聖書を正しく読まない代償は書いてある内容を誤解してしまう事 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

ユダヤ人である方=イエシュアが、父の言葉を否定する?など

救い主であり父と一体である方=神が神の言葉を否定する終わらせて違う事を言い出す、その様な行為をするとは、聖書に記された事と照らし合わせたら絶対に決してあり得ない事、聖書に書いても無い事であるのに、異邦人の世界ではそれが定番の聖書解説になっているのです。

 

”ウソがまかり通る時代に真実を言うことは革命的な事”とジョージ オウエルと言うイギリス人作家が言いましたが、嘘=伝統で根付いてしまった非聖書的教え、聖書=神の言葉に対する解説を異邦人の世界では誰も疑わない。疑問にも思わないし、誰も教師に質問しない?聖書の記述、内容とは異なる教えであるのに、

異邦人の世界では定番の聖書解説があるのです。

 

でも聖書に書かれた事とは異なる!と言う事を聖書だけに戻り

書いてある通りを確認さえしていないと言う事、それが大問題なのです。いや目の前に書いてあっても否定し、人の教えを用いて神の言葉を曲げて解説しているのです。

だから神のシャバットは7と書いてある、神の記念日は永遠に祝われると書いてあるのに、昇天以降はシャバットは1と言い、

又は今の時代は人の考えでどの日も聖別された主の日になるなどと勝手に神の言葉を曲げて解説しているのです。

 

モーセの五書に記された神の教えがどれほど麗しい生き方を伝えているのか知らないから、神の教えが呪いの律法などと平気で

発言出来るのです。だからあたかも人を縛り付ける呪いの律法、そんなもの廃れて当然!と考えるのです。

 

イエシュアが生きられた全てはモーセの五書100%そっくり

そのままであったのです。昇天以降の人々全て、聖書に記されている登場人物の間で実践されていたのは、永遠不変、太古から

語り継がれる同じイスラエルの神の教え=トラー=モーセの五書に書かれた父の教えを生きる事をしていた事が聖書に記されている揺るぎない永遠の事実なのです。新しい契約とは、新しいと言う言葉は、別の新しいものではなく、再更新と言う意味のヘブライ語なのです。新月を祝う時、その新月は別物の月、光が現れでるのではない、同じ光=月です。それでも表されている通り、

契約は再更新され続ける事を意味しているのです。神の契約は

永遠不変、神は契約を破らない。でも参加する人はそれぞれ

神の意志、み旨に同意するかと言う決断があるのです。

 

モーセの五書の内容とは違う契約ではなく、参加する人の内容、態度、状態が違う=頭脳に腹に神のトラーが刻まれている=義とされている性質を理解して生きている人達で参加し構成する神の

家族として生きる時が世界に起きるとエレミヤ31章でも預言されているのです。その事を指して、イエシュアが新しい契約

内容が同じ再更新される、最初から同じイスラエルの神の1つの家族のメンバーが加えられ続けて行く事を話しているのです。

だからゼカリヤ書の未来預言では、神の家族として神の記念日を祝わない人には雨が降らないと書いてあるのです。参加しない人は、神の家族の生き方=契約の外に飛び出しているからです。

 

イエシュアが生きて教えられた全てはモーセの五書100%そっくりそのままであった。イエシュアがある一部の人達と議論していた内容は、古い教え=モーセの五書を生きるな!などと言っているのではなく、彼らが理解していたモーセの五書=トラーに

関する解釈が神が本来意図していた実態とはズレている!その事を指摘してイエシュアが議論していると言う事に先ずは気が付く事が必要なのです神は神の教えなど決して永遠に否定し変更などしない、完全なる神の言葉は変更の余地がないからです。

 

人が神の言葉を誤解し解釈して自分流の教えを編み出して行動して、他者にもそれを教えさせている、それをイエシュアが指摘しているだけです。

異邦人の世界では以前エペソ2章にある様に、神の教えから遠く離れ、イスラエルの神の教え=契約、国籍にも縁がない人達。

異邦人で神の契約に加わり生きる人は少数であったのに、昇天

以降はエルサレムから同じ神の教え太古から語り継がれた同じ福音が世界へ伝えられる幕開けがあり同じトラーが世界へ伝えられる、それは以前の様な規模ではなく世界的規模で広がると言う事がなかったからです。でも神の教え=シナイ山で与えられた契約=イスラエルの神の大家族の生き方の詳細、内容は全く変わってなどいないのです。

