聖書に記された神が語る神の口から直接出た言葉、教え、純粋な神の言葉のオリジナルに戻る事をします。
イエシュアは地上で何を生きて人々に教えたのでしょうか?
父の教えモーセの五書=トラーです。父とわたしは1つ、一体であり、わたしを見たものは父を見たと言ったイエシュアの言葉を
ユダヤ人はどの様に聞いて理解していたのでしょう?
父の教え=トラーそっくりそのままを生きる、肉体を取って来られたトラー=ハ トラーとイエシュアは当時の人達に呼ばれていたのです。神=言葉=イエシュア=永遠不変と言う概念は異邦人の中には全くないものだと思います。
イエシュアが地上で教えた事=トラーは全部無効になったので、もうイエシュアが生きて示された事を今後人は生きる必要はないといつイエシュア=神が言ったのでしょう?一体聖書のどこに
神ご自身がご自分の言葉を否定する様なそんな事が書いてありますか?神の言葉が変化したと考える理由は福音書以降に書かれた内容を誤解して解説した異邦人の作った教えを聞いて信じているおかげでこの様な教えを信じる現象が起きてしまったのです。
聖書を読む大前提は、聖書は創世記から黙示録まで100%同じ福音、同じテーマ、同じ内容、どの時代のどの人種でも同じ救い贖い、同じ教えを神が語っていて、神の言葉は途中で放棄、
破棄、削除、付け足しの変化などしていない!と言う神の口から伝えられた事実から外れないで読めば見えて来ます。
2世紀以降現代に至るまで、異邦人クリスチャンの世の中で実践されている西洋宗教が作った数々の教えや記念日儀式は神の教え=言葉を西洋風にアレンジし、変えてしまったものを伝統的に
継承し実践されているものです。
それらの中には聖書に書かれた神の言葉を否定する教えも多く含まれています。だから神の言葉に対して律法と言い、律法は廃れたと言い、神の伝える教えや記念日を生きることを放棄してやめ聖書に無い異邦人が創作した様々な記念日や儀式、教え、そして神の仰せの多くを今は実践しないと言う事を教えているのです。
1世紀の聖書に記されているユダヤ人や、イエシュア信者たち、もちろんイエシュアや弟子たち、そしてパウロなども西洋宗教の教えなど知らない、作ってないし、実践もしていなかった事実を聖書から気が付いて、その事実に目を留めて聖書だけに基づき
考え直してみると、神の言葉の真実が浮き上がって来ます。
なぜ現代のクリスチャン神学者と教師は”安息”シャバットに関しての神の教えをないがしろにしてしまっているのでしょうか?
それは、一般的に異邦人クリスチャンの間では神が創造された
聖別された時であるシャバットを人の教えにより放棄、破棄する様にローマに教えられて後彼らの教え通りに従ってしまったからです。そして、シャバットに関しての概念も放棄してしまっているのです。今やシャバットは異邦人クリスチャンの文化の中には存在しないものと化してしまい、安息から忙しい活動、”労働” 働く、奉仕言うものに教えの重点が移行してしまいました。この様な事態、シナリオでは、聖書的”安息”は全体的に寓話,霊的な事を教える教訓的なお話として変化してしまい、結果、神が聖別されている本物の主の日=定めの時=聖別された週一度の”時”を
ガードする事をやめてしまっているのです。
神の言葉の事実を正しく世界へ伝える天の祭司の役割が、人種を問わずイスラエルの神に属する人達にはあるのです。神の言葉の事実では無い事をあたかも神が伝える事実であるかの様に語り続けるの事は金輪際やめなくてはならないのです。でも聖書の事実では無い事を信じて語り継いでいる状態で不正確な教えに気が付いてはいない、それらが聖書に記された真実では無いと言う事をはっきりと認識していない問題があるのです。人の作り出した教えと神の純粋な永遠不変の言葉、教えとを混ぜて混同しているからです。それらを識別する作業を聖書に基づきしないとならないのです。
神は神の言葉を歴史のどの時点でもどの一点一画も変えていないのに、異邦人の世界の教えでは、神がイエシュア昇天以降で新しい教えを教えられたと主張し続けているのです。でも新しい教え=新しい別の契約を示したと言うのですが、実際にそんな事は
聖書のどの箇所にも1つも書かれてなどいませんし、シナイ山
で与えた婚姻契約=トラーとは別の新しい契約書も神は人類に
与えてなどいません。
異邦人イエシュア信者達は2世紀以降、徐々にオリジナルの聖書=モーセの五書<預言書、諸書>に記されている神の教えとは
違う、西洋宗教が編み出した教えに移行して行きました。
福音書〜黙示録は、100%モーセの五書、モーセの五書を
