聖書の記述とは異なる異邦人クリスチャンの世界で語られる空想想像、発想で継承された教えの世界を頼りにすると、聖書に書いてある事実が見えなくなってしまいます。
聖書に記されている事実と、人が編み出した伝統で語り継がれる
教えは異なるのです。サンタクロースは実在していない、空を
飛んで煙突から入ってプレゼントを持ってくるなどしない楽しい
空想話であると言う事を誰でも知っていて、それは架空の話で
あると理解していますが、聖書に記された真実では無い事、人が作った宗教=イズム=神の言葉と人間の作った教えを混ぜたもので教えられている内容、真実、事実では無いと言う事が見えていないと思います。どこからどこまで人が作った宗教の作り話であり、何が神の語る真実なのか?神の言葉と人の創作話をはっきり識別、区別しなくてはならないのです。
神の言葉が変化したと言う聖書ではない教えの上に立って考え
続ける限り、神の伝える真実な言葉=教えの真相の全貌は見えてこないからです。
パウロがイスラエル近隣諸外国に出かけて行った時もそこに集っていたのは、殆どがユダヤ人中心のグループであり、シャバット=第七日目に皆トラーの朗読を聞くために集まっている、そう言うグループのところにパウロが行ったのです。
昇天以降、西洋宗教と言う新しい教えが出現し、モーセの五書とは違う西洋宗教の教えを信じて実践する、その様な宗教グループの所にパウロが行ったのではないのです。
西洋宗教などパウロが生きていた時には無い宗教なのです。
以前からの同じ継続、同じ神の契約に加わった人達、同じ神の
言葉=トラーを学び生きている人達、その中に徐々に異邦人も加えられ始めた記録が1世紀使徒以降に記されている内容なのです。神の1つの家族は最初から1つ。神に呼び出された人々の群れ=カハール、ケヒラ、エクレシアであり、教会と言う名の別のグループなど聖書には実は記されていない、教会と言う名前さえ聖書には無い、出てこないのです。
それらの人達=同じ契約を生きる同じ1つのイスラエルの神の家族に加えられた人達はエルサレムのパウロの拠点=パリサイ派のグループに属するパウロと言うトラー教師に、自分達の中で起きている様々な問題をトラーの中に書かれた神の教えをどう適用して生きるのかと言う質問状を送っていたのです。
それらがパウロの書簡として聖書となっているものです。
この様な書簡を通して質疑応答し教えられる、今で言えばメールやネットで教師から教えられる、それらが当時のパリサイ派の
教育流儀であったから、パウロがパリサイ派の教育方法通りを
使ってトラーを諸外国の人に教えていたのです。
聖書の最初の部分を読むと、洪水があったりソドムとゴモラで人が全部滅ぼされたり、いきなり地が開いて人が落ちたり、血みどろの印象を受けますが、神の目から見ると言う事が分からない
限り、結局自分の考え、悟り、印象で、神の言葉で書かれている事がどの様な意味があるのかと言う事、肉の目を通して全てを見ている限りが全く理解できないまま、とんでもなく恐ろしい神と言うイメージを抱いてしまいました。
でも神の創造された世界、神の性質の人達が生きる上で、汚染物質が常に人の中に侵入し割り込み続けられて行くと言うことが
どれほど人を破壊してしまうのか?と言う事が分からなければ
見えない世界があります。
私が教えられたイスラエルの神とは簡単に言うとこんな感じでした。
昔は怒りっぽかったけど昇天以降は人格が丸くなった。
キリストが死んだので、それで人間の罪が消されたので神の怒りは、緩和、中和されたから、神が怒るのをやめた。
神はキリストが来られるまでは、人間が到底生きる事の出来ない厳しい律法を与えて、人間がどれほど罪深く、神の教えを生きれないのかを徹底的に教えられた。
そして、人間が罪深過ぎるので神の義を生きられないから、人間の如何しようもない罪深さをとことん自覚させてから、キリストを送って古い呪いの律法を生きる事から人間を解放した。
だから、以前の教え=古い律法は昇天以降は生きる必要がなくなったと言うマルキオンやダービーの創作した人間の教えを伝授されました。異邦人の世界では、神の言葉が最初から最後まで同じことを話し、どこも矛盾したり変化していないと言う神が伝える永遠不変の決定的な事実に完全盲目のまま、人の思想の中でだけ考えて信じている事に気が付いてないのだと思います。
以前の教えは、それまでユダヤ人がどれほど神の教え、義を生きられないのかを教えるための一時的な教えなので、キリストが
来られたらそれらは殆ど無用になったので、今古い教えを生きる人は神がせっかくキリストを通してされた業を台無しにしてるの
だから、律法に戻ることは神の前にとても悪い事である。だから恵みを無駄にして律法に戻るのか〜!信じたらユダヤ人、ユダヤ的な事一切やめなさい!と言う教えを聞かされ続けました。
