世界の中に神の永遠の真実が浸透して行くまで | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

神の言葉が単に口頭、口先だけではなく、文字に記されて書かれて人に与えられた理由は、永久に神が神の言葉を正確に完全に保存保証している事を人類に永遠の証拠として与えているからです。2つの板=神の言葉が書かれた板は、神と人へ、両者の前に

証拠!であるものです。神の側では神の契約は破らないけれど、

人は神が伝えた生き方を捨ててズレる、ズレた、ズレている、

その可能性はいつもあるのです。

 

悔い改めとは、本来の姿=神が伝える本物の生き方に戻る、軌道修正の事です。自分の中にある、自分定義の悔い改め=軌道修正は何も意味がないものです。的に当たらない、自分の目には正しいけれど、的=神のトラー=教えが何を教えているのか知らなければ、的を外しててもそれが良いことに見えてしまうのです。

 

神の教えはするしない掟リストなどではないです。神の教えは

人が神にどう造られ、どんな性質に造られ、どんな風に神と他者と生きるのか、神が伝える人の本来の自己像とは何か?それが

全て書かれたものがトラーなのです。神の教えを捨てたら、自分が誰か分からない、人と神との関係を神のデザインした通りに生きる事がよく分からない、神が伝える義、神が伝える聖別が分からない、神にどう近づくのか、神が何を忌み嫌うと言われているのかそれさえも分からないまま、神の最も忌み嫌うことを良いことだと考えて知らない間に生きてしまうことになるのです。

 

そして人が一字一句正確に記されたヘブライの書を読み、学び、そこに書いてある教えは、イコール命そのもの、人の生き方そのものである事を知るために与えられているものです。

 

イエシュアは言葉=トラーであると書かれています。人の内側に住まうイエシュアの詳細は、文字で記されたトラーなのです。

自分の内側に住まうイエシュアが、文字で書かれたイエシュア=トラーに敵対する?それではその国は立ち行かないとイエシュアが言われた事が起きるのです。内部紛争、分裂、矛盾が起きる。

神の言葉の一点1画でも人は手をつけて改ざんしたり変更したり

付け足し差し引きする事は許されていません。人がたとえ神の言葉を人間が編み出した神学で塗り替えようとも、神の側では神の

言葉は永遠に真実で変化しないのです。神の言葉を捨てる様に推奨されてそれを行う場合には、神が伝える真実を人が知る事が出来なくなってしまうと言う事が起きるのです。大体神の言葉に対して、律法=呪い=廃れた=終了などと言う意識を刷り込まれている事自体が神との関係がずれた場所に移動してしまう原因になるのです。

人間の公的文書がありますが、法的にすごい効力があるものです。まあそれを無視する人もいますし、裁判されても何も動かないと言うのもありますが、一応法的には効力があるものです。

ましてや天と地を証人にし結ばれた契約書=神が記されたものは

永遠に固く確立され、人間が破壊する事など不可能な性質のものなのです。

私達が誰からか口先だけの約束をされても、その事が実現される証拠は無いので、不確かなのです。言われた言った、聞いただけでは何も確たる証拠が無い。古代中近東の様々な契約を学ぶと

申命記は"宗主国・家臣条約"と全く同じ形態で書かれたものです。人が認めても認めなくても、神が人との関係に入った約束としての証拠はトラー=モーセの五書以外にはありません。あなたが救い主を通して神と繋がれている証拠は何に根拠があると考えていますか?神は契約に基づき関係を結ぶ、生きることを神が

教えているのです。神との関係のある証拠は、トラー以外に無いのです。トラー=聖霊により記された神の言葉。新約聖書?それはトラー、預言書、諸書の最後の短いナレーションなのです。

そこには罪の詳細の全ても、神が伝える教えの全ても全部は書かれていないのです。なぜ?それは聖書の最初に全部必要な事が事細かに記されてあるから、繰り返し書いてないのです。

 

トラーの中に、創造主であるお方が創造された人間〜神の似姿に造られた人達が、どう生きるのかに必要な情報、教えの詳細が記されているのです。

色々な事を学んで行くと見えてくる事があります。

ユダヤ人の世界の中にあるトラーに関する誤解もある、そして

異邦人の中にあるトラーに関しての誤解がある、どうしてその様な事が起きたのか、歴史の事実の中から情報を探ると隠されていたものが表面に出てきて全体像が見えてきます。

 

