人はもれなくどの人も創造主=イスラエルの神に創造された事は否定しても否定出来ない消し去れない永遠の真実です。
それをその個人が認めるか、認めないか、神はいると認めるのか認めないのか、その神とはどんな神なのか?それはその人の中に、真実を認識する”知識”があるのか無いのか、それだけの差であり、そこにある神が創造された永遠の真実は誰も帳消しには出来ないものです。
事実真実は人間の認識、受け取るか、否定するかにより変化するものではないのです。私は何なにを〜こう信じてます!それはその人の中にある真実に過ぎず、信じている内容が事実に基づくならば、それは真実を知って信じている、もし信じている内容が真実では無い、真実の根拠も何も存在しないなら、それはその人の頭の中にある世界の中だけでの真実で、事実は空想、架空、
空虚を信じている事なのです。自分の考え、信条が、神の真実とマッチしているのかしていないのかが大事な事です。何か難しい説明になってしまいますが、”私は信じない〜” ”私は信じる〜”と言う宣言は真実に対してその人の意識、行動、認識だけとなるのです。
異邦人クリスチャンの世界で、非聖書的教えであるのに、聖書であるがごとくに定番で語られる教えの数々は、1世紀後半に
出現したものであり、神が語った事ではない、聖書に基づくものではなく、異邦人教父達が作った教えの数々なのです。
どうしてその様な事が起きたのか?その大きな理由は、当時の
政治的理由にあるのです。
メシア イエシュアが地上に来られて処刑され昇天されたから
以前の教え=トラーは終了し、新しい教えが伝えらたと言う異邦人の間で定番の教えは聖書とは何の関係も無い教えです。
なぜなら、福音書以降は、聖書の最初の4分の3の部分の短い
解説、ナレーションに過ぎないからです。
聖書の最後の後書きであり、最初の部分に記されたメシア、
最初から伝えられているメシア、この世の礎が造られる以前から
永遠の中に存在している神=イエシュア、人類に対する教え、
そして子羊の完了の業を、地上で証明し世界へ同じ教え=トラーが伝えられ、エデンに戻る短い説明であり、聖書の最初の4分の3の箇所を塗り替え否定する別の教えなど最後の4分の1には書かれていなのです。この事実が聖書の記述から見えない限り、人の教えを通して聖書を完全に曲げて読み続けて行ってしまう障害が
あるのです。
第一ユダヤ戦争、神殿崩壊が起きた紀元後70年、110万以上のユダヤ人がローマ帝国に殺害されました。ユダヤ人の叛逆、反乱暴動とも呼ばれますが、どうしてこの様な事が起きたのか?
それはイエシュアが来られる以前からある緊迫状態なのです。
ローマ帝国からの弾圧です。弾圧ートラーに記されたユダヤ色
ある教えや記念日、祭りを祝う事に対しての禁止、弾圧です。
イエシュア が居られた当時も、同じ弾圧があったのです。
エルサレムの神殿を、マカバイ戦争の裏にあった事情=異教神々の偶像を持ち込み汚れた動物を神殿の祭壇の上に捧げ、イスラエルの神の聖なる神殿を汚した事に対しての反乱と同じです。
エルサレムの神殿がローマ皇帝、彼らの神々の礼拝の場として
変えられてしまう事への反乱です。それ以前から、トラーを生きるユダヤ人達、同様にトラーを生きる使徒15章に出てくる様な、少数の異邦人達も、同じトラーを生きるならユダヤ人とみなされ、重税=純金で5000ドル相当のもの、払えない場合、家族の一人が投獄され、支払うまで牢獄に閉じ込め餓死させる、事実上の死刑、処刑をされたのです。
ユダヤ人は抵抗し、異邦人イエシュア信者は神の教えを曲げて
ローマ帝国に迎合して行ったのです。それらの行動の背景には、トラーを生きる必要は無いと言い出した異邦人西洋教父達の存在教えがあったからなのです。
神が神の教えなど変えるわけが無い事は聖書に記されている通り明らかな事実なのです。
その後も、異邦人教父達による、非聖書的教え創作に拍車がかかり、ローマ帝国の勅令に異邦人信者達は迎合して行ったのです。神に対する裏切り行為です。
第二ユダヤ戦争=バルコクバの乱以後、ユダヤ人イエシュア信者達は完全に歴史のページの中で語られる事がなくなり、エルサレムから、イスラエルから出て世界へ散って行ったのです。
そして、異邦人信者達は、ユダヤ人信者達と、そしてオリジナルの聖書に記された純粋な神の言葉=教えとも完全に決別し、決裂し異邦人は新宗教へ迎合し、ローマ帝国の勅令と、ローマが作り出した新しい宗教に吸収されて行ったと言うのが歴史の事実なのです。だから、異邦人の世界の教えの実践と記念日が、ユダヤ人=オリジナル=トラー=神の教えと神が造られた記念日を生きるイエシュア や使徒達、1世紀のイエシュア 信者とは異なるものであるのはそれが理由なのです。