ユダヤ人?イエシュアはユダヤ人です。イエシュアを信じる事ほどユダヤ的要素=天の神の国の生き方を生きる事は他にないのですが。
上に書いた内容は、全部聖書ではなく、人が編み出した伝統で
一般に異邦人の世界で語られる教えです。
新しい教えを編み出したと語られるパウロは実は完全にヘブライ人であり、モーセの五書を忠実に生きているとパウロ自身が証明しているのです。
使徒21章に当時パウロは巷でモーセの五書に違反する様な教えをしているのではないか?と言う噂、嫌疑がかけられて、モーセの五書に違反することなど1つもしていない証明をするために
神殿でナジル人の請願をパウロは他の人と共に彼らの費用も払い果たしたと書いてあるその事実だけでもパウロがモーセの五書を否定し別の宗教の教えなど作り出していない決定的証拠が記されているのです。それなのに異邦人クリスチャンの世界では聖書に記されている事実をすっ飛ばして、勝手に別のパウロ像を作り上げて、モーセの五書を否定した新しい教えを作った教えたなどと解説しているのです。パウロの書簡に記された意味を完全に読み違えているからです!その事に全く気が付く事が無いのはパウロが語っている意味とは違う人造宗教の伝統の教えの解説、注解だけを聴き続け人に語り続け伝承しそれが聖書である!などと信じてしまっているからなのです。
だから非聖書的な教え=神の言葉が変化した、パウロが新しい
宗教の教えをしている!と言う聖書ではない人の思想の土台、
柱を全部一旦崩壊して正しく聖書の理解を建て直す必要があるのです。
パウロが自分自身の事を議会で証明しています。パウロは自分の事をどう証言していますか?書いてある通りに読み勝手な教えや
自分の解釈で読み込まないで、パウロの言葉通りを読み知る。
使徒 22:3 そこで彼は言葉をついで言った、「わたしはキリキヤのタルソで生れたユダヤ人であるが、この都で育てられ、
ガマリエルのひざもとで先祖伝来のトラーについて、きびしい
薫陶を受け、今日の皆さんと同じく神に対して熱心な者である。
使徒23:6 パウロは、議員の一部がサドカイ人であり、一部は
パリサイ人であるのを見て、議会の中で声を高めて言った、
「兄弟たちよ、わたしはパリサイ人であり、パリサイ人の子である。わたしは、死人の復活の望みをいだいていることで、裁判を受けているのである」。
22:3と23:6に記されたパウロの言葉を当時この場所に
居た人の耳にはどう聞こえていたと思いますか?
22:3で、ガマリエルの膝下で学んだ=タナック=トラー、預言書
諸書の最高高等教育を最高の教授=パリサイ派のガマリエルに
学び、そこに居る議会、大祭司、長老、パリサイ派の学者達の前であなた方と同じくトラーを生きる事に熱心であるとパウロ自身が言っている意味通りを聞けば、パウロは100%モーセの五書など否定した別の教えなどしてません!と言っている事は理解出来るのです。
しかもこのところの翻訳は、みなさんと同じ神の教えに対して
熱心なものであったと日本語翻訳では過去形になってますが、
これは現在形です。
そして、23:6でパリサイ人であり、パリサイの子とはパリサイ派の中のパリサイ=神のトラー=モーセの五書に忠実に学び生きる事に熱心な者!と言う表明、宣言をしている事はこれを聞いた
当時の人達なら理解出来るけれど、異邦人クリスチャンには何の意味にも響かない、カメレオンの様にパウロがコロコロその場で証言を変えて相手の顔色を見てるなどと考えれば、パウロが
100%モーセの五書を生きていると言っているなどと言う理解が出来ないのです。
パウロがパリサイの子と言った発言は、”神のトラー”=モーセの五書の教えに忠実に生きていると言う宣言をしているのに、
パウロが同時に裏では違う教えを作り出して教えているなどと
言う異邦人解説は聖書に基づけば不真実であることはクリアーです。
イエシュアがされた過越の晩餐の一連もパリサイ派の流儀に則って行われた事なのです。パリサイ派、イコール偽善者と言うクリスチャンなら誰でも疑わないパリサイ派に対するイメージがありますが、でもそれはとんでもない誤解なのです。ある一部の人達が神の教えの本質とは違う教えを生きていた事が書かれているだけなのです。ある特殊なグループを指して、その関係者は全員悪い人である、又はある一部の日本人の素行の悪さのおかげで、
海外で日本人は全部悪い人であると言われたら、世界で悪い事をしている一部の人達で日本人全員が悪者になるわけではないです。でもそう言う人が居れば、正しく生きている人も悪い評判、
レッテルを貼られてしまうと言う事はあるのです。
使徒5:34 ところが、国民全体に尊敬されていたトラー学者