神の教えに抵抗を感じる理由は何から来るのか? | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

異邦人クリスチャンの世界で語られている、聖書の事実、記述とは異なる様々な都市伝説的な聖書の解釈、偏見が数々あります。

ペテロに関しても、パウロに関しても、クリスチャンの世界で

語られる彼ら異邦人が考え出したイメージを刷り込まれて語られてしまっています。

 

ペテロはおちゃらけた弟子でおっちょこちょいと表現されていますが、ペテロは12弟子の中でリーダーであった存在なのです。

תלמיד חכם タミッド ハハム =賢人の弟子、生徒と言う意味

で呼ばれる生徒です。だからイエシュアはいつもペテロに向かって質問を投げかけて、ペテロに最初に答えさせていたのです。

それがタミッド ハハムの役割だからです。グループの中で一番トラーを理解していた存在であったからでしょう。その様な

下知識が無いなら、ペテロは思慮深くなく、でしゃばりで慌て者いつも先走って答えている、行動しているなどと考えてしまうのです。そしてパウロは、モーセの五書とは違う教え、トラーを

否定し違う教えをしていると異邦人クリスチャンは言いますが、

そんな事は天地がひっくり返っても永久にあり得ません。

 

モーセの五書=父の教えとは違う新しい教えをパウロが書いたとしたら、パウロの書簡は聖書ではなくなってしまうと言うことを意味している事に気が付いていますか?

そして別の新しい契約書があるなら、聖書が丸ごと書き換えられなくてはならなくなります。そしてモーセの五書とは違う教え

契約書などこの世界のどこにも書物として存在もしていません。

 

福音書以降が新しい契約?その中に書かれている内容は100%

モーセの五書の内容にマッチして、しかも福音書以降には神の教えの詳細全貌などは事細かに記されていない、抜粋的としてしか神の教えは記されていないものなのです。

福音書以降には、タナックに記された言葉=トラーが肉体を取って地上に来られた方の地上での記録であり、使徒は神の言葉=

トラーが世界へエルサレムから出て伝えられる記述であり、

パウロの書簡は諸外国に居るイエシュア信者達=主にユダヤ人が主流である異邦人も少数混じったグループへトラーが教えられた内容であり、黙示録は最後は1つの家族、エデンの生き方に戻る事、エデンから出てエデンに戻る完結編でしかないのです

トラー=父の教え、インストラクションとは異なる新しい教えなど聖書のどの箇所にも1つも書かれなどいません。

 

パウロがもし神の教え=トラー=父の教え=モーセの五書=シナイ山で与えられた契約書に書かれた生き方をどの箇所でも否定するならば、パウロは神から送られた働き手、世界へトラーを教える役割であるトラー教師でもなく、聖書を記す人としても選ばれる事など無いのです。全ての聖書記者は100%モーセの五書

に忠実に記し、トラーを支持し、信頼し、そこに書かれた内容を語っているからです。

聖書は全て100%モーセの五書を土台に記されていて、

モーセの五書とは違う教えなど記されなどいないのです。

福音書〜黙示録の記者は100%タナックしか存在せず、

タナックを指して全て書いてるのに、神の言葉=父の言葉=

イエシュアを否定する教えが出たとしたら、それは聖書ではなくて別の宗教=人間の教えなのです。

 

異邦人クリスチャンの世界では、福音書以降を読んで初めて、

創世記〜マラキ書が理解出来ると教えますが、全く逆なのです。

1世紀の時代には福音書〜黙示録は完成されておらず、一般大衆

に知られてもない、読まれてなどもなく、聖書であるとも認められていなかったのです。聖書に登場する人達、福音書〜黙示録を記した人達全て100%モーセの五書、預言書、諸書のみだけを考え書いている事実にはっきり目覚めれば事実が見えます。

 

使徒17:1 一行は、アムピポリスとアポロニヤとをとおって、

テサロニケに行った。ここにはユダヤ人の会堂があった。

17:2 パウロは例によって、その会堂にはいって行って、

三つの安息日にわたり聖書に基いて彼らと論じ、

17:10 そこで、兄弟たちはただちに、パウロとシラスとを、

夜の間にベレヤへ送り出した。ふたりはベレヤに到着すると、

ユダヤ人の会堂に行った。

17:11 ここにいるユダヤ人はテサロニケの者たちよりも素直で

あって、心から教を受けいれ、果してそのとおりかどうかを

知ろうとして、日々聖書を調べていた。

17:17 そこで彼は、会堂ではユダヤ人や信心深い人たちと論じ、広場では毎日そこで出会う人々を相手に論じた。
 
ここに書いてある事を読んで、パウロは西洋宗教=カトリック=
の教え=モーセの五書が破棄されたと言う人の教え、宗教を信じる人達のグループ=異邦人教会なる場所で教えていたのでは
ありません。パウロはギリシャ、テサロニケにある、ユダヤ人の
会堂=そこはモーセの五書が学ばれる場所なのです。
安息日=シャバット=第七日目に聖書=タナック=トラー、
預言書、諸書に書いてある事に基づいてその会堂に集う人々
主にユダヤ人達と語ったと書いてあるのです。

 

私は以前この様な箇所を、聖書=福音書以降、会堂=キリスト教と言う別の教え、新しい教えを教える人達が集まる場所で、

安息日=日曜日に集まっていたなどと読み違えていました。

 