イスラエルの肉体的、遺伝的生まれではない異邦人も、イエシュア =ユダヤ人である長子を通して、同じイスラエルと言う神の大
家族にされたと聖書には記されて、パウロの書簡に登場する人たち、ほぼほぼユダヤ人が大多数ですが、諸外国でも同じトラーを生きていた事が記されているのです。パウロの書簡に登場する人たちがシャバットを祝うのをやめ、神の教えを捨てて生きたなどと考えていたらそれは聖書とは全く違う架空の話を信じている事になってしまいます。諸外国に住んでいた人たちも、ユダヤ人
会堂で、シャバット=第七日目に、トラーの巻を開き、読み、
預言書も読み学んでいた事が記されているのです。だからパウロはシャバットごとに彼らとトラーについて教え、話した記録が
使徒にも書簡にも記されているのです。自分の目でちゃんと聖書に書いてある通りを読んで何が書かれているのかぜひ確かめてみてください。その時書いてある意味を勝手に比喩や寓話に置き換えてはならない。7は永遠に1にはならないのです。
誰かが言い出すと、もしかしてそうかな?神は本当にそう言ったの?と言う、エデンの園のあの地を這う動物の作戦にひっかかるのです。疑いが入ると、どんどん違う方向へ行ってしまう。
神の言葉=命の木=トラーをしっかり握るものは安全!と言う事とは逆、神の言葉を少しでも疑い、違う教えに耳を傾けるのならエデンの園と同じ過ちを繰り替えす=人の教えで神のオリジナルの教えを塗り替えてしまう事が歴史の中で継続して起きて、今に至るのです。オリジナルの神の言葉=元が消えて、聖書に無い教えにすり替わって、目の前に書かれているのに、神の言葉の事実が読み取れなくなる。7は1になり、永遠普遍が一時的、変化すると言う教えに変身してしまっているのです。
ここでは、詳しく説明しませんが、聖書に登場する人たちは、
100%モーセの五書、諸書、預言書しか知らないのです。その人達=残りの民=神のトラー=教えを聞いて理解していた人達は
地上に来られる救い主を知って、待ち望んでいたのです。
その救い主が永遠の中から提供される業を理解していたのです。
内側に聖霊が同じ様に住んでいたのです。
2000年前に突然救い主が地上に来られてから、救いの事実に気が付いた、受け取ったのではない、神の言葉を理解して生きた
残りの民は最初からどの時代にも存在していた事が聖書には記されているのです。
アヴラハムは世界の父の代表として書かれています。アヴラハムは異邦人なのです。その時代はユダヤ人もイスラエルと言う国も存在しない作られていないのです。アヴラハムは、メソポタミア、ウルの地で異教の神々を信じる父テラのもとに生まれ育った人です。どの様にアヴラハムがイスラエルの神を知るに至ったのか書かれていませんが、忽然と登場し、突然神に呼び出され応答した事だけが記されているのです。アヴラハムはイエシュアの日を遠くに見て喜んだとあります。その様に福音は最初から同じ、最初から同じ神の言葉、教えしか存在していないのです。アヴラハムはモーセにより神が文字で記した教え=婚姻契約書を正式に渡す前から、同じ教え=同じトラーを神から直接聞いていた、
それはエデンの園の、アダムとハワから同じなのです。
創世記26:5
イスラエルの神は時を造られ聖別されました。創造の最初に第7日目を聖別し、その日は週に一度聖別され祝われる神が神の子らに与えた印である〜神との関係の中にある印として与えられた
婚姻指輪と同じく、面向きに誰にでも分かる印として与えたと
言われました。神の言葉通りを聞けば、その通りに聞いて受け取れば、人間が勝手に解説して神が聖別した主の日を別の日だと
主張する事は創造主である神の前に何の意味もない事である事は
簡単に理解出来る事なのです。
神が聖別された日、聖別された人間の聖別された生き方は、
地上の出来事、イエシュアが地上でされた事で変更される性質の
ものではないのです。神の創造された記念日は人間が勝手に決めて後から変更できる、してよい性質のものではないのです。
神の記念日には、預言的教え、イエシュアそのものを表し教えているものであり、福音を網羅するものでもあるのです。時と意味を人間が変えてしまえば、神が人に伝えている教えは変えられた教えを聞いている人の頭脳には届かないまま終わります。
