聖書に記されているシャバットは週の第七日目以外に無い | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

1週間思いがけない事件の連続でしたが、よくよく考えるとこの時期秋の仮庵の祭りから、春の過越の祭まで、神が創造された

記念日の無い、長い冬の期間なのです。1年のサイクルの中の

この長い季節に様々な事が起きて、そしてその中で新しい生き方に気がつかされ移行する決断実践練習をする大きな1つの事を必ず教えられているものなのです。自分の身の回りに今起きている問題は決して偶然ではなく、神のプラン、許可のもと起きていると認識したら、全然違う見え方がしてくるのです。

問題だけに目を止めると見えない、でもこの事を通して、神が

考えている意味ある何かを教えられていると考えれば神の考えとぴったり1つになれます。

これが神の記念日、シャバットを中心に、新月、春と秋の祭を

通る=これら全てはイエシュアがされた業、そして神の子らの

出エジプトから来たる未来の世界に入る全ての内容が詰まって

いるものでもあるのです。神の記念日は全て”7”で強調されています。7は完全、完了を表す数字だからです。

 

神がこの世の全てを創造されたと言う時に、以前は神が物理的な世界を造られたと言う事は認識していたけれど、神が”時”を造られたと言う事にまで意識が向きませんでした。

でも聖書を読んで見ると、”時と場所”に関しての全てが書かれているのです。そしてその両方を神が聖別しています。

場所=神の臨在が住まう場所、神の宮=神の創造された神に属する人達=場所です。時=人の生きる時、これは誰も超える事が出来ない神が創造した時です。不思議な創造物ですよね。誰もこの時に関して説明のしようがない、不思議な創造物ですが、この神の造られた時の中を人は生きる様にされている。そして神が造られた時の中で、特定の時を神が聖別したと聖書には記されています。聖別に関しての詳しい教えは、レビ記に記されています。

1〜22章は、”場所”に関しての聖別。23章以降は”時”に関しての聖別です。神に創造された人、創造物、場所の聖別と、神が創造された時に関しての聖別が記されているのです。

 

異邦人クリスチャンの世界では、聖書の最初の4分の3と、最後の4分の1とでは違う教えが書いてあると教えられてしまい、

そう考えていると思いますが、聖書の全ては最初の5書を土台にその中に記された神の言葉、内容に付いてのみ語っていることをまず認識しないと神の伝える永遠の真実は見えてこなくなってしまいます。

そして創世記から黙示録まで同じ不変の幾つものテーマと言う紐でくくられて1つとして結び付けられているのです。1つに繋がる真珠のネックレスをどこかの部分だけ切り取りすれば、そこから全部真珠は崩れてバラバラになってしまう事と同じ事を主張しているのです。自分の体は全部の臓器が揃って繋がり、互いの存在があるから完全なる1つの体として機能しているのに、内臓、手足、その他様々な臓器を切り取り、取り出し 捨てるならば、それは完全なる形として造られた体として機能しなくなるのです。試しにやってみたら実体験出来る事ですが、神が創造された自分の体を切り刻んで捨てる様な愚かな事はしないのです。

 

聖書の最初の5書=大元の土台、聖書の全ての内容が凝縮されている部分を捨てたら、神の言葉で説明し語られている、入り組んで複雑で奥の深い神の思索、考え、神の教えが雲や幕に覆われて見えなくなってしまいます。

 大学時代に婚約する人達がいて、婚約指輪を付けていました。

誰かと婚約していると言う事が、表向きにも目に見える印として

指輪をするのです。結婚指輪もそうです。表向きに目に見える印である結婚指輪です。誰かと法的な関係で結ばれている事を表すものです。古代のイスラエルにも婚約がありました。それが

聖書にも記されています。婚約は合法的なものであり、婚約期間は相手と実際に肉体的な関係には無いけれど、結婚したと同等な法的立場があるものとなるのです。

人間の世界でも表向きに誰でも分かる、目に見える婚姻関係の中にある状態を示しているそれが指輪です。でも神が与えた婚姻関係の中にある印は、神の聖別された数々で表されているものです。その代表がシャバットなのです。しかも、創造の最初に神が

