人が神の教えを誤解している | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

異邦人の世界の教えでは、モーセの五書にある特定の教えだけを

取り出して、これは今も有効、これは今は無効と勝手に決めているのが実情です。

 

神が完全であり、神の言葉は神ご自身であり、神の言葉も完全であり変化がない、人を生かす神の言葉と神が人に伝えながら、

どうして人間の側で神の言葉はある時期までは不完全な教えなので、これこれは要りません、これは不必要、これは縛りだから

受け入れません、これは今では恵みのない生き方になる、これは良い、あれは必要などと勝手に神に対して物申す的な行為をしても何も感じない、考えない、神に対しての冒涜的行為である事に気が付かない事の方が重大な問題だと思うのです。

 

そして、福音書以降、イエシュアが教えられていた教えは

100%モーセの五書。だから今トラー=モーセを信じられないならその人に何を言っても通じないから無駄!と言われたイエシュアの言葉でも明らかです。

 

ルカ16:31 アブラハムは言った、『もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう』」。

 

当時の人は、トラーが否定される教えを救い主がする、トラー

父の言葉=永遠不変の婚姻契約破棄するために救い主が地上に

来られるなどと言う異邦人が考え出した様な思想を持つ人など

誰一人いなかったのです。

 

昇天以降、使徒以降、パウロの書簡でも解説されている内容は

トラーに書かれた教えの適用がズレていたり、神の言葉を元々

正しく理解して生きていない人達がいたので、それぞれの群れの中で意見が分かれて、余計な争いや誤解が生じていたその事に

関しての解決策、又は正しいトラーの教えの解説をパウロがしているだけなのです。

神の言葉が廃れたと言う教えから、福音書以降を読んでいるの

ので、真実に幕がかかったまま何が書かれているのか見えないの

だと思います。

人間が神の言葉を否定する冒涜、いや死に値する罪を犯して神に挑戦=バベルの塔の性質の出来事や、又エデンの園での神の言葉を曲げて否定する様な事をやって良いなどと言う事は聖書には

書かれてなどいないのです。人間が書いた書物でも勝手に誰かが書き換えて、出版し直して良いのでしょうか?そんな事あり得ないのです。

1世紀後半以降、ローマ帝国がヘブライ的要素が濃い教えを全て排除した理由は、ローマ帝国の一般大衆には馴染みの無い教えであり、帝国を統治するために新しい宗教を作って大衆に広い支持を得る必要があり、当時の一般大衆に異物な教え、馴染みのない受け入れる事が難しい数々の教えを全部一掃する必要があったのです。だから自分達の宗教文化、国の文化にある教えに変化させて新宗教=西洋宗教を創作してしまったのです。

 

全て自分の都合だと思います。自分に馴染みのない教えはどうしても異物、違和感、受け入れがたいと思うのが元々の肉の目から

みる人間の反応だからです。

 

様々な国に行くと、その国の文化では普通の事だけれど、日本人

から見たら違和感ある行動、又その逆もたくさんあるのです。

何を基準にして相手の行動を判定しているのでしょう?それは

自分の中にある、人はこの様に行動するべし=自分の文化生活

習慣の中で培った事を土台に全てを考えているから、それとは

違う行動が異物、変、奇妙に見えたりしているだけなのです。

 

簡単な所では、西洋人はバスタブ=風呂桶の中に水を溜めてその中でシャンプーしたり体を洗ったりしますが、日本のお風呂は

風呂桶の外で体を洗って中に入ると言うスタイルです。そもそも

海外のお風呂はバスタブの外で洗う場所などなく、バスタブ=

風呂桶しかないのです。そして日本人なら靴を脱いで家に入りますが、海外では靴のまま直接部屋に入るのです。土足のまま、

家の中に入り、リビングや寝室まで入るので、日本人なら違和感ありますよね。生活習慣の違いです。

 

神の国の生活習慣、文化もそれと同じなのです。単純にそれらは異教神の異教徒の国々で先祖代々育った自分には全く馴染みがないイスラエルの神の教え、だから自分の生活習慣とは異なるから都合が悪い、受け入れたくない=それらは呪いの縛りの律法だと考えてしまうのです。神は人がどう生きる様に創造したのか、

人の生きる全ての領域に於いて神が人に教えているのです。結局神の言葉を判定している基準は、自分の好み、自分に馴染む生活習慣に反している事は一切拒絶したい、自分の都合が第一で大事だと言う証でもあるのだと思います。

 

創造主がご自分の性質に造られた人間の生きる全てに対して、

生きる上でのどの部分でも欠如して、全部を教えないなどあり得ない事です。

そして、永遠から永遠に存在し最初から神だけがこの世界の全てを造ったと認めるならば、そのお方がご自分の造られた人間どう生きるのか?と伝えることの出来る唯一の存在である事は容易に理解出来るのです。

 

でも異邦人に取っては、使徒15章の異邦人イエシュア信者と

同じく、イエシュアを信じても、神が人にどの様に生きるのか?

