情報の欠如 錯乱 混乱が誤解を招いて | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

どうしても理解しなければならない事、それは聖書は神が言う通り、創世記から黙示録まで全く同じ福音、全く同じ教え、どの箇所も神の言葉は1点1画変化無し、矛盾していない、途中で違う

教えにすり替わってなどいないと言う永遠の事実が神の言葉から見えない限り使徒2章以降は変化、いや福音書以降は変化した

教えが書かれていると言う不真実虚偽の空想話を元に、神が伝える永遠不変の真実がおおい隠され、人が創作した宗教の教えに変身した、歪んだ鏡を通して、神の言葉を変化させて誤解したまま聖書を読み続けてしまう事になるのです。

 

使徒行伝は、神の教えが変化する移行期、過渡期だと異邦人聖書学者は解説していますが、とんでもない誤解です。神の言葉に照らし合わせたら、永遠不変の神の言葉がどうして使徒以降変化する事が可能なのですか???これらの教えは1世紀後半から出てきた西洋教父達の教えを通して聖書を完全に曲げて読んで解説している典型的な例なのです。聖書に記された内容を素通りして

読んでいる、書いてある内容を正しく把握していないからです。黒が同時に白で、猫が犬になるはずが無いのに、変わらないと神が直接神の口から言っているのに、人がその神の言葉を真っ向から否定し、変化したと言い続ける事自体が異常、変であるとどうして気がつかないか?それほどまでにひどく麻痺しているのか、それは人の教えに洗脳され、脳回路が正しく聖書に書いてある内容を把握せず、読み取れず、別の解説に置き換えて聖書を読み続けているおかげです。

パウロがガラテヤやローマ書を書いた後気が変わったなどと、

学者がいい加減な解説をしていますが、それではパウロの書簡は聖書ではなくなってしまいます。その様ないい加減な思想を発表する人達のおかげで、変な思想、変な発想を人に刷り込み続けているのです。

 

使徒21章は、パウロがモーセの五書とは違う教えをしているのではないか?と言う町の噂、嫌疑がかけられ、15章と同じく

パリサイ派のユダヤ人の長老達、リーダー達がパウロにこの噂を

是非否定する必要があるとパウロに話した件を書いてある通りに読んで書いてある通りの意味を把握しなくては真実な神の言葉の理解は始まりません。

 
使徒21:21 ところが、彼らが伝え聞いているところによれば、
あなたは異邦人の中にいるユダヤ人一同に対して、子供に割礼を施すな、またユダヤの慣例にしたがうなと言って、モーセにそむくことを教えている、ということである。
 
モーセに背く?ユダヤ人に取りこれはあってはならない、放置してはならない大問題なのです。そこでパリサイ派の長老達はこの噂を完全否定するために、この様に提案しました。

 

使徒21:23 ついては、今わたしたちが言うとおりのことをしなさい。わたしたちの中に、誓願を立てている者が四人いる。

 21:24 この人たちを連れて行って、彼らと共にきよめを行い、また彼らの頭をそる費用を引き受けてやりなさい。そうすれば、あなたについて、うわさされていることは、根も葉もないことで、あなたはトラー(モーセの五書)を守って、正しい生活をしていることが、みんなにわかるであろう。

 
ナジル人の請願は30日はかかる真剣で重たい請願です。
神殿で高額な費用を払いしかも参加する他の人の分までパウロが支払いその様な請願をし噂を払拭する理由はパウロが完全にこの偽の噂に対して潔癖であり100%モーセの五書に忠実に生きていると言う世間への表明なのです。どうしてこの様な聖書に記されている事実を無視してパウロがモーセの五書を否定する教えをしているのだなどと言い続け信じ続け、聖書に書いてある事実=神の言葉が永遠不変である事実を丸ごと無視しているのか?その事の方が不思議な現象なのです。しっかり聖書だけを読んで、自分の頭で人の思想を通さずに考える訓練をし始めないとならないのです。今世間で起きている事と同じく、上が言ってるから公共で流されている情報だから嘘のはずはない、正しいに違いないと鵜呑みのして、どれほど危険な目に世界はさらされているのか今徐々に明らかになっても、それでもまだ眠った状態の場合には
ずっと真実に気が付けないものなのです。
 
