神が伝える永遠の真実を知った上で考える様々な事 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

一週間振り返りこの週も様々な事がありました。生活の中で何事も無い人なんて一人も居ないでしょうけれど、それぞれの人生の中、それぞれの季節の中、それぞれに与えられる様々な出来事を通して、どの道でもその究極の目的は”神に出会う”事、どの道を通らされても、主の現実に出会い触れる体験をします。

 

今週も神の言葉を学びながら驚くばかりの宝の山、眩い光で暗闇を照らし導いてくれる数々の発見がありました。私が以前、15年前以上見聞きしていた西洋宗教の教えと、実際に聖書に記されている内容とに大きな違いがあると言う事に気が付いてから、

一体聖書には何が書いてあるのだろうと言う単純な疑問、探索心、”空腹感飢え”を抱えています。でもこの空腹感はずっと継続的に続いて、ドラマの続きを見る事を楽しみに待つ様に、何だろう何だろう何があるのだろうと、とても心地良いもので、どこまで行っても満腹にはならず心地良い空腹感がずっと続くのです。これが神の言葉のデザインで、臍帯の如く私達を安全に神に繋ぐ守りの防御服、命綱でもあるのです。

 

世間一般、異邦人の世界で語られている教えは、聖書を分断させ

最初と最後に書かれている教えの内容が違うものであると教え

られてしまいますが、それは永遠にあり得ない事です。

神が神の口から出た一つ一つの言葉により生きる、命のパン=

イエシュア、天から降ったマナ=命のパンにより生きると神が

伝えているのです。

 

神は文字で書かれたトラーと肉体を取って来られたトラーが同じである事を聖書の最初から最後まで人に伝えているのです。

もし、イエシュア=救い主が人の内側に住むならば、このイエシュアのこの部分は要りません、あの部分は認めません、この部分は嫌いで私には受け入れられません、関わらないで下さいなどなど言わないと思います。文字で書かれたトラーはイエシュアそのものであり、神との関係を生きる、神が造られた大家族と生きる詳細が書かれた婚姻契約=婚姻関係を生きる詳細の全てが書かれたものなのに、これは不要、これは関係ないと自分の都合で勝手に発言、夫たる存在=神に対して、妻=人が物申す、嫁いで来たのに嫁らしからぬ行動をするなどと言う事は夫を信頼し愛していたら決してしないはずなのです。いいえ、神の言葉が永遠不変であり、聖書には2つ別の契約や、人種別の教えなど書かれていない!と言う永遠の事実をオリジナル聖書=神の言葉から知ったら進化論の嘘を知るのと同じく、その様な人が作った非聖書的教えには二度と戻れないし、それらが真実ではないとはっきり聖書の記述から確認確信を持てば、その様な神の言葉に対する冒涜的発言、取り扱い、行動は二度と出来なくなるはずなのです。知らないから、分からないから、人の教えを私はそれらが聖書だと信じて疑わず復唱し生きていました。

 

イエシュア=肉体を取って来られたトラーとあります。

私達は復活の命の現実を通して、イエシュア=メシアの頭脳を

与えられたと聖書には書いてあります。

メシアの頭脳を持つと言うことは、生けるトラーの頭脳を持つと言う事が書かれているのです。文字で書れたトラーと同様に、

生けるトラー=イエシュアは今私達の只中に住まっているのです。文字のトラー=イエシュア 。その両者が自分の内側で対抗し、敵対し合うなどあり得ないのです。文字で書き記されたトラーと、生けるトラーはエレミヤ31章にある再更新された同じ内容の契約とぴったり同じなのです。この事実を理解するためには聖書に書かれた事、特に最初のモーセの五書、そして預言書、

諸書をしっかり学ばないと、神の言葉を人の教えに塗り替えられた解説で、神が伝える真実が自分の頭脳には届かなくなるのです。その代わりに人が作った、神が伝える言葉を塗り変えて、

神の言葉はもう価値が無い、今は無効、異邦人の自分には関係の無い教えなどと、聖書には無い不真実を教えられ伝えられ、神から与えられた様々な恵み、祝福、守りを自分から奪われたまま

気が付かずに宗教の教えを生きてしまうことになるのです。

 

聖書には、人は腹に書かれたトラー=私達のDNAの中に創造の

最初から搭載されている性質があると書いてあります。それら

全ては神のトラーにマッチするものであり、肉体的にも霊的にも全ての存在丸ごと神が記したトラーに人のデザイン、生き方が

書かれているのです。人の内側に住まうイエシュアが居るならばその人の生き方は文字で書かれたイエシュア=トラーにも

100%ぴったりマッチする、安息、ナファーシュ、その人本来の性質、姿なのです。

この真実を覆い隠しているのが、人が作り出した教え=非聖書的

神学=神の言葉は進化する、変化すると言う教えなのです。

そしてあたかも神の言葉はするしない掟リストの様に語っているのです。

聖書は翻訳だけ見ていても元の意味が見えない事が多いのです。ある程度見えても、深い本質まで見えない事があります。

そして神の言葉に対する、不適切な翻訳、誤訳、はたまた聖書には無い造語を作り出したり、聖書に無い言葉や文章を翻訳者が

勝手に挿入したり、聖書の最初と最後の箇所にある、同じ言葉を別の言葉で表現したり。教会と言う造語もその代表例なのです。人が作った非聖書的解釈で書いてある内容を塗り替えられてしまったら、神が人が知るべき真実を著者に書かせているのに、その真実が別の教えに塗り替えられて、真相が見えなくなってしまっているのです。

