イエシュアを自分の救い主として認めているクリスチャンの中で創世記に書いてあるイスラエルの神が創造主であり、この世界の全てを創造された事実を信じていないと言う人はまず居ないと思います。
神の創造とそして永遠とは密接に繋がっている事実です。
神は時と場所を創造されました。
創世記2:1-3ヘブル4:1-11にシャバットは神の創造の最終的な
行為であり、シャバットは神の創造の記念碑、不屈の業績、又は境界標とも言えるものです。
人間は神のされた永遠の事実、創造に関して、神が創造された時と場所に関して変更し変化させる力、権威を持っていません。
なぜなら、この世界の全て、時=神の定めた時、記念日を含め
人がそれらを創造したのではなく、神が創造されたからです。
人には神が創造されたものと同じものを創造、生み出す力を持っていません。
神が創造されたものを元に創作する事が出来るだけです。
造ると言うヘブライ語の言葉は、バナと言う言葉ですが、
これは神の創作についてのみ使われる言葉で、人が何かを作る時
に使われる言葉ではありません。神の創造と人の創作の違いを
表している事はヘブライ語で見えます。
創世記 2:1 こうして天と地と、その万象とが完成した。
2:2 神は第七日にその作業を終えられた。
すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。
2:3 神はその第七日を祝福して、これを聖別された。
神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。
もし神が定めた時が変化すると言うなら、それは人の中にある
思想や空想の世界の中での想像に過ぎず、神が造られた世界の
現実、事実ではないのです。
異邦人クリスチャンの世界の学者達の間でもこの”安息”に付いて語られる事は極少です。でもユダヤ人の学者の世界ではそうではありません。なぜなら、聖書に記された教えでは、シャバットは
際立って独特な教えを表し、神の教えの中の中心に位置している概念だからです。
聖書の中で最初から、そして聖書全体を通して神ご自身がこの
”シャバト”と言う、神が聖別した時に関して、これがどれほど
重要なものであるのかを人に伝え教えているものだからです。
人間の側で神が伝える重要な教えをどう認識するのかは、又別問題なのですが、神は人に神の創造された時、特別に定められた時
=聖別された時=日が福音、イエシュアされた業を表している、神の創造された人の生き方とぴったり密接している事を説明しているからです。
神の臨在と人の中に神が住まう事、そして永遠に関してもこの
シャバットの教えの中に凝縮されています。
出エジプト33:13 それで今、わたしがもし、あなたの前に恵みを得ますならば、どうか、あなたの道を示し、あなたをわたしに
知らせ、あなたの前に恵みを得させてください。また、この国民があなたの民であることを覚えてください」。
33:14 主は言われた「わたし自身が一緒に行くであろう。そしてあなたに安息を与えるであろう」。
33:15 モーセは主に言った「もしあなた自身が一緒に行かれないならば、わたしたちをここからのぼらせないでください。
神がイスラエルにカナンの地を与え、所有し、相続し、そして
安息を与えると言う内容は全部同類の性質で表されているものです。生物学、遺伝的にイスラエルと言う民族に生まれない世界中に居る異邦人であり同時にイスラエルの神の契約に加わった人達も、同様に未来の時に同じイスラエルの神の家族の一員として
神の国を所有し治め同じ相続を受け取る事が約束されています。パウロも同じ事を話しています。神の国、同じ契約に加えられた人達は同じ神の国の共同相続人であり、イスラエルの神の家族の1員であると。エペソ2:11−19
出エジプトしたイスラエルの中には、神の声をイスラエルと同じ様に聞いて出エジプトを決意しイスラエルと共に脱出した異邦人達が居たのです。その人達は、イスラエルの12部族の中に加えられ、同様にイスラエルとして数えられていたのです。
同じイスラエルの神の大家族に加えられた人達は神の同じ教え=トラー=婚姻契約を生きる事が聖書の最初から最後まで同じ事が記されています。だから、この様に書いてあるのです。
神の言葉は変化しない!と言う絶対揺るがしてはならない事実だけを土台に聖書を読んでみないとなりません。
出エジプト12:19 七日の間、家にパン種を置いてはならない。
種を入れたものを食べる者は、寄留の他国人であれ、国に生れた者であれ、すべて、イスラエルの会衆から断たれるであろう。
民数記15:15 会衆たる者は、あなたがたも、あなたがたのうちに寄留している他国人も、同一の定めに従わなければならない。
これは、あなたがたが代々ながく=オラム=永遠に守るべき定めである。他国の人も、主の前には、あなたがたと等しくなければならない。
15:16 すなわち、あなたがたも、あなたがたのうちに寄留している他国人も、同一のトラー=教え、同一のおきてに従わなければ
=聞いて生きなくてはならない』」。
神が唯一の創造者であるから、シャバットは創造主であり王の王であるお方、神の権威に対して応答する様に人々に呼びかけて
いるものであるのです。神の言う事を聞いて生きると言う基本中の基本が教えられているのです。
申命記 5:12 安息日=シャバット=第七日目を守ってこれを聖とし、あなたの神、主があなたに命じられたようにせよ。
5:13 六日のあいだ働いて、あなたのすべてのわざをしなければならない。
