聖書、神の言葉イスラエルの神像に関しての既存の全ての先入観偏見=イスラエルの神=創造主は七面相の神で時代ごとに神の
教えを変えた神であると言う異邦人が考えた思想を一切削除、
全く聖書を読んだ事がないと言う意識状態にリセットして、
イスラエルの神は、永遠不変、神の言葉は完全であり永遠不変と言う神が伝える事実からだけ聖書を読む必要があります。
創世記から黙示録までどの箇所全て神の言葉は完全に一貫して
おり、同じ内容、テーマを語り、同じ救いの方法、手段、同じ
性質の罪の赦し、贖い、どの人種でもどの国の人でもどの時代の人でも神が伝えるイエシュア、子羊の血を通して人は義とされ
聖霊が人の中にどの時代でも住んだ事実、神の言葉はどの箇所も互いに1つも矛盾せず、聖書の中には前半と後半とは違う教えが書かれている事はないと言う神が伝える永遠の真実からだけ聖書を読み直す必要があります。
もし時代ごとに神の違う教え=契約があると言うなら、それは
別種類の福音、別のイエシュア=別の救いの方法、別の道が存在するのだ!と聖書とは違う教えをしている人間の思想になるのです。
もし異邦人の世界で語られる教え、教理、宗教神学と言うプリズムを通して神の言葉を曲げ読み続ければ、ある部分は神の伝える真実を発見するけれど、ある部分は自分の中で神の言葉が伝える真実を削除すると言う作業をずっと続けてしまう事になります。
サンタクロース神話と同じく、聖書に記された真実では無い事に立って考える事を止めない限り、神が伝える永遠の真理には繋がらないからです。電話番号でも1つの数字が違えば別の相手に
繋がり、Websiteもたったの1つの文字を間違えただけでも目指すサイトには繋がらないのです。
ユダヤ人である方=イエシュアが、父の言葉をどうして否定するのでしょう?そんな事は絶対にあり得ない事なのです。
父の言葉とは、シナイ山で直接モーセに語られた言葉=トラー
モーセの五書に記された教えであるのに、父の言葉を伝えている
伝えに来た、教えに来たとイエシュアが言いながら同時に父の
言葉を否定し終了、破棄するために来られたなどと言う発想自体が聖書とは矛盾していると、イエシュアの言葉を聞いただけでも理解しないとならない事なのです。
ヨハネ14:24 わたしを愛さない者はわたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉は、わたしの言葉ではなく、
わたしをつかわされた父の言葉である。
何をイエシュアが言っているのでしょう?イエシュアのこの言葉を聞いた、ここにいた人達の耳には、イエシュアの言葉をどう理解して聞いていたと思いますか?
わたしの言葉=あなた方が聞いている言葉=イエシュアが勝手に
思い付きでペラペラ話し、語っている言葉ではない、皆が知って
いる父の言葉=トラー=モーセの五書の事です。
異邦人の世界ではイエシュアが話している父の言葉に対して、
呪いの律法廃るべきと言っているのですが、ここに居たユダヤ人達は父の言葉が廃れるべき呪いの律法などと考える人は誰も居ない、イエシュアがトラーに付いて話している事をはっきり理解しているのです。
聖書だけを読めば、書かれている通りを知れば、世間で流通している異邦人の世界が語る神の言葉とは違う事が聖書には記されている事を聖書から発見出来ます。
シナイ山で与えられた契約書=モーセの五書。
その事実からイエシュアの言葉を読んだだけでも、イエシュアが
父の言葉を否定する訳などあり得ない事は理解しないとならない事なのです。
日本人で、部下が上司、又は権威に逆らい反逆する?