神のデザインは全てシャバットの安息を中心に造られているからです。7と言う数字で神がずっと説明している深い意味がその中にあるのです。
エゼキエル46:1 主なる神は、こう言われる、内庭にある東向きの門は、働きをする六日の間は閉じ、安息日にはこれを開き、
またついたち=ホデシュ=新月にはこれを開け。
<東向き=カデイム、この東と言う言葉は地理的東を表しているだけではなく、”時”を指して使う言葉です。時=永遠です。シャバットでは、永遠の時の中に繋がる時として神がデザインしているのです。地上にありながら永遠と繋がっている事実を教え、
皆で体験する日は、第七日目であると記されているのです。
普通の日、第1日〜第6日目は閉じている。でも第7日目で体験し教えられた事実を残りの普通の日、1〜6日の中でも生きる。>
新月には深い意味があります。今この箇所で記す事が出来ないので、他の記事に書いてみたい内容です。>
これは未来預言です。神の子らは、第7日目がシャバット=安息日、聖別された日であると伝えられています。今どうして違うのでしょう?と思いますか?それは、人間が宗教を作り=宗教=神の言葉に人間の教えを付け足し、差し引きして作った教え、
それが聖書であると異邦人の世界で2世紀以降伝えられ続けてしまい、それが真実だと不真実を真実とされてしまったからです。
46:2 君たる者は、外から門の廊をとおってはいり、門の柱のかたわらに立て。そのとき祭司たちは、燔祭と酬恩祭とをささげ、彼は門の敷居で、礼拝して出て行くのである。
しかし門は夕暮まで閉じてはならない。
46:3 国の民は安息日と、ついたち=新月とに、その門の入口で主の前に礼拝をせよ。
ヘブル書4:4 すなわち、聖書のある箇所で、七日目のことについて、「神は、七日目にすべてのわざをやめて休まれた」と言われており、
4:5 またここで、「彼らをわたしの安息に、はいらせることはしない」と言われている。
4:6 そこで、その安息にはいる機会が、人々になお残されているのであり、しかも、初めに福音を伝えられた人々は、不従順の
ゆえに、はいることをしなかったのであるから、
<不従順とは、神の言う事を言う通りに聞いて行動しなかったとと言う意味です。従順=聞く=フパコウ=シャマ、その通りに聞いたら聞いた通りを行動する、不従順=神の言う事を聞かないで、違う教えを聞き、神の言われる事とは違う行動をする事です。>
4:7 神は、あらためて、ある日を「きょう」として定め、長く時がたってから、先に引用したとおり、「きょう、み声を聞いたなら、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」とダビデをとおして言われたのである。
4:8 もしヨシュアが彼らを休ませていたとすれば、神はあとになって、ほかの日のことについて語られたはずはない。
<イエシュアはどの日を安息日として祝い、教えましたか?ここに有る通り第七日目以外であるはずはないのです。
ヘブル書の記者は、トラーの中に記されたシャバットの安息の話をしているのです。他の日=第七日目以外の事をヨシュアが
話している訳などない!と書いてある通りに読めば理解できます。シャバットは第七日目以外ではない、1〜6=普通の日=労働日であり、止まる日=シャバットではない事は明らかなのです。>
4:9 こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。
4:10 なぜなら、神の安息にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだからである。
4:11 したがって、わたしたちは、この安息にはいるように努力しようではないか。そうでないと、同じような不従順の悪例にならって、落ちて行く者が出るかもしれない。
神の言葉に聞く、神の言葉を認める、単純で基本的な事に戻れば、神が伝える永遠の真実が今目の前に広がって行く体験が始まるのです。人の教えの中を探り、人の教えに聞いて歩く場合、
それは人の思想や宗教の教えを探索し生きて、神の声の下から
ずれた圏外に飛び出る事になります。コピー品はどんなに似せてもまがい物でしかなく、本物ではない。似て非なる偽物であり、神が提供する本当の安息=ナファーシュ〜本来の自分を生きる
ぴったりで心地よい、エデン=喜びから私達を遠ざけるものでもあるのです。
神の中=エデン=喜びから再び飛び出てしまう。
Shabbat Shalom