解説する預言書、諸書以外の別の新しい教えなど書かれていないのです。
昇天以降シャバット、神の記念日、祭りや神の教え=トラー
=婚姻契約の中に留まり生きる事を神が変更したのではなく、
異邦人が変更し、異邦人が神の言葉を生きる実践を放棄、破棄したと言うのが本当の事実なのです。神は永遠不変と人に伝えた
言葉を永遠に誠実に忠実にガードする様に伝えており神の約束、教えはどれ1つ変更などしていないからです。
神の言葉を、人の教えや思想で変更し塗り替える行為は神に対する冒涜、違法行為であり神に対する死に値する罪である事が聖書に記されています。それでも、神の言葉を終了と決めて放棄する場合には、その神の警告も耳に頭脳には響かず、終わった古い話さ〜と言う事にされてしまっているのです。
出エジプト16; 20:8-11、申命記5:12-15に、シャバットの安息
をする事を教えるために、神がイスラエルと言う代表を選び出し
た事が書かれています。シャバットは、神がプロバイダー=全ての必要を提供する源である事を教え表しているものです。
出エジプト16:1-36
なぜならシャバットは毎週1度あり、それは私達に神の恵みを
継続的にずっと続けて体験させるための神が造られた時=聖別された日=主の日だからです。そして、私達被造物は有限である
存在なので、このシャバットは、創造主であるお方が私達へ過剰な労働をする事から、人間の考えで備え備蓄し続ける行動から守るための手段でもあるのです。人間は神に教えられなければコマネズミの様にとことん働き続け、富と自分を守る糧を得るために動き続けて止まる事を知らないまま行ってしまうからです。
そして、人が貪欲とそして物質至上主義に陥らないための、
神の救済策でもあるのです。
肉的には、与えられた時間を使って自分の場所、必要を確保する
事に心を費やしていますが、神の究極の目的は、与えられた時間を使って永遠の価値を得る事に向けて人に考えさせ教えているからです。
神の権威の安息=休みの下に自分の全てを置くと言う事を神が人に命じています。シャバットは私たちの必要、み旨に叶った願望を確実に保証する証拠でもあるものです。荒野で働かない日、
シャバットの日の分まで、天から2日分のマナが降った事でその約束、保証が表されています。
世界の帝国はずっと人が働き続ける事を要求し、古代イスラエルがシャバットで祭りで止まると言う行為を見て”怠け者の民族”とレッテルを貼ったのです。それは神の教えを知らない頭脳に割礼の無い民の思考回路だからです。
タナックの中で一般に2つの言葉が”安息”と言うことを包含して
います。動詞である ”シャハット”と言う言葉は、”平和を持つ”
”静まる” ”平和になる”と言う意味の言葉とつながる、又は同等のものです。ヒッフィル形では、”平和、静けさを提供する”、
”心配の無い安らぎを持つ”と言う意味になります。
2番目の言葉は”ヌアフ”と言う動詞で、”落ち着く” ”休息を得ると言う言葉で、ヒフィル形では、”休息を提供する”と言う意味にな
る言葉です。創世記の2:1−3ではどちらの言葉も使われていません。第七日目を他の6日から取り分け、聖別し、”神が第七日目に全ての業を終えて休んだ。”とある所とは異なります。
この箇所で使われている言葉は、”シャバット”と言う言葉で、
この言葉は、止まる、仕事をするのをやめる、休むと言う意味の言葉が使われています。これらの言葉をセム語に属する言葉の
研究で数々の興味深い事、重要な考えがあるのが見えます。
もっとも重要な事実は、神が神の民に関しての2つの事柄を
約束して下さった”休み”の事実です。
1つは、神の臨在が彼らと共にある事。
2つ目は、約束の地を与える事。
神がモーセに出エジプトする前に与えた約束、確証です。
イエシュアと福音の中にもこの”安息”に関する備えがある事を
シャバットを通して教えています。
神がシャバットで仕事から退いて止まる様に仰せになったので、
神が、私達の行いではなく、神の恵みにより私達を贖い出し事を
思い起こさせる事をシャバットを通して教えています。
出エジプト20:8-11
肉体的労働、働く事を通して霊的な仕事、物理的な休みは私達を
贖い出してくださる神の恵みに信頼する隠喩、象徴的な教えの
役割をしているのです。
シャバットは、エジプトの奴隷状態から私達を救出してくれた事を思い出させるものでもあり、罪と死の性質の全体像を教えるものです。私達は、自分自身で自分を救い出せると言う暴虐的思考回路から解放してくれるものです。
シャバットはイエシュアの死と復活に向き合う事をもたらすもの