そんな事まずあり得ないでしょう。
もしあったとしたらそれはその組織を去り、関係を断つ時です。
ウルトラマンシリーズで、ウルトラの父にウルトラマン太郎が
戦いを挑んで、父を倒しやっつけたらそのシリーズはそこで終了です。神の中で内部分裂?神がご自分の言った永遠不変であると言う言葉を歴史の途中で翻し変える?そうだとしたら、それは
聖書に書いてあイスラエルの神では無い、人間が編み出した宗教の教えの神像であり、その教え、思想は聖書ではないのです。
モーセの五書に記された神の教えがどれほど麗しい生き方を伝えているのか理解していない、知らないから、神の教えが古い呪いの廃るべき律法などと平気で発言出来るのです。乳幼児がダイアモンドや真珠の価値を理解出来ない事と同じです。麗しく美しいものが同時に呪われるべき人を縛るものであり得ない。神の言葉は蜜の様に甘い=神のトラー=教えは蜜の様に甘いとあるのです。
異邦人の世界で語られる神に対するあたかも敵対心満載意識で
語る神の言葉に対しての思想と、聖書に記された神の言葉が全く違うものである事を聖書から読み取れます。
聖書記者は100%神の言葉、み言葉、戒め、教え、仰せetc
et etcとトラーを指して語る様々な類義語で書かれているものは、トラー=モーセの五書に記された神の言葉=教えについて
語っていると言う永遠不変の大前提から聖書を読むのです。
詩篇119:103あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘い
ことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。
エゼキエル3:3そして仰せられた。「人の子よ。わたしがあなたに与えるこの巻き物で腹ごしらえをし、あなたの腹を満たせ。」そこで、私はそれを食べた。すると、それは私の口の中で蜜の
ように甘かった。
黙示録10:10そこで、私は御使いの手からその小さな巻き物を
取って食べた。すると、それは口には蜜のように甘かった。
巻物=トラーの巻物=神の言葉=父の言葉=モーセの五書です。
異邦人の世界に流通する神の言葉に対しての固定概念は、人を
縛り付ける呪いの律法であ〜る!古く悪い教え!廃れるべきものであり、神の古い教えから今は自由に解放されるべきである!
だからそんな古い神の言葉は廃れて新しい生き方=恵の下に移行するのだ!と考えるのです。
2000年以降は新しい生き方?古い教えに縛られずにキリストの命に繋がる事!と言いますが、そんなのは聖書の教えではありません。
聖書に記されている事実は、古い教えに縛られるのではなく、罪の法則、罪の律法=トラーに記された罪の本質に縛られる事なく神の義を生きる自由人として、神が伝える生き方=命を生み出す生き方が出来る。罪の法則に縛られてしまう誘惑を拒否して、
新しい人として生きる事が出来る!と言っているのに、神の古い教えから解放されたのだ〜〜ととんでもない誤解をした思想を
信じ語り続けて、イエシュアが教えられた教えがモーセの五書=トラーだけである!と言う事実に全く盲目状態に留まってしまっているのです。何から解放されるのか?を誤解しているのです。
神の言葉から解放されるのではなく、罪の性質の奴隷として縛らられた状態から解放される!それが聖書が語る事なのです。
罪の中に惨めな奴隷として留まるのではなく、神の性質=義を
生きる恵=本来受けるべき何もしていないものを、神が一方的に与えてくださったその祝福を自由人として生きるのです。
イエシュアが生きて教え人に示した全てはモーセの五書100%そっくりそのままであったのです。昇天以降も全ての人は同じ神の教えを生きる事をしていたのです。
福音書に記されているイエシュアがある一部の人達と議論して
いた内容は、古い教え=神の言葉を生きるな!などと言っているのではなく、彼らが理解していたモーセの五書=トラーに関する解釈が神が本来意図していた事とはズレている!彼らの考えている教えのズレの数々を指摘してイエシュアは議論していると
