神が人のために全世界を創造されたから神だけが全てを人に伝える事が出来る | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

イスラエルで、又は諸外国に住んだとしてもユダヤ人でユダヤ人の家庭で育ちヘブライ語聖書で教育を受け、そしてタナックに

記されたイエシュアを信じる人達は、タナック=モーセの五書、預言書、諸書を知れば知るほど学べば学ぶほど、福音書以降に

記されているイエシュアに関して、又神が伝える義、救い、贖い、完了の業、聖別、神の子らがどんな生き方を神から教えられているのが深く深く理解出来てくると言います。

 

異邦人の世界の教えはこれとは逆で、福音書以降を読めば最初の聖書の70%が理解出来てくると解説します。

イスラエルの仲間達、群れの友人達、教師達の近所の友人であり親しい親友でもあった、デビッド スターン博士が残念ながら

去年の10月にお亡くなりになり、皆悲しみの中喪に服しました。The Complete Jewish BIbleを出版された事で知られる

学者ですが、福音書以降もギリシャ語を本来のヘブライ語の意味通りに置き換えるなどされた翻訳をされました。

スターン博士は、生前異邦人のクリスチャン達がトラーに関しての正しい理解に目覚める事の必要性を語っていました。

”異邦人クリスチャン達が特にトラー=モーセの五書に対しての

考え、取り扱いに関して遠く道を外して正道から逸れてしまった事、トラーに関しての概念を正しく捉える緊急の課題がある”と

仰られていました。

 

神が伝える事=神の教え、インストラクションは神が創造された人間の性質、成り立ち、生き方を教えているものです。

日本国と言う国に憲法がなければ、人の権利、命、自由が保護されなくなってしまいます。その憲法は人が生きる領域のすべてを網羅する完全版でなければなりません。神の国にも、神の国を

神の性質通りに治め、その中に生きる人達=神に呼び出された人達は神の伝える神の性質通りに造られた人の本来の姿を生きる事、それが神の言葉で伝えられているトラー=インストラクション、教えでありモーセの五書として記されているものなのです。

いわば、神の国の”憲法”です。

福音書以降に書かれた内容も100%モーセの五書それに付随する預言書、諸書の抜粋であり、他の別の新しい教えなど記されてなどいません。昇天以降神が神の子らにモーセの五書に記された父の言葉、教え以外の教えを生きる時代に移行したなどとも書かれていない、モーセの五書と違う教えは聖書のどの箇所にも

記されていないと言う神の伝える永遠の事実だけに立って考えないと、聖書を正しく捉えて理解する事など出来なくなってしまうのです。

神が伝える通り神の言葉を捨てる無視する行為は、迷い出ると

あります。そして人が生きる上での不具合が生じるとも考えないで神の教えの数々からは一抜けた〜の世界に突入してしまうのです。

そして新しい教え=異邦人が編み出した宗教の教えの方が楽に

聞こえるのです。なぜか?

なんでも自由と言う言葉を聞けば束縛感がないからです。

神が見ている、伝えている通りが見えない、肉の耳、目で人の

教えを聞いているからです。

なんでも許される、なんでも自分で選ぶ、自由な恵の世界が到来した〜と言う教え。そして、異邦人には馴染みの無い異物感を

感じる教え、神の教える意図を理解しない場合には意味不明に

聞こえる教えがあるからです。

今は恵みの時とパウロが言った意味は、昇天以降恵みの時代が

初めて始まったと言っているのではなく、誰でもイエシュアを

通して新しい人とされた事実を受け取った時から、その人は神の恵みで与えられた実態を生きる事が出来る。恵みとは受け取るのに何も値していない、何もしていないのに、神の側から一方的に

無償で与えられて受け取ると言う意味が恵みの意味なのです。

だから、イエシュアを通して神に再び繋がれた人に取っては

信仰により義とされた時から神の恵み=義とされ新しい人とされた事実を生きる事が始まったとパウロが言っているのです。

 

その様な箇所を読み、呪いの時代=怒りの神、恵みの時代=

恵みの神、イエシュアの犠牲の贖いで罪が許されたので怒りの神

の人格が変身したからなどと言う人の思想を教えられてしまい

恵みの時代はイコール、古い呪いの縛りの教えである律法は

廃れたから古い律法に戻るなかれと教えられてしまうのです。

では、人の生きる全貌が書かれている神の教えの書、トラーを

捨てたら、救われた人は一体何をどう生きるのか何により知る事が出来るのでしょうか?

もしトラーを捨てたら義、聖別、愛、恵み、憐れみ、許し

寛容、親切、善意、柔和、自制etc etc とパウロがトラーに記されたそれらの生き方の全貌を短い言葉で表しているだけなのに、

それが何なのか詳細は見えなくなってしまうのです。

神の伝える人間の生き方は難しいことではないと最初から申命記の中で神が神の口から語られた言葉がそのまま記されています。

 

なぜ神の教えを生きる事は難しくないと神が言われているのか、それはそこに書かれた生き方が神が造られた人間本来の性質だから、それらが人の成り立ち=DNA=腹に刻まれた生き方=つまり良心と言う言葉でも表されている、人間本来の性質、だから人はそれらを生きるのが本来の願いであり性質であるからです。

だから神に造られた神の性質通りを生きる事、それが人の本来の姿なのでズレた場合、元の性質=それに戻りたいと願うのだです。

だから人がズレた事をした時に、嫌な気持ちになる、自己嫌悪に陥る、後悔する、悲しくなる、悔やむやり直したい、相手と和解したい、仲直りしたい思う、そう言う想いを抱くのです。