11節にある、日々聖書を調べていたとある内容も、聖書とは

福音書以降の事を話しているのではなくモーセの五書、預言書、諸書のみである事実だけに立って聖書に書いてある意味通りを

正しく読み直さないとならない箇所でもあります。

彼ら当時1世紀の人達は、イエシュアに関して知ろうと思う場合全ての人は福音書以降ではなく、タナック=モーセの五書、預言書、諸書のみだけを熱心に読み調べていたのです。そこにはイエシュアが至る所に様々な内容を通して書かれているからです。

 

教科書が手元にあって、それに基づいて語る時、その教科書を

指して語っていたら、そこに書いてある事以外の違う別の教え

など語らないのです。それと同じです。彼らは100%タナックを指してのみ語っている!と言う永遠の事実に気が付いて聖書を読み直す必要があるのです。

1世紀当時、福音書〜黙示録と言う聖書の最初の70%とより

優れた教えが書かれている書がまだ存在してなかったのだなどと考えていたら、永遠不変の神の言葉の真実は見えません。

神の言葉は完全であり、どこも手直しする必要など無いからです。福音書〜黙示録は最初の70%を説明する短い解説、短い

注解書なのです。何も新しい教えなどイエシュアが来られた事で出現などしていないからです。イエシュアが正されていた内容は

モーセの五書=父の教えを意図通りに理解していない事に関して

正しく教え=成就する、違っている解釈=神の言葉を破棄している内容を、正して、神の意図通りの意味、生き方を解説しているだけだからです。

そして神の言葉のどの一点一画も変わってない、廃れない、終了せず永遠に堅く立つと神が言われる通りを神の言葉から聞けば

ああそうなんですね!と受け取り信じ生きれば良いだけの事なのですが、異邦人の世界では神の言葉に対して多大に誤解してしまっているので、違う教えに変形し曲げて聖書とは違う解説をし続けてしまっているのです。

 

聖書で聖書はと言う言葉があったら、100%それはタナック=

トラー、預言書、諸書のみを指して語っている事実に立って考えれば見えてきます。下矢印

2テモテ3:15 また幼い時から聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている。

 

幼い頃から聖書=モーセの五書、預言書、諸書に親しんでいる

ユダヤ人達です。異邦人はタナックに親しんで成長する様な

家庭環境が無いからです。

タナック=聖書=モーセの五書、預言書、諸書は、キリストに

対する信仰によって救いを得る知恵をあなた方に与える書物で

ある!と書いてあるでしょう。

それら=神の言葉のどの部分でも捨てたら、キリストに対する

信仰=イエシュアに関する全ての全貌が見えなくなりますと言うことなのです。

太古1世紀の人達はタナックのみがテキストで、そこに書いて

ある内容から救い主に関して、贖いに関して、イスラエルの神に関して人の生きる全てに関してを学び知って生きていたのです。

 

3:16 聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。

3:17 それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。

 

タナック、トラー、預言書、諸書は霊感により書かれたもので

あるから、人を教え、戒め、正しくし、義に導く役割をして有益であり人をと完全に整えられた成人と成長させると書いてあるのに、古い神の教えは無効!と言う異邦人の教え、解説はここに

書いてある事とは全く真逆で異なる、神の教えに逆らう事を教える有害であり無益な教えであると分かると思います。

 

人の教えと、聖書に記されている神の伝える教えの違いにはっきり気が付いて何が聖書に記された事実ではない危険因子な教えなのかに気が付けば安全に守られ、大事なもの=神の教えを捨てる様な愚かな行為から守られるのです。

だから聖書に何が書かれているのか!を本当に知らなくてはならないのです。異邦人の世界で聞かれるのは人が編み出した宗教の教え神学や教理を通して神の言葉を屈折させ、捻じ曲げ、否定し、削除し、聖書に書かれていない教えを人間の教えで塗り替えて解説しているのです。それに気がつくには同じく聖書に何が

書いてあり何が書いてないのかはっきり知る事です。

 

もし神の教えとはずれた思想や人間の考え出した教理を伝えるなら、それは神の伝える言葉=教えを正確に人々に伝えている事

ではなくなってしまい、別の思想=宗教を伝えている行為に

なってしまいます。

宗教〜神の教えの中に、神の教えとは違う人間の思想、考えを

混ぜたもの、それが宗教です。神の言葉は宗教ではなく、純粋に神の思索から出た人間が生きる上で必要な全ての教え、だから

人は神の口から出た1つ1つの言葉=トラーにより生きると

神が伝えているのです。人は人が作った宗教の教えにより生きると神は伝えていないのです。

 

書かれている内容の全部分からなくても神が伝える大前提=神の性質は変化しない、神=言葉であるから神の言葉も変化しないと神が伝えている通りを本当に信じる初歩からスタートしなくてはならないのです。

前提が狂えばその後の全てを掛け違えて行くからです。ある部分は神の言葉の真実、ある部分は人の教えは成り立たない。

真実と嘘は接点が無く繋がらないからです。

 

真実と真実の点と点=神の言葉の事実だけを繋げていけば

全体像がはっきり見えてきます。

それはパウロの証言、パウロが解説しているトラーの適用を

正しく読み取るだけでも理解出来る事実なのです。詰まり、

異邦人の世界では聖書を正しく読んでいない!神が伝えている

永遠不変である神の性質、言葉と言う事を無視した教えが西洋宗教の神学教理になってしまっていて、聖書ではない内容を教え、

他者へ伝えてしまっているからなのです。

 

 

続く