伝えた”聖別”された時は、シャバットであり、この日に全世界の

創造物完成し、完全なる機能を持って存在し、神と共に最初に

迎えた日、それが祝いの日、神と人とが最初に共に祝って過ごした日が第七日目のシャバットであると記されているのです。

 

出エジプト31:13「あなたはイスラエルの人々に言いなさい『あなたがたは必ずわたしの安息日を守らなければならない。

これはわたしとあなたがたとの間の代々にわたるしるし

あって、わたしがあなたがたを聖別する主であることを、

知らせるためのものである。

 シャバットは神と人とが婚姻関係にある全ての人に対して表向きに目に見える独特な印として与えられた事が聖書には記されているのです。そして、人は神が創造された時、そして特別な目的で取り分けられた日=聖別された日を神が伝えた通りに生きるのであると神から伝えられているのです。

 

この神の言葉は永遠不変なのです。それを人が認めるか認めないか、認めて生きるか、認めず拒否し蔑ろにするかそれは個人個人の選択による行動であり、でもその個人の選択、行動により神の言葉の真実が崩壊し、取り消されたり、否定される事などないのです。この点をよくよく考えれば、人が神の伝えた言葉をどの様に受け取り生きるは個人個人の問題であって、神の言葉を今人が生きる必要などなくなったなどと1度も言ってさえもない、聖書にもその様な事は記されてもいない。その逆で、神を愛する人、イエシュアを愛する人は神の言葉=仰せをガードして生きる、

人は神の口から出た1つ1つの言葉=トラーに記された神の言葉で生きると書かれ、はっきりイエシュアの口からも申命記に記された言葉を引用されているのです。

安息日に関する教えは福音書以降も全く変化はありません。

ヘブル4章にもそう記されているのです。そして、この箇所にある聖書とは、又は福音書〜黙示録に書かれた全て聖書はと言う

言葉は、タナックのみ=モーセの五書、預言書、諸書のみを指して話している!と言う永遠不変の事実を揺るがさないで読んで下さい。

4:4 すなわち、聖書のある箇所で、七日目のことについて、「神は、七日目にすべてのわざをやめて休まれた」と言われており、

4:8 もしヨシュアが彼らを休ませていたとすれば、神はあとになって、ほかの日のことについて語られたはずはない。

(第七日目以外の他の日は安息日ではない!とはっきり書いてあります。)

4:9 こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。

 

ここで語る安息とは、シャバットの中にある安息の性質です。

ノアの言葉の語源と同じヘブライ語では”ヌアフ”です。これは肉体的にもぴったり心地よい、あつらえた通りぴったりの靴、

枕やマットレスがぴったりフィットして寝心地が良い、その様な

様子を表すものです。本来の自分にぴったりと言う状態です。

本来の性質〜安息、平安、神の中にある現実です。

そして神が語られる日=シャバットが週の第七日目以外の話をしているわけはないとまではっきりと記されています。この様に

聖書に記されているにも関わらず、シャバットが日曜日に変更になったと主張する根拠は聖書にあるのではなく、伝統的に異邦人クリスチャンの世界で語り継がれ続けている人の教えを土台に頼りに発言しているだけのことなのです。ヘブルの書簡が書かれている時にも、現代の様な西洋宗教の教えなどは1つも存在しない、誰も神の教えや記念日が別物に変更されたものを昇天以降の時代には祝うのだなどと言う聖書とは異なる異端的な教えをする人など一人もいなかったのです。

 

もしも、安息日が昇天以降第7日目から第1日目に変わったと言うならば、それは神の言葉ではなく、ローマ教を作った異邦人達の教えを信奉して生きていると言うことになります。神は神の

シャバットは永遠に第七日目であると言われました。イエシュアが地上に来られた時、ご自分の創造されたシャバット=第七日目がいつであるのか知っておるのは当然であり、第七日目にシャバットを祝った事だけが記され、第1日目にシャバットが変更されるとかされたとか、第一日目にシャバットを祝う人な一人もいない、そんな事など記されてなどいません。聖書に記されていると言うなら使徒20:7やパウロの書簡、ローマやコロサイを誤解して読んでいるだけと言う事になります。パウロは100%モーセの五書の実践者であると宣言しているパウロ本人の言葉の方が他の誰かが伝えるパウロ像より信憑性があるのです。パウロ本人が