罪の法則=トラーに書かれた罪の性質に縛られて引っ張られて

しまうから、本来の自分の性質とは違う罪の罠が挑んでくるのです。

クリスチャンの世界の教えは、神が定義する罪の詳細が消えれば

何しても罪にならないから、律法が消える事が正義と言うのですが、何が罪であるかたとえ人が知らなくても、神の中では罪=ズレ=神のデザイン性質とは違う詳細は永遠に同じ変わらなく存在します。

交通違反なくすために、交通ルール撤廃しよう!と言っている

神の教えは終わり!罪が罪と認められないためにと言っているの

と全く同じです。

人間本来の性質が神の性質に造られていなければ、ズレた事を

するのが本来の性質ならば、ズレても何も感じないはずです。

でも人として、それらが本質に合わない生き方、行動、態度を

するから、理屈抜きに違和感を感じる、それが世間で言う良心と言うもので表されるものです。

そして異邦人クリスチャンの教えが主張する様に、神の言葉は

どの部分も変化などしませんし、していませんし、これからも

変化しません。神の言葉が変化すると言うのは神学トリック、

神の言葉の永遠不変性絶対性を見えなくさせている障害物の教えなのです。

一方、道徳心とは全く関係の無い世界があるのです。

それらは、神の言葉を知らなければ全く無感覚の内容であるからです。しかもそれらを通して、神が聖別の中心を教えているのです。だから最初に命の木と知識の木に関して記されています。

もし、神の言葉=トラー=モーセの五書が変化したと言うなら、それは神が伝えた愛の定義、義の定義、罪の定義、聖別の定義

人の生き方の詳細、内容が変わったと主張している事です。

 

道徳的な教えは創造主を知らない、聖書を読まない普通の人、又は異教徒でも理解出来る内容ですが、神が伝える神の子らの生き方の全貌=聖別は神の教えを理解しない場合には全く見えない世界です。単純な内容ですが、意味が分からないのです。

それはエペソ2章にある通り、異邦人は幼い頃からトラーに親しみ教育されたことがない、異教の神々の異教の国住んで異教徒文化にどっぷり根付き、異教徒達の生活習慣の中で生きて来た異邦人だからです。

聖人、聖なる、”わたしが聖であるからあなたも聖でありなさい”と神が言われた意味は、トラーを知らないなら見えない領域なのです。聖別の定義は永遠に変わりません。

聖別とは、神の目的通り、神がデザインした通り、神の上に

取り分けられ、この世、異教の神々に属する人とは境界線が

敷かれて生きる事を表す言葉が聖別なのです。

人が勝手に思いついて考え出した聖別と神が伝える聖別とは全く違います。神の伝える聖別を無視した人の定義する聖別では神の前に何も意味がない、神が伝える通りを人が聞いて理解しないと見えない世界があるのです。

聖別を教えるものはどんなものがあるのか?それが聖書に記されていて変化しない神の定義する聖別です。その代表は神の記念日です。最初の最初から記された神が創造の業を6日の間で終わって止まられたのでその日を聖別されたと書いてあります。

聖別と言う言葉を最初に神が使われたのはシャバットと言う時に

関してです。その意味は永遠に変わらないのです。

そして、10の言葉にある通り、シャバット=第七日目=神が

止まったので人も神と同じ様に止まってその日を祝う、それが

神の聖別された日であり、神の記念日はシャバット中心でそれ

以外の記念日、新月、春と秋の祭りがレビ記23章に記されているのです。それらが神の定めた神の子らが全員神の前に出て祝う日であり、それらが聖別を生きて表す、世界へイエシュアを伝えるものでもあるのです。トラーの中身を学べば、古代の人達は

神の宮=移動式神殿を通してイエシュアそのものを教えられ、

イエシュアが人の中に住まうこと、神の子らの性質を生きる事は神の家の様々な儀式を通して教えられていた。神が伝えている

生き方を学んでいた。それらがモーセの五書に記されているのです。特にレビ記を読むと神との関わり、イエシュアの贖いの行の意味が深く記されて教えられている事を発見するのです。

 

言葉=イエシュアが人の間に住まう=ミシュカン=宮=肉体を

取ったイエシュア、すべて同一の実態を話しているのです。

救い主が地上にまだ来られる前でも、このミシュカン=宮=イエシュアを神の教えから理解していた人達は、宮=イエシュアそのものである事、イエシュア=神が人の中に住まう事をミシュカンを通して教えられていたのです。

それを理解していたかしていないかは、神の言葉を聞いて理解していたかいないかの個人個人の理解の違いだけであり、イエシュアの実態は最初から目に見える形で手に触れて体験出来る形で

同じ福音が教えられていたことがトラーに記されているのです。

 

聖別と言うと人の生きられない様な領域の事を話していると考えてしまいますが、普通の事です。食べる事、飲む事、新月、

シャバット人の生きる普通の事を通して、何をしていても神の

栄光を表しなさいとあります。栄光=神の実態を地上で生きて

表す唯一の方法は、神の言われた通りをする事、それが栄光を

地に表す事の出来る唯一の方法だからです。曇った鏡に神の教えと違う、別の顔=実態を映し出したらそれは神の栄光を正確に

映し出す役割をしていないことになります。自分勝手にやる事

伝える事、それであっては神が伝える通りを正確に人に伝え、

同時に生きて表す事にはならないからです。

 

食べ物、飲みもの、日々の生き方を通して、何をしていて神は

聖別された人の生き方をしなさいと人に教えています。

 

この点が異邦人に取っては、なかなか理解出来ない領域だと思います。自分達に馴染みの無い生き方は理解不能だからです。

 

続く