5:14 七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたも、あなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、牛、ろば、もろもろの家畜も、あなたの門のうちにおる他国の人も同じである。こうしてあなたのしもべ、はしためを、あなたと同じように休ませなければならない。
5:15 あなたはかつてエジプトの地で奴隷であったが、あなたの神、主が強い手と、伸ばした腕とをもって、そこからあなたを
導き出されたことを覚えなければならない。それゆえ、あなたの神、主は安息日を守ることを命じられるのである。
シャバットは”時”として存在して神に造られた人間はその中に生きる様に造られているので、シャバットの時そのものが霊的なものである事が見えるのです。
神が創造された時の中に私達は存在していて、そしてその時の中を生きることが創造主である神の権威に応答している事なのです。
創造と週のシャバットとは切っても切り離す事など出来ない完全に一体として密着した性質で存在するものなのです。
神が造られた”時”の中からシャバットは分離、切り離せないものなので永遠に継続的に持続するものなのです。
神がシャバットに休まれた、止まられたから、人々も同様に
シャバットで止まり、休むと神が言われました。
人ではなく神が人にそう言って教えているのです。
創造と永遠の中にある福音の中にイエシュアそのものを見るのです。
この世界の全てが創造された後、最後に人が創造されて、神と共に全ての創造物が存在し迎え祝った日は第七日目のシャバットで
その日が全てが揃い生きる事を始めた最初の日なのです。シャバットは、神の恵み=人間が努力して得られるものではない全てを与えられており、神の招きで私達は神の安息の中に住まう様に
呼び出され、神により全てを与えられ、支えられている事実を
表すものがシャバットなのです。神が造られたデザイン通りを
生きる、時に関しても神が創造した意図通りを人が生きる。
シャバットは”時”の中に存在するものなので、神の創造された時
そして永遠と繋がっているものなのです。
ヘブル4:1 それだから、神の安息にはいるべき約束が、まだ存続しているにかかわらず、万一にも、はいりそこなう者が、あなたがたの中から出ることがないように、注意しようではないか。
4:2 というのは、彼らと同じく、わたしたちにも福音が伝えられているのである。しかし、その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである。
4:3 ところが、わたしたち信じている者は、安息にはいることができる。それは、「わたしが怒って、彼らをわたしの安息に、
はいらせることはしないと、誓ったように」と言われているとおりである。しかも、みわざは世の初めに、でき上がっていた。
4:4 すなわち、聖書のある箇所で、七日目のことについて、
「神は、七日目にすべてのわざをやめて休まれた」と言われており、
<異邦人の世界で語られる神の言葉を曲げる人口=人の創作した神学や教理を全部削除して、聖書に書いてある通りをそのまま読む聞いてみる事を先ずはしてみるのです。そうしたら何が耳に
響いてくるでしょうか?神は神の言葉を変化させる?神はシャバットを廃止した?何が聖書に書いてありますか?
聖書記者は誰一人シャバット=第七日目が、第一日に変更された
事など考えてもないし、書いてもないのです。その様な事実は
聖書には記されていないからです。変更されたならば、創造の
最初の事実が吹き飛びます。神は時を創造されたからです。>
4:5 またここで、「彼らをわたしの安息に、はいらせることはしない」と言われている。
4:6 そこで、その安息にはいる機会が、人々になお残されているのであり、しかも、初めに福音を伝えられた人々は、不従順の
ゆえに、はいることをしなかったのであるから、
4:7 神は、あらためて、ある日を「きょう」として定め、長く時がたってから、先に引用したとおり、「きょう、み声を聞いたなら、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」とダビデをとおして言われたのである。
4:8 もしヨシュアが彼らを休ませていたとすれば、神はあとになって、ほかの日のことについて語られたはずはない。
4:9 こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。
4:10 なぜなら、神の安息にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだからである。
4:11 したがって、わたしたちは、この安息にはいるように努力しようではないか。そうでないと、同じような不従順の悪例にならって、落ちて行く者が出るかもしれない。
シャバット自体が神の恵みの贖いにより私達の今の安息を教え
語っていて、イエシュアを通して与えられている福音の贖いを思い起こさせるものなのです。
シャバットそのものが私達をイエシュアへ注意を向かせる、
示唆しているそのものなのです。
そしてシャバットは、イエシュアの復活の力を信じる信仰を通して私達が神の臨在の中に永遠に住まう未来の安息を思い起こさせるものなのです。
それは、神の永遠の約束された保証されている私達の未来の状態神の臨在の中に永遠に住まう時が来る事を信仰により希望を失わず、しっかり油断せず固く立ち生きる事を思い出させるものでもあります。
神に取って大事である、人にとって重要である神が伝えるシャバットであるのに、異邦人クリスチャンの世界の広範囲に渡る一般的な聖書辞典の中にほぼ”シャバット、安息”に関する内容が記されていないのです。だから当然のことながら、シャバットに関して教えられる事も実践されることも全く無いのです。
続く