言う事に先ずは気が付く事が必要です。神は神の教えなど永遠から永遠に1度も否定しない、人が神の言葉を誤解し解釈して自分流の教えを編み出して行動して、他者にもそれをさせている、
それをイエシュアが指摘しているだけです。
新しい契約とは、モーセの五書の内容とは違う契約ではなく、
参加する人の内容、態度、状態が違う=頭脳に腹に神のトラーが刻まれている=義とされている性質を理解して生きている人
で参加し構成する神の家族として生きる時が世界に起きると
エレミヤ31章でも預言されているのです。
モーセの五書とは違う新しい教えが福音書以降に書かれていると
異邦人が錯覚するのは、最初の部分の聖書に何が書いてあるのかを書いてある意味通りに教えられていないからです。しかも異邦人の神学校の講壇から、聖書ではなく、人の思想=人造神学を
通して聖書を曲げて教えられてしまうから、聖書理解に混乱を
招くのです。神学校で間違った教えなど教える訳ない?残念ながら進化論と全く同じく、著名な学者の口、言葉、書物を通して
非聖書的な人の思想が伝達されてしまっているのです。
聖書を書いてある言語の意味通りに学ぶのではなく、人が編み
出した教え=神学の教えを学んでしまっているからです。
最初の部分に何が書かれているのか分かれば、福音書以降も
全く矛盾する事なく、最後まで一貫して同じ教え=モーセの五書を語っている事にはっきり気が付きます。
なぜなら神は神が人に伝えた通り変化しないお方、神は別の教えなどしない、神は約束契約を破る神ではない、神は二心、二面相、時代ごとに七変化する多重人格な神ではないからです。
異邦人の中にも1世紀に聖書に登場するユダヤ人達、イエシュア信者達の様に、モーセの五書=トラーを固くガードし生きていた人もいるのです。
異邦人の世界で馴染みの無い教え〜異物に感じ、しかも教師達が
今や神の言葉を生きる必要はない時代になったなどと、非聖書的教えでもその様に人々に教え始めたら、”そうか〜それが恵の時代の生き方なんだ。神の言葉はもう生きる必要は無くなったのか。”などと浅はかな考えに陥ったのです。
元々自分の都合に合わないイスラエルの神の天の独特な教えがたくさんあるなら、それらは排除した方が正義だなどとも錯覚してしまうのです。
神が伝える事は神が創造された人間の性質、成り立ちを教えているのに、それを無視するのは不具合が生じるとも考えないで
一抜けた〜の世界に突入。そして新しい教えの方が楽に聞こえる
なぜか?束縛感がないからです。なんでも許される、なんでも自分で選ぶ、自由な恵の世界が到来した〜と言う教え。
なんでもありなどと言う教えは一見自由に聞こえるけれど、
神が伝える本当の自由とは、神の教えが無意味になったので、
なんでもやって良いなどと言っているのではなく、トラーに
記されている罪の法則=肉の生き方のズレから解放され罪に束縛されない生き方、人間本来の性質=イエシュアの性質を生きる事、それが本当の自由であると記されているのです。
神の教えを生きる事は難しいことではない、なぜならそれは本来の人間の中に刻まれた神の性質通りだから!と最初から申命記にも書かれている通り人間本来の性質は神の造られた神の性質通りを生きる事、それが人の本来の姿なのでそれに戻りたいと願うものだからです。
だから人がズレた事をした時に、後悔する、悲しくなる、悔やむ
やり直したいと思うそう言う想いを抱くのです。
罪の法則=トラーに書かれた罪の性質に縛られて引っ張られてしまうから、本来の自分の性質とは違う罪の罠が挑んでくるのです。
本来の性質が神の性質ではなければ、ズレた事をするのが本来の
性質なら、何も感じないはずです。
でも人として、それらが本質に合わない生き方、行動、態度をするから、理屈抜きに違和感を感じる、それが世間で言う良心と言うもので表されるものです。
一方、道徳心とは全く関係の無い世界があるのです。
それらは、神の言葉を知らなければ全く無感覚の内容であるからです。
でもそれらを通して、神が聖別を教えているのです。
続く