と言う事を神の言葉から学び実際に実践すると言う事が異教徒文化の育ちの中では全く経験が無い。イスラエルの神の言葉は教えられないままなので、神の言葉教えを実際に生きると言う事が

欠如したまま、人の教え=宗教が作った教えを生きてしまうのだと思います。繁栄の神学、成功の神学などを聞いたら、神の教えを知っているなら、それらはニューエイジ、他の異教の神々の

宗教の教えと全く同じだと直ぐに理解出来ないとならないのに、救い主を信じながらその様な異教徒思想を取り込み人に教え、

搾取する様な行為をする、神の教えを理解しないとは、その様な教えを次から次へ編み出して行き、同時に偽物の教えに騙されて引っ張られてしまう事にも繋がって行くのです。

 

創世記の最初に記されている、創造の業が完了した時、第七日目

を聖別されたと書かれています。聖別された日は第七日目であり最初からシャバットが人のために設けられていた事が記されています。そしてエデンの園の中で最初の教え、インストラクションが記されているのは、食べる事!でした。

人は神の口から出る1つ1つの言葉により生きるとある通り、

最初から人の成り立ち、デザインは神の教え=トラーにより

生きる様に造られているからです。それは永遠の中から、教えの

内容、性質は変化などしていないのです。

それが命の木と知識の木で表されているのですが、人が何を食べて何を食べない様に造られていると言うのは後々記されているだけで、全ては口頭で最初から伝えられていた同じ教え同じ福音なのです。

 

なぜなら神は創造の中、6日の間で人の生きる全ての必要なもの

をこの地上の上に造られて、何も欠ける事が無い状態=完成した

状態が地上に現れたからです。だからシャバット=止まったと

記されています。必要なものが欠けていたら継続して創造し続けないとならないからです。

永遠の中に神が既に用意されていた!この世界の礎が造られる前

から神はプランし選び出したとあるからです。

エデンの園を飛び出した後、創造物が付け足しで造られたのではないからです。

 

レビ記の中には、聖別に関して詳しく記されています。

1〜22章までが、”場所”に関してです。

場所=神の宮、その中に入る時の状態がどんなものでなければ

ならないかが書いてあります。場所=神の宮=人=場所です。

古代の人は場所=神と言うコンセプトを知っていたのです。

ハ マコム=神、神の臨在がある場所、人=神の臨在が内側に住まう場所です。

これはレビ記に記された内容を書いてある通りに学べば驚くばかりの事が記されている事を発見します。イエシュアそのもの、

イエシュアに贖われた人々の生き方が書いてある事、神の子らの

状態、生き方の全て。

神の前にどう近づくのか、どの様な意識で近づくのか?どの様に修復するのか?その前提は、イエシュアの血で新しくされた人である事が記されているのです。11章には聖別された人は、神が創造した聖別された動物を食すると書かれています。神は人が

食べる動物、人が食べてはならない清掃目的で造られた全ての

動物の規定詳細を教えています。

神の宮の祭壇=テーブルの上に捧げられ共に食し祝う事の出来る

動物はきよい動物だけです。これは永遠に変わらないのです。

神の宮の祭壇を汚すこと=汚れた動物を捧げることです。

神の宮の中に汚れた動物を取り込めない、神の宮である人は

神が伝える汚れた動物を取り込む様に造られていない。シンプルな事実が記されています。そしてそれを理解すると聖別の深い

意味がどんどん見え来る、害毒から守られる知恵を与えられるのです。

イエシュアが再び来られる時も、祭壇で祭りの時に捧げられる

動物はきよい動物のみです。

そして、どの様な婚姻関係を結んではならないか?も記されています。人がどんな事をしてはいけないか、聖別を破る行為が

記されています。

そして23章以降には、”時”に関しての聖別が記されているのです。それは福音書以降、昇天以降も全く変わっていません。

70AD以降、神殿がローマ帝国により崩壊され、神殿で捧げ物が出来ない状態が続いています。神殿の祭壇以外で動物を捧げる

事が出来ないからです。神の教えが変わったのではないのです。

聖別に関しての教えは、神の教えを理解しないと見えない領域です。一般の人が知る道徳的観念とは全く違う領域だからです。

 

聖別の基本は食べる事、エデンの園で教えられた事と同じです。

人は神の口から出る1つ1つの言葉により生きる。神の伝えた

通りを生きる、創造主である神が人はどう生きる様に造られたか

伝えていると言う至極シンプルな事実なのです。

なんでもかんでも内側に取り込むなら、人は破壊されてしまう

からです。その事を食べ物を通しても教えているのです。

神に造られた神の性質通りの人はこれこれをして、これこれを

する様には造られていない。それが10の言葉の神の教えの

項目で記されているものなのです。

 

食べ物を肉体的に口から取り入れる事と、外の環境を頭脳に五感を通して取り込む事、特に目、耳を通して入る様々な思想や、

異物、人が内側に取り入れて溜め込み温め続けてはならない毒がある、それを食べる事でも教えているのです。

 

人が取り入れてはならないものは何かを、実際に口から入るもの

でも教えているのです。日々繰り返し行う中で、常に神の言葉に対する意識が出てきます。人はこれこれをして、これこれをしない、道路にある信号機みたいに見ただけで反応する。食べ物を

見て聖別された人の生き方に意識が行くのです。神は実に賢い

教育ツールを与えている事に気が付いて行きます。

 

元々人間が食するために造られた動物ではないものは、人間が

取り入れる様に出来ていない、それらを食べる様に人も造られていない事実があります。それらの動物を調べてみると、2度と

食べたいなどと考えなくなる代物です。

毒を食べる、溜め込む動物=きよく無い動物、汚れた動物として

神が造られた清掃動物を人は食べる様に造られていないと言う事を通して教えているのです。それは単なる寓話ではなく実際に

人間の体が取り入れる様に造られているものでは無い、そして

それらの動物自体も、人に屠殺されたら苦しむ構造に創造されている、だから人がそれらの動物を屠殺して苦しめてはならないのです。

 

 

続く