ヘブライの世界、ユダヤ人とは何かが全然分からない異邦人には
ピンと来ないですが、神の言葉を否定する=死である事を聖書から読み取る人には理解出来ます。そして、使徒行伝、書簡に出て来る信者の殆どはユダヤ人であり、そしてクリスチャンが想像
している様なものではないのです。彼らはローマ帝国教のバシリカ(異教の神々の寺院=教会?)に日曜日に集い、モーセの五書とは違う教えを聞いていたのだと聖書とは違う事を信じて聖書を読み続けているのでしょうか?
1世紀の彼らユダヤ人イエシュア信者も同様、今までと変わらずにパリサイ派の会堂にシャバットに集ってモーセの五書、預言書を聞いて学んでいたのです。その中で彼らは”ナザレ派”とか”この道”のもの言われたのです。この事実をはっきり把握しないとならないのです。使徒15章を読んでも、パリサイ派の中に受け入れられたトラーに対し全く知識の無い異邦人達に対して、交わりをする上で得に食事を一緒に囲む事に於いて、最低限どの様なトラーの教えを理解していないとユダヤ人と一緒に交わりに加えられないからと言う話し合いがされたのが15章の内容なのです。
 
使徒21:20 一同はこれを聞いて神をほめたたえ、そして彼に言った、「兄弟よ、ご承知のように、ユダヤ人の中で信者になった者が、数万にものぼっているが、みんなトラーに熱心な人たちである。
<イエシュア信者の中心、殆どがユダヤ人であり、その人達は
変わらずにトラーに対して熱心に学び、生きていた事実、証拠がはっきりと記されているのです。信者になったらモーセの五書を捨て、違う教えを聞いて生きていたなどと誤解してませんか?>

 

問題は、聖書が記された後、何が起きたのかなのです。

まず、聖書が記されているであろう、多分ヘブル書が書かれたのは、神殿が崩壊した後の事かもしれないのです。70年ADに

エルサレムの神殿がローマ帝国により崩壊されたのです。

 

ローマ帝国は元々ユダヤ人は目の上のたんこぶ、モーセの五書を生きる事に対する弾圧をし続けて来たのです。ローマ帝国が滅びた理由は、モーセの五書にある神の言葉に反する生き方、”同性愛”で内部崩壊したのですが。

その様な神の教えを毛嫌いする人達により、神の言葉と、神の

神殿と神の民を滅ぼそうとしたのです。反ユダヤ、反トラー、

反イスラエルの国、この3つを破壊するサタンのプランは歴史の最初から健在なのです。

当時110万人のユダヤ人がエルサレムで殺され、外へ散らされました。

これが第一ユダヤ戦争です。その後第二ユダヤ戦争、(132−135AD)バルコクバの乱があったのです。ユダヤ人はイスラエルに対する愛国心があり、契約の民として神のトラーをガードし生きる事をしていたのですが、異邦人にはイスラエルに対する

愛国心も無い、元々神の教えを知らないために、神の教えに対する忠誠心も無い人々なのです。バルコクバの乱で戦っていたユダヤ人イエシュア信者も、ラビ アキバが救い主であると言う宣言をしてからは、その思想に同調が出来なくなってしまったのです。なぜなら彼らユダヤ人イエシュア信者は、イエシュアが救い主であり、ラビ アキバは只の人間であると認識していたからです。偽救い主リーダー率いる乱に同調し参加し協力出来なくなってしまったのです。

 

これ以降、イエシュア信者であるユダヤ人は益々居心地の悪い立場になってしまうのです。ローマからの弾圧=モーセの五書を

生きる事を禁じられる、同胞であるユダヤ人達からも同様に、

イエシュア信者であることに関して圧力がかけられたのです。

愛国心の無い人達とも思われてしまった。

 