伝える言葉を信じないなら、その場合、もう聖書さえも信頼出来なくなってしまうでしょう。

 

ローマ14:5 また、ある人は、この日がかの日よりも大事であると考え、ほかの人はどの日も同じだと考える。

各自はそれぞれ心の中で、確信を持っておるべきである。
パウロがここで語っているのは神の記念日の日の事ではないのは明らかです。パウロは100%神の教え=モーセの五書の信奉者実践者でありトラー教師であるからです。神の言葉は人間の意見で仕分けられるものではないからです。人が自分の意見で神の言葉を仕分けて良いなどと教えたら、神が伝える神の言葉に付け足し、差し引きするなかれと申命記で命じた教えを丸ごと無視し、それこそ新しい自分教を語っていることになってしまいます。
それではイエシュアから任命された世界へトラーを伝える任務を遂行する役割に失格してしまいます。
 
コロサイ2:16 だから、あなたがたは、食物と飲み物とにつき、あるいは祭や新月や安息日などについて、だれにも批評されてはならない。
神の教えに対して、それらを実践すること、それらの実践のやり方などを誰からも批判されるな!と言っています。シャバットを
生きて、神の教えを生きる時に、古い教えに戻るのか〜恵みを捨てた生き方だと、とんでもない攻撃を受けるのは理不尽であり、
批評されるべきものでは無い!と明らかに書いてあります。現代の教えに対して言うならば、神の教えを今後生きなくて良いと
考えるグループの人々から神の教えを生きることを批判されてはならないと書いてある事でもあるのです。
 
今の時代と同じ出来事、終わりの時代に、偽情報を信じてそれらに騙され、自分の身に神との関係に汚れと危険を取り入れても
気がつかないのか、それとも神の伝える真実は私達を守る防護服とでも言うべき防護ガードである!と言う神が伝える真実を本当に理解するのか?と言うことに分かれて行くのです。
 
神の言葉は人を縛るものではなく、神の口から出た全ての言葉は
私達の身の安全と霊的安全、この世の汚れ、神の性質に造られた神の子らを汚染される事から守るものである!と言う単純な真実をまず知る必要があります。防御服、鎧兜を脱げば、危険に晒されるのです。神の言葉を捨てよ、無頓着になれ、蔑ろにしろなど露骨にそんな表現はしませんが、神の言葉を学ばない、神の言葉に意識を向けさせないと言う事は、結局行動がその様なものになると言う事です。神の言葉は廃れた無用のものだから、神の言葉に気を配らず、霊により導かれましょう〜とそれらしく聞こえる
教えを教えられますが、霊=神=言葉=イエシュアであり、人は神の伝える言葉を理解して初めて聖霊に導かれているのか、それとも別の霊に導かれているか認識出来る様になるのです。霊、霊と言うならそこらへんで教えられているスピリチャアル系の教えと全く同じです。イスラエルの神の霊以外は全て悪霊です。
それらの教え=霊を神の言葉に照らし合わせて検証しないなら、神の伝える危険や汚れが何か見えないまま、自分自身をそれらの霊=闇の王国に誘い生きる世界へ知らないまま参加してしまう事になるのです。神の言葉を知らないなら、何が神の教えなのか
識別する手段がなくなるのです。福音書以降には神の教えの全ての詳細は書かれていない、短いコメンタリー、注解である事実を知らないとならないのです。
神の言葉をいらない、無用!廃れた、終わったと言う教えがどれほど自分の身に危険を招いているのかをまず知らないとならないのです。イスラエルのユダヤ人でも神の言葉に気を止めない人達
はこの世が推奨するアジェンダに乗って身に霊に危険を招いているのです。
シャバットは神が創造した本物の聖別された週一度の主の日で
シャバットは神の教えの中心であり、生きて表す、生きて神の教えを学ぶ、生きて神と出会う機会を得る日であると神が伝え、
神の子らを招いて一緒に祝う日なのです。
 
Shabbat Shalom