 

なぜなら神が人に伝えている通り、神の教えは最初から永遠から永遠に完全で変化しないからです。変化しないと神が言っているのに、異邦人は神と神の言葉は変化すると言い続けて今に至っているだけなのです。

この点を異邦人の世界では全く誤解しているのです。

昇天以降の人間の生き方とそれ以前とでは違うと聖書に1つも

書いてない事を、聖書に書いてある内容を誤解した解釈、解説だけを聞かされ教えられるので、聖書に書いてある通りを聞いていないからです。

 

いやいや以前の教えとは違う事が書いてある!と思うなら、それは聖書に書いてある内容を完全に読み違えて誤解しているからです。特にパウロの書簡、ヘブル書に記された祭司制度の内容に

関して、又はイエシュアが話している事が100%モーセの五書

であると気が付いてないからです。

モーセの五書とは違う新しい教えが福音書以降に書かれていると

異邦人が錯覚誤解している理由は、最初の部分の聖書に何が書いてあるのかを書いてある意味通りに教えられていないからです。しかも異邦人の神学校の講壇から、聖書ではなく、人の思想=

人造神学を通して聖書を曲げて教えられてしまうから、正しい

聖書理解をしないまま人の教えを混ぜて混乱を招くのです。

聖書の最初の部分に何が書かれているのか分かれば、福音書以降も全く矛盾する事なく、最初から最後まで一貫して同じ教え=

モーセの五書を語っている事にはっきり気が付けます。

なぜなら神は神が人に伝えた通り変化しないお方、神は別の教え

を作り出したりなどしない、神は約束契約を破る神ではない、

神は二心、二面相、時代ごとに変化する多重人格な神ではないからです。

異邦人の中にも1世紀以降でも聖書に登場するユダヤ人達、

イエシュア信者達の様に、モーセの五書=トラーを固くガードし生きていた人もいるのです。それは西洋教父達が編み出した宗教の教えに付いて行かなかった人達だからです。

異邦人の世界で馴染みの無い教えは異物に感じるものなのです。

こう考えれば良いのです。聖書に記されたどんな教えでもそれは

神=イエシュア=聖霊から出て教えられているものであり、それに反抗、抵抗感じる、否定すると言う事は、直接神に反抗、

抵抗、異議申し立てをしている行為である!と言う事実を考えるのです。

でもこう言うのです。イエスさまを愛してますが、聖書に書かれたある教えは認めない、信じない、実践しませんとはどう言う事を意味しているのか考えたら良いと思います。自分の考え、判断基準で神の言葉を判定し、仕分けますと言っているのです。

今の恵みの時代は古い教えに戻る事が悪い事だと言われるから

そう思う。

でもイエスさまを愛している事には変わりありませんと思う。

それらの主張は聖書に照らし合わせればズレています。

神を愛するとは、その人の生き様で表される実態だからです。

愛するとは、神の教え=契約の実態を生きる事だからです。

 

”わたしを愛する人は、わたしの戒め=トラーに書かれた神の教えを愛する、生きる。”とイエシュアが言われた言葉がその通りには響いてない、理解していないからなのです。

わたしを愛する人は、わたしの教え=父の教え=トラーに書かれた人間の生き方を愛さない、生きない人ですと書かれているのでしょうか?