そして、異邦人達はと言うと、異邦人にはイスラエルに対する愛国心など元々全く無い、プラスローマ帝国から異邦人であるのにユダヤ人と見なされて圧力がかけられた理由は、ユダヤ人と同様にモーセの五書を生きているから、お前達も同様にユダヤ人である!と見なされてしまい異邦人であるのにユダヤ人と見なされてローマ帝国からの迫害に合ったからです。歴史家 ヒュー ションフィールドがこの問題に関してこう書いています。

 

”ユダヤ人問題は、ローマ帝国における異邦人グループは、ヘドリアン王の統治下、ユダヤ人イエシュア信者達に対して冷たく、

よそよそしい態度をとることになる引き金になり、ほぼ完全に

決裂状態に導いた。ローマの異邦人信者は、ナザレ派のユダヤ

愛国主義者に同情を期待できなくなった。彼ら異邦人に取り、

エルサレムの神殿の崩壊と神殿での礼拝、サービスの実践が止まった意味とは、神の律法(モーセの五書=トラー)の終わりとなった。”

この歴史の史実、異邦人が取った行動、事実をはっきり把握して下さい。神が神の教えを終了したのではなく、異邦人がローマ帝国の弾圧の下、ユダヤ人と見なされないためにユダヤ的な教え=トラー神の教え=父の教え=イエシュアが教えたこと=婚姻契約書とは無関係であると言う立場を取ったのです。その後どうなったのでしょう?引き続きこの歴史家はこう記しています。

 

”これは異邦人に取りユダヤ教の重荷からの嬉しい解放を意味しクリスチャンの哲学を彼らの気性によりぴったりするものに合わせ自由に発展させたのだ。

 

異邦人は元々神の教えに馴染みがない、使徒15章にある様に

イエシュアを信じた後も、自由気ままに偶像礼拝に参加し、異教の神々の神殿で神殿娼婦とも交わり、汚れた動物を、その血を

食べるなどと言う事をしていた人達に取っては、神の聖別とは何か全く知らない事を1から教えらないとならない異邦人、自分達には未体験の教えなど重たい、意味が分からないから、面倒臭い

程度にしか理解しなかった事は容易に理解出来るのです。

だから自分達の文化に馴染みある教えや記念日にと、神の教えを様々に変えてしまった理由はここから始まっているのです。神が神の教えを変えたなどと言う別の話にすり替えてはならないのです。

 

他の歴史家レオン ポリアコブが同じ種類の考えを書いています。

”ハドリアンが割礼を禁じ、そして135ADの血まみれのバルコクバの乱、そして初代異邦人がクリスチャン弁証者は、クリスチャンは、イスラエルとユダの地に何の繋がりも無く、非の打ち所のない帝国の主題であった。”

 

神がモーセの五書=トラーを生きるのを禁じて終わらせたのではなく、ローマ帝国=異邦人=人間が禁じてそれを政治的理由で

異邦人はローマ帝国の勅令に迎合して、彼らと調和、同化して

生きる道に外れて行った。つまりユダが裏切ったと同じく、神の教えに適当に見切りをつけて、自分達の宗教、教えに作り変えてしまったのです。元々神の教えを作り変え、人間が手を加え、

人間が教えを創作した宗教は最初から存在してはならないものなのです。神が禁じている”姦淫”の罪とは、異教の神々、イスラエルの神に属さない教えを混入させる宗教の教えの事なのです。

神の言葉は宗教ではない、人が生きる事を教える純粋な言葉、

教えのみなのです。

宗教=イズム=人の思想や考えが混ぜられた混入物なのです。

宗教の教えは、神の言葉ではないので、命を生み出せないのです。人の中に影と重荷と窮屈さと、不自由さを与えるものです。

エジプトの奴隷状態、肉体的にはエジプトを出たのに、中身は

偽物に縛られた奴隷状態に逆戻りしてしまうのです。

 

神との本来の関係が断たれ、別物に変身し、偶像礼拝と同じく

本質が違うものにすり替わってしまうのです。

異教の神々と、イスラエルの神との違いを、別の記事で又書いて

見ますが、人の教えと神の純粋な言葉は本質がまるで違うのです。一番タチが悪い=見分けがつかないのは、混ぜ物の教えです。似て非なるもの、本物を知らない場合には、本物らしく見えるから、嘘ものであると見分けが付かないからです。

 

続く