棄するためでは無い!!!とあります。

ここにある言葉は当時のラビ達の慣用句=破棄=トラーを正しく解釈し正しく生きていない、成就=トラーを正しく捉え神の意図通りを生きると言う意味なのです。

聖書解釈をする基本をこの箇所に於いても捨てて、違う教えに

変形しているのです。どうして書いてある意味通りを無視して

西洋教父達の思想=反トラー=今後は自分に馴染む教えに変形しようと決めた西洋人=ローマ教の教えに則って聖書を読み続けるのか?と言うこと、神の言葉を古い悪いものなので終了したものであると誤解させている本当の問題の原点、原因の根に戻らないとならないのです。

 

マタイ5:17 わたしがトラーや預言者<創世記〜マラキをこの様な言葉で表現しています>を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。

5:18 よく言っておく。天地が滅び行くまでは、トラーの一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。

<まっとうされる=終了する=無用になるなどと言う勝手な読み込みの解釈、解説はしては非聖書的教えに変身するのです。>

 

イエシュアの教えの全てはこの教科書を土台とし、それは

100%、タナック〜モーセ、預言書諸書のみです!イエシュアの教科書は、創世記〜マラキのみでありそれらはイエシュア=生けるトラー、その内容が文字で記されているのが、生けるトラー=モーセの五書<モーセの五書を解説する預言書、諸書>です。

 

1世紀後半から異邦人の世界で決めて作られてしまった数々の

自分流=彼らの文化にあった教えに変身させて解説されてしまった教えのおかげで、神の言葉=トラーを生きいること=律法主義

恵を捨てた悪い生き方だ、今は神の言葉は無用!と本気で信じさせられているのです。でも聖書だけに戻れば、見えてくると思います。

ヨハネ14: 23イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。 

24わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。

<ここでイエシュアが言っている”わたしの言葉、おきて”とは

父の言葉=シナイ山で与えられた婚姻契約=父の言葉=モーセの五書=トラーを指して話している事に注目して下さい。>

 

異邦人の世界で語られる様に律法は破棄せよ〜恵の無い生き方は

やめよ〜と言う教えの結末がどの様になるのかイエシュアの口から直接語られています。下矢印

 

 5:19 それだから、これらの最も小さいいましめ<トラーに記された教えの>の一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、

これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。

異邦人の中に刷り込まれてしまった意識はざっと言うとこんなものです。

1 創世記〜マラキは古い時代の律法。イスラエルにどれほど罪人か知らせるために、厳しいおきてが与えられた。

それらは、イエシュアが地上に来た事で終了した。

2 使徒は律法から恵へと移行する時代で、古い教えから、

それぞれが霊に導かれる新しい教えの時代に変化して行った。

3 昇天以降、初めて罪の赦し、救い、聖霊が与えられた。

過去の人達には同じ様な救いはなかった。

4 置換神学では、使徒2章以降、異邦人は新しい契約を受け取って新しい教会と言うグループが出来た(モーセの五書を否定する新しい契約書=新しい教え、神の口から語られた霊感で書かれた別の聖書などこの世のどこにも存在しません。)

5 律法から恵に以降したので、以前の教え=モーセを生きる人は、恵を無駄にした神に逆らう教えを生きる事に戻るのだ。

6 マルキオン、その思想を受け継ぐデイスペンセーション神学創始者ダービーの様な西洋教師は、ルカ、パウロの書簡1、2

を読むだけで事足りる。今の時代は神の言葉を生きることはなくなったと教えている。

この様な非聖書的意識をがっちりと揺るがないほどに異邦人の頭脳の中に刷り込まれ続けてしまっているのです。

津波の様に一旦突破口が開き、大水がなだれ込んで来たら、誰もそれを容易に止められないのと同じです。進化論や偽科学仮説と同じ、嘘なのに大衆に浸透し、伝統で19世紀にも渡り語られ、実践されたらそれが真実だと思い込み、目の前の聖書の中に真実が書かれていても、その脳回路の中には神の言葉の真実を曲げるプリズムが搭載されてしまっているので、書いてある事を曲げて読み続けているのです。永遠が一時的、変化しないのに変化する、神は永遠に変わらないのに二面相の怒りの神と恵の神、神の言葉も変わらないのに変わる、完全であるものが不完全と読み解き、様々に読み替えています。神の記念日は終了し、7から1へレビ記23章の神の呼び出しの日、祭りの日を西洋人が編み出したお祭りに変更したのに、それが聖書の神の教えであるのだと言い続けていても、何の違和感も無いのです。

 

父の言葉=イエシュアの言葉=モーセの五書を否定し、改ざんする教えは、100%イスラエルの神の教えとは全く無関係の異邦人が勝手に神の言葉を塗り替えて主張している教えに過ぎないのです。

永遠不変の神の言葉=その事実をそれぞれが聖書から神が伝える永遠不変の真実を発掘しないとならないのです。

 

続く