 

ユダヤ人ならイエシュア=神=言葉=トラーと理解出来ている。

ヨハネが言った、言葉が肉体を取って地上に来られたとはその事だからです。だから神の言葉をどの箇所でも否定する、イエシュアを否定する事になるのです。

 

しかも2世紀以降、異邦人教師達が今や神の言葉を生きる必要はない時代になったなどと、非聖書的教えを作り、その様に人々に教え始めたら、”そうか〜それが恵の時代の生き方なんだ。神の言葉はもう生きる必要は無くなったのか。”などと浅はかな考えに陥ってしまったのです。しかも今の様に聖書が手に入る時代でさえ、神の言葉が誤解されて伝えられてしまっているのです。

神の言葉を否定する、捨てるなら迷い出ると言う事が起きた。

 

16世紀に印刷技術が登場するまで、当時の人は個人個人聖書など手元に無い!西洋僧侶だけが聖書を持っていて、彼らが考えついた宗教の教え思想実践を伝達されてしまっていたのです。

だから偶像、偶像崇拝=人間崇拝、免罪符や聖書には無い様々な概念を人に教え続けてしまって、イスラエルの神の言葉、教えとは遠く遠く離れた宗教を実践していたのです。だからヘブライではなく西洋宗教と言うのです。今もその痕跡、教えの土台の根は健在でずっと継続されて継承されてしまっています。その大きな障害物の1つは、神の言葉を分断する、聖書には最初と最後の

部分で2種類違う教えが書いてある、神の言葉を古い律法であると否定するその様な教えは聖書では無いのです。

 

古代ユダヤ人の世界は口頭伝達の世界です。太古から伝えられた同じ福音、トラー、預言書などパウロの様な教師達はそらで丸暗記している様な世界なのです。だからパウロが近隣諸外国にトラーを教えに行った時、重たいトラーの巻物など携えて旅したのではないのです。全部頭の中に神の言葉、教えが刻まれて記憶されていたからです。

異邦人の世界に育った、異教の神々の教え、文化に染まった人達に取っては、元々自分の都合に合わないイスラエルの神の天の

独特な教えがたくさんあるなら、それらは排除した方が正義だなどとも錯覚してしまうのです。

それはローマ帝国、1世紀後半の西洋教父達が考えた事と全く

同じなのです。自分達に馴染みのない教え、神の国の文化は

異物。使徒15章を読んでも、イエシュアを信じた異邦人は

神の教え=トラーに記された教えをまるで理解していなかった事は読んでも明らかです。だからイエシュアを信じた後も、偶像礼拝、偶像の宮に出入りし、そこで異教神に仕える異教徒信者と

同じ行為、儀式、生活をしていた異邦人達に、最低、最小限の

トラーに書かれた聖別の意味を教えたのです。

 

読んでみれば分かりますが、異教徒の宮に行き、汚れた動物を祭壇に捧げる儀式=動物を絞め殺し血を飲み、そして神殿娼婦達と

交わる様な行為をしていた。ドン引きな行為がトラーに書かれた

罪=ズレであるとは夢にもつゆにも理解しない異邦人達のために

当時のパリサイ派のグループが、この人達を交わりに受け入れるための最低限守るべき神の教えをまず教えた事が書かれています。この様な箇所を、異邦人は4つだけ守れば後の神の教えは

やる必要など無いと異邦人クリスチャンの世界で一般に解説されてしまっています。書いてある意味を掴んでいないからです。

そしてシャバット=第七日目ごとに、自分達の交わりでトラーを

学んで行けば、そのうち神の教えが何であるか理解出来てくるだろうからと、最大限寛容な措置をこのパリサイ派のグループは

異邦人に対して取ったのです。

クリスチャンの世界では、1世紀エルサレム、又は諸外国で

キリスト教と言うものが出来て、キリスト教会という場所に人々が集っていたと誤解していると思いますが、聖書に登場する人達は、100%昇天以降もイエシュア信者ではないユダヤ人と共に彼らの会堂でシャバットでトラーを学んで、一緒に交わっていたのです。その記録が使徒15章にはっきりと記されているのです。そして日曜礼拝や、聖餐式や、クリスマス、イースターなどの西洋宗教の祭りなど創作されていない、それらを祝わった事も無い。

1世紀のユダヤ人、イエシュア信者達全てが祝っていたのは、

シャバット、新月、過越や仮庵の祭りなのです。

それがどうして変えられてしまったのか?異邦人が神の教えとは

違う宗教を作り、ヘブライ的要素=異物感のある全てを削除して

作った新しい教えだからです。

 

続く