です。シャバットは、私達の価値はどの様な行動を生み出したかと言う事で測られるものではなく、神との関係により生み出される事を思い出させるものです。神は人間の側で契約を破っても神の側では契約を破らないのです。
出エジプト31:12-18、35:1-3;民数記15:32-36 ではシャバット
はイスラエルの金の子牛を通しての偶像礼拝の前後、イスラエルの歴史の締めくくる最後に記されています。
ここの中にいくつかの深い洞察があります。
神はシャバットは神の無条件の恵みで私達を聖なるものとする
事を約束されて、それ故に私達は神の言われる事を聞いてそれを実際に生きる事は、神に対する契約の中にある忠誠を表すもの
である事が神の口から説明されています。
全ての契約は神との”関係”の中にあるシンボルとして意味があるものであり、シャバットは神が神の民への契約の忠誠を表すシンボル、印として与えたと神が言われて、イスラエルの神の子らも同様に神の契約の中に歩み、生きる忠誠を尽くす様に命じておられるのです。結婚指輪同様、シャバットは神から与えられた神と神の民=イスラエルが婚姻関係の中にある印の結婚指輪として与えたものなのです。
ここで異邦人はイスラエルとは関係無いと言う教えは神の伝える
教えとは異なる事をはっきり認識しないと理解出来なくなります。誰でもイエシュアを通してイスラエルの神=創造主の元に
戻り繋がれた人達は、神が提示する婚姻関係の中に加わり生きる
事に同意した、つまりイスラエルの神の花嫁となった事実があるのです。
トラーに記された様に、どの国の人でも=他国人、寄留者でも
同じイスラエルの神の中に住まう人達は同一の教えを生きると
神が最初から教えている事実があるのです。
異邦人はイスラエル=モーセの五書=神の婚姻契約の中に記された生き方とは無関係、道徳的な事以外はイスラエルだけが生きれば良い教えと主張し始めたのは1世紀後半に出現した、ヘブライの書=神の婚姻契約=モーセの五書を知らない異邦人西洋教父達が考え出した教えである!と言う事実をまずはっきり捉えて、神がそんな事は一度も人に伝えてない、神が伝えているのは、神の教えに対する忠誠心を常に持った生き方、それが神との関係の中にある証拠であり、神との関係の中にある人達は全て、神の提示した教え、記念日を生きると神が言われた事実をまず認めれば
見えてくると思います。
神の伝える生き方をしない、神の創造された記念日を放棄、破棄拒否する行為は、神が与えた契約を拒否する事であり、人間関係で言えば、夫婦の結婚指輪を捨て、結婚記念日も破棄する、婚姻関係にある実態を放棄、破棄するのと同じ事だと考えれば見えると思います。せっかく愛を込めて一緒に大事にしようと、生きるべき、するべき事を放棄するとはどんな事意味するのか?
神ご自身をないがしろにしている行為そのものだと気が付けば
ハッと目から鱗が落ちる体験をします。
神の言葉だけにまず戻って考え直す必要があるのです。
神が神の子らを神との独占的な関係の中に結ばれる事に呼び出して下さったのです。だからイスラエルの神に属さない世界の人は
イスラエルの神の婚姻関係にある印の記念日など祝わないのです。シャバットは、神が神の子らにこの世のもの、偶像礼拝、
異教の神々の教え、その他諸々から完全に離れる事を伝えているものでもあるのです。
イエシュアは神の契約=トラー=モーセの五書に記された父の教えを私達のためにお手本として忠実に生きて示し教えられ、
神の教えの中に忠実に生きる事を私達に行動を持って伝えられたのです。信仰とは、イエシュアの契約に対する忠誠心、真摯なる生き方に対する私達が示す信頼の事を言う、イエシュアがされたと同じ様に父の教えに忠実に生きる事、これが聖書で記されている本当の信仰の実態なのです。ローマ3:1-5:21
シャバットは、金の子牛偶像礼拝事件を締めくくる出来事でも
あり、シャバットそのものが神の許しと贖いの恵みと憐れみの
実態、仕組みを表す他に類の無い唯一の実態を表すものだからです。行いにより救いを得ようとする事は命の無い死を生み出す〜
神との関係が正常では無い死んだ状態をもたらすものですが、
シャバットは神の恵みが土台にある贖いである事に人が注意を
向ける様に促しているものなのです。それは私達が神の恵みを
拒絶するならば、それは神が伝える事を無視した生き方、
シャバットを蔑ろにし、放棄する様な行動をしてシャバットを
取り扱うならば、神との正常な関係が本来あるべき姿からズレて壊れてしまう死=セパレーションを意味するものであると神が
伝えているのです。
続く