ざっと短く言うと、ユダヤ人は異邦人が考える様な思考回路で

神の言葉と向き合っていないのです。異邦人がよく律法に戻るのか〜律法主義だ〜と言いますが彼らの中にはその様な思想は、

最初から無いのです

それは、彼らは選びの民であると確信があるので、神の救いを自分の行いの努力で得なくてはならないと言う意識、異邦人が発想する様な思想が元々無いからなのです。

 

でも神を愛し尊重し敬うから神の言葉を熱心に生きようと言う

動機は何も間違ったものでは無いのです。そしてユダヤ人の中では異邦人クリスチャンの世界が語る様な思想哲学うんちくではなく、番重要であると彼らが考えている事は、常に”神の言葉で伝えられている事を実際に日常生活でどう生きるのか?”が最大の関心事、焦点なのです。行動〜ハラハ、いかに歩むか?です。

これは、もう1つの大きな問題点、課題があるのですが、それを言及するにはたくさんの解説が必要なので、今は省きます。

簡単に言うと、タルムードやミシュナに記されたラビ達のトラーの解釈や解説の中にも、神の言葉の真意に合っていない人の教えがたくさん盛り込まれているのです。

これは、異邦人クリスチャンの教えの中にも同様にあるのです。

ユダヤ人は、神の教えを忠実に生きようと考えている!でもトラーの中に記された教えが、神の伝える事を超えて人の勝手な解釈にすり替わってしまうと、これは結局神の純粋な言葉ではないものに変身してしまい、その結果、本来神がデザインした命が生み出されない、喜び削がれ、人の教えに縛られる再びエジプトの奴隷=嘘ものの教え、偽の神々に縛られて、偽物に仕える事に逆戻りしてしまうと言う現象が起きてしまうのです。

だから、神の言葉に付け足し、差し引きするなかれ!とトラーに

は記されていて、そのトラー=神の教えをイエシュアは引用し、人の伝統の教え=口頭トラー=人間の解説=当時”律法の行い”と呼ばれていたラビ達が編み出した教えを朝から晩まで、一挙手一投足の行動の全ての中に生きる様な窮屈な事をさせられてしまっていたのです。全ての人がその様な事に同意して生きているのではないのですけど、神の教えに対して知識識別力の無い場合に人の教えに迎合する奴隷となってしまうのです。想像つくと思いますが、ある宗教グループの群れに属せばその群れのリーダーが

指導する教えに逆らう様な行動や思考を発表出来ない、無言の

プレッシャーがあるでしょう。それです。

 

福音書の中に記された”手洗いの儀式”が1つの良い例で、イエシュアが直接当時の宗教リーダー達と議論している場面が記録されています。食事の前の儀式ですが、単に手を洗うのではなくて、彼らが考えた儀式通りの面倒臭い事をやらなくては食事が出来ないのです。でも神の教えにはその様な儀式は記されてはいないので、そんなものやらなくても良いとイエシュアは言ったのです。そうすると当時誰でもやっている当然の事を行わないイエシュアや弟子達は、神の教えに反しているなどと考えたのでしょう。

マルコ7:5 そこで、パリサイ人と律法学者たちとは、イエスに尋ねた、「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言伝えに従って

歩まないで、不浄な手でパンを食べるのですか」。

7:6 イエスは言われた、「イザヤは、あなたがた偽善者について、こう書いているが、それは適切な預言である、『この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている7:7 人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる』。

<福音書以降の全ての記事の内容は100%タナックに基づき、タナック以外の新しい教えや、タナックを否定終了した教えなど1つも書かれていない事実からだけ聖書を読み直して見てください。>

7:8 あなたがたは、神のいましめをさしおいて、人間の言伝えを固執している」。

7:9 また、言われた、「あなたがたは、自分たちの言伝えを守るために、よくも神のいましめを捨てたものだ。

 

これが問題の根〜エデンの園の問題と同じ、神の言葉を捨てて、

人の教えに固執し、それを伝統で守り続けてしまい、それが神の教えだと勘違いしてしまう事です。

これは異邦人クリスチャンの世界にもある罠と同じです。

 

実は神の言葉=教えでは無い、人が作った教えなのに、それらが

歴史の中で、伝統により守られているせいでそれが神の教えだ!