背後にある情報=文化的、歴史的、言語的、地理的、様々な情報があればあるほど、立体像として神の言葉が浮かび上がって来るものです。

 

エレミヤの31章など、シナイ山で結ばれた契約とは別の話を

していると勘違いされていますが、ヘブル書で語られているのも

同じエレミヤ31章の契約の事であるのです。

新しいものが出てきたら古いものは廃れるなどの箇所を読んで

モーセの契約が廃れたなどと早合点するのですが、翻訳自体にも

問題があり、読者もモーセの五書は廃れたと言う人の教えを通して読んでいるのでますます誤解、混乱を招くのです。

 

1000%神が創造された天地が存続するので、神の言葉=契約は変わらないのです。何が変わると言っているのか?その契約に

参加する人の状態が変わるだけです。どう言う状態になるのでしょう?頭脳に割礼を受けた状態=神の目から見る事を神の言葉から学び生きる実践をする人達が参加する、参加する人の性質が変わるだけで=誰も主を知ろうと言わない!皆の中で頭脳に腹に神の教え=トラーが刻まれて生きている状態になると書いてあるのです。契約の内容、神の約束や教えが変化したり無効になる事など決してないし、そんな事などは聖書には書かれてなどいないのです。契約の中身には問題ないのです。契約を生きる人の側で色々な問題があり、人が!神の教えに対して不忠実になり、果ては神のトラーを離れて他の神々の教えやこの世の教えと混じり合っていく、その人間の行動がずれていると書かれているだけなのです。

進化論を学ぶ事と同じく、人の仮説を土台に聖書=神の言葉を曲げて読み、神の教えを誤解して議論する、考える、生きるなら、それはある点でずれた方向へずっと進んでしまうことを意味している事になります。

 

神の約束、神の教え、神の伝える言葉は神が人に伝える通り、

途中で変化進化する余地のない完全なものなのです。

それを個人個人が発見し知り生きるか、神の本当の言葉、意図を

知らないまま、人が勝手に作り出して伝え教える”神の言葉は今は廃れた”と言う教えについて行き神の本物の教えの方捨てて生きるのか、それが広い門、狭き門、本物の羊飼いの声=神の言葉を聞き分ける、識別すると言うイエシュアの言葉でも教えられているのです。イエシュアが100%トラー=モーセの五書のみを教え、モーセの五書=父の教えを生きていたなどと以前は考えて事もなく、新しい教え、古い面倒で厳しい縛り付ける教えから人を解放するために地上に来られたと教えられていましたが、その教え、歪んだイスラエルの神像を語っている毒な教えそのものであり、イスラエルの神を誤解させるに効果のある教えです。

神の麗しい教え、言葉に対して、呪い、律法、面倒、縛り、

束縛、窮屈?神に対してどう言う意識を持たされているのか、

考え直せば真実が見えてきます。

 

聖書に書いてある意味通り、内容通りを読まない、書いてある

中身をその通りに知らないなら、どうやって神が人に伝えている

真実を発見する事が出来るのでしょうか?

 

決め手は、自分がどう考えるか、どう感じるかではなくて、

神の言葉が何をどう人に教え説明しているのか?それだけが重要であり、それだけが真実を発見する唯一の手がかりであるべきなのです。

 

詩篇19

8主のトラーは完全で、魂を生き返らせ

主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。

9主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え

主の戒めは清らかで、目に光を与える。

10主への畏れは清く、いつまでも続き

主の裁きはまことで、ことごとく正しい。

11金にまさり、多くの純金にまさって望ましく

蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い。

12あなたの僕はそれらのことを熟慮し

それらを守って大きな報いを受けます。

 

完全なものが同時に不完全でありえない。真実であるものが同時に不真実でありえない。永遠不変でありながら、同時に一時的、途中で無効になるなどあり得ない。神のトラー=教えを生きるなら大きな報いがあると約束されています。それは救いを得るためではない神のデザイン通りを生きたら人は恵みの生き方、祝福の生き方イエシュアそっくりそのままの生き方に入り生きる事が出来るからです。

 

詩篇119

17あなたの僕のためにお計らいください

わたしは命を得て、御言葉=ダバレハ=あなたの言葉=トラーに記された教えを守ります。

18わたしの目の覆いを払ってください

あなたのトラーの驚くべき力に

わたしは目を注ぎます。

19この地では宿り人にすぎないわたしに

あなたの戒めを隠さないでください。

 

詩篇、箴言は100%トラーに記された神の教え、知恵を実際にどの様に生きる事を語っています。神のトラー以外の教えは聖書のどの箇所にも記されていません。神のトラーを否定する教え=神ご自身が神ご自身の教えを否定する教えなど、もちろん聖書には記されてなどいません。記されていると考えるなら、それは人の教えで塗り替えられた人の創作した解説を読んでそう信じているだけなのです。空想、架空の教えを信じて、それが神の伝える真実だと錯覚していることは聖書だけに戻ればはっきり証拠、

答えが記されているのです。