と信じて疑わずに実践し続けてしまう事は同じ性質の問題なのです。

何度も書いている様に、神の言葉=永遠不変であり完全で訂正や付け足し削除の必要が無い、いやそんな余地ない、欠けが無い神の言葉を神が歴史の途中で変更したのではなく、それ変更したのは異邦人であるのです。ある意味、ユダヤ人の中にも人の教えで、トラーに記された人の生き方を、人間のルールに作り変えてしまっていますが、神の言葉は終了!などと言う人が編み出した思想は少なくともユダヤ人の中にも、聖書の中にも無い、完全に人間創作、異邦人創作の思想なのです。

 

聖書大学や、バイブルスクール、そして神学校で、間違った聖書の解説など教える訳が無い、有名な学者が間違った聖書解釈をする訳が無いと信じて疑わないと思いますが、異邦人の世界では

多くの学者が、反ユダヤ、反トラー思想を持っているのです。

その大元は1世紀後半から出現した、西洋教父達による教えの数々による影響なのですが、この人達に関して、随分と盛られた虚像を語られてしまっているのです。そして、マルチンルターの様な宗教改革者と呼ばれプロテスタントの世界では大変尊敬されている人が、彼の人生の最後でとんでもない、悪魔に身を売った様な書を書いてしまっているのです。

問題の根はいつも同じです。聖書に記された神の言葉を、神が伝えている意図通りを正確に把握していない、神の言葉を変化させ聖書を誤訳してそして誤解した解説を大衆に伝え続けてしまっている事なのです。得にパウロの書簡は甚だしく誤解されているものであり、そして、使徒行伝など、神の教えが変化する過渡期に記されたものであるなどと、解説しているのです。しかも、歴史の史実をちゃんと把握しない事を書いたりしています。

過渡期〜神の教えが変化する過渡期が記されているのが使徒行伝などと言ってしまっているのです。悪い冗談より性質が悪い

言いたい。使徒行伝は、ユダヤ人だけの中で主に受け取り知られて生きていた、トラーが昇天以降、シャヴオートの祭り以降、世界へトラーが伝えられる、異邦人が神の言葉を聞くと言う最後の時代に入った過渡期であるだけです。

 

例えば、アメリカの福音派神学者であるメリルCテニー

参照 Wikipedia有名ですが、この様な学者が他の学者同様に

使徒行伝に書かれた内容は、”律法から恵”へ以降する過渡期の記録であるなどと述べているのです。使徒の書にはその様な事など

記されてなどいません!!!むしろ、多くの異邦人信者が加えられ続ける事と同時に、イエシュア信者となったユダヤ人逹は、

変わらずに熱心にトラーを追求し生きていた記録が使徒には記されているのです。その様な事実にどうして盲目のまま、初代西洋教父逹が唱えた教えを継承し続けているのか、その方が不思議で

たまらないのです。なぜなら使徒をちゃんと読めばパウロ自身が

100%トラーに反していないと宣言し、そして公共の大衆に対して、神殿でのナジル人の請願を立てて、パウロがトラーを破り、割礼を禁じ、そうしてトラーを生きるなと人に教えていると言う噂は嘘である!と証明している事実が記されているのに、

それをどう説明するのか意味不明な解説となるのです。

使徒21章参照。

そしてパウロの時代も今も”パレスチナ”などと呼ばれる土地など

存在していないのに、それがあったとテニー氏は著書に記しているのです。根拠の無い情報を記してはならないし、聖書の教えに反する教えを宣べ伝える多くの人に大衆は惑わされて行ってしまうのです。

イエシュアはユダヤ人であり、ユダヤ人は契約を受け取った代表者であり、その人達が自ら、神の言葉=父の言葉=シナイ山で

受け取った契約書=神との関係に生きる詳細が書かれている書を

否定し、捨て、終わりと言うなど、ありえない!!空想話であると言う事実に目覚めない限り、聖書に書いてある所を好きな様にどんな風にでも曲げて解説して行ってしまうのです。

 

事実多くのパウロの書簡の内容を、誤訳、誤解した解説が異邦人クリスチャンの間で一般的にされてしまっているのです。

言語、内容に忠実な注意深い学びが無いからです。

そして人の思想に乗って、異邦人の世界の教え=努力や行いで

救いを獲得し、神の前に認められると言うその様な思想=律法主義的意識=異教の神々との関わり、ギブアンドテーク、お供え物の食べ物の匂いが気に入ってくれたら、あの偶像の神は重い腰を上げて、お供え物に近づいてくれるだろうか?その心は私が熱心に執拗に祈り続けたら神の気持ちや計画を変えられるだろうか?その様な思考回路です。イエスの名を使った御百度参りをしてしまうのです。