人の思想で神の言葉が遮られ隠される | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

異邦人の世界で語られる教えで、神の言葉を完全に誤解している

教えの土台、問題の根は、神の言葉が人を縛る古い呪いの律法である、旧約聖書〜それらは特にモーセの五書、そこの中に書かれている教えを古代の人と同じく生きる事は悪い事であると言う

教え、意識が思索の根底に根強くある事です。

 

古い呪いの律法から解放し、新しい教えをイエスキリストが伝えに地上に来たのに、古い律法に戻り生きるとは、なんと言う無礼な恵みを捨てた生き方なのだろう!と言う教えです。

それを本来の意味に直したらこうなります。

”完全なる神の言葉=人の命を保護するもの=人は神の口から出る一つ一つの言葉により生きる”と神が人に永遠の教えであると伝えながら、途中で神は神の性格、考え、気を変えて、イエシュアが神の教えをもう生きなくて良いと言う新しい教えに人を解放して、昇天以降は人の判断意見好みで何でも神の教えを選べる

自由を与え、古い神の教えを自由に退けて自分の判断で生きる様に神が神の教えを変えた。神の言葉を生きる事は、呪いの律法に縛られる事に戻る事であるので、今は自分の好み、意見でなんでも選択して良いと言う恵の下にある時代になったのだから、神の言葉を生きる必要など無い。”

しかしその様な事は聖書のどこに記されているのでしょうか?

神はこの教えとは全く逆を最初から最後まで伝え続けているのです。

そんな教えがあるから、福音書以降に記されている教えこそが

新しい時代の新しい教え、恵の教えであるとイエシュアが教えられた教えが、モーセの五書=異邦人クリスチャンが言う古い呪いの縛りの律法そのものだともほぼほぼ全く気が付かないままそう考えているだけなのです。神の言葉に対し、微塵でも呪いの古い廃れるべき不完全で一時的な律法などと言う意識が入り込んでいれば、イスラエルの神の性質を完全に誤解している!と言う矛盾点に気が付かないとならないのです。イスラエルの神に対して

ひどいイメージを最初から持たされてしまっているのです。

相手の本来の人格を誤解したまま、本来あるべき正常な関係など結べないのです。

神は神の言葉、イコール神ご自身であり、神の言葉は完全、蜜の様に腹に甘く、麗しく、人を支え生かす命のパン、道を照らす光と伝えているのとは真逆な人間的発想、思想です。

 

しかも、異邦人が聖書を全体的に、特に最初の部分を学ばない

理由は、ヘブライ聖書には何が書かれているのか手ほどきをする環境が周りに無い事があります。その理由は、幾度も書いている通り、1世紀後半以降異邦人西洋教父達がユダヤ人と教師、群から離れ自分達に合った新しい教えを作り始めてしまったからです。それが西洋宗教の始まりです。外国人がよその国の料理を

自分達の国の好み舌に合ったものに変える感覚と同じです。

その国には無い調味料=教えを、本来の料理=言葉の中に加えて

自分達に合った別の味の料理=宗教を作り出し編み出す。

その中の代表者で、時の異端者と呼ばれた2世紀に存在したマルキオンの教えは何と19世紀のダービーにまで受け継がれてしまったのです。

1 神の言葉は今生きる必要が無くなった。2 聖書はルカと

パウロの書簡いくつか読むだけで事足りる。

これは、聖書の最初、聖書の土台の70%は完全端折る、捨てる。聖書の最後の30%、最初の70%の解説をしている部分も

ほぼほぼ不必要。そうすると神の言葉の数パーセントしか知る事

が出来ない!これがその教えが推奨する悲しい現状なのです。

そしてそれは神の言葉、教え、仰せでは無い!!!

その様な思想=聖書など学ぶ必要などない、知る意味はない、

生きる必要は無いと考える教師に学べば、生徒もそう考える。

神が伝える、神を熱心に探り求めよとは、神の言葉=神自身の

考えを熱心に求めよとは真逆な態度、教えです。

破棄された不要な神の言葉や教えなど熱心に学ばない、追求などしない意識を刷り込まれるのは当然です。

だから聖書をきちんと学ばないと言う事が異邦人の世界では継承され続けてしまったのです。実はそれが神の言葉を誤解する大問題の根であるのです。聖書に書いてある通り、書いてある内容=神の深い深い考えを人に伝えているのに、その内容が神の意図

通りの意味が伝わっていないからです。

そして異邦人には馴染みの無い教え=モーセの五書に記された

教えや、誰でも理解出来る道徳的な内容以外の全ては昇天以降

特に異邦人には関係の無い教えであると教えられ、疑いもせず

神の言葉ではない、人の主張した教えを信じているのです。

 

神の言葉は人の生きる全領域に関して教えているものです。

部分的では無い、シャローム、全てを網羅する教えです。

衣食住に関して、神の聖別された主の日=神の記念日に関して、

それらが何で、いつ、どの様に祝うのか、婚姻に関して、どんな相手と関係を結んではならないのか、市民として生きる上での法律的な事ももちろん神の子らの憲法も細かくモーセの五書の中に書かれています。モーセの五書に基づきイスラエルの憲法、法律が成り立っていたのです。

だからイスラエルの議会でが裁判がされた時、モーセの五書に

記された事に基づき判決が下されたのです。

戦争に関して、徴兵に関して、家族、親族、コミュニテイの中で

生きることに関して。犯罪を摘発する時に何人の証人が必要か。人が罪を犯した場合の対処の数々、借金や利息に関して。負債が7年ごとに帳消しになる事、土地に関して、負債を払うために、労働者として主人の家に仕える場合、どの様な条件でどの時期にその任務を解かれるのか、もしくはその主人の家で継続的に働く場合の条件などなど、読んでみれば、事細かに、弱い者の立場に立って生きる事が書かれている事を発見します。

人の生きる上での神の提示している全ての教え、インストラクションが記されている、それが神の言葉=父の言葉=モーセの五書に記された人間の生き方です。

 

イエシュアが”もしあなたがたがわたしを愛するならば,わたしのいましめを守るべきである。”と言われました。

ヨハネ14:15。この言葉を聞いた人達は、イエシュアが何を話しているのか理解していたのです。

”わたしのいましめ”と言う言葉で表されるのは、父の教え=トラー=モーセの五書に書かれた全ての教えの事です。神の教えの

ある部分、ある一部だけのことなどではない、神の教えの丸ごと

=全てを指して話しているのです。

”愛する”とは、トラーに書かれた契約の家族の生き方全てを

ガードして生きる事、愛の定義は神の教え全体丸ごとを包括しているからです。

神が伝える愛の定義は100%行動です。思想やうんちくを唱える事ではありません。実際に生きる事。人として自分を他者の命を利益を健康を全ての面で神が伝える通りに保護しガードし生きる事、それがモーセの五書に書かれた愛の定義だからです。

 

モーセの五書のタイトル=題目、項目は10の言葉、十戒と言う

翻訳をしているそれです。その詳細がモーセの五書、特に申命記の中に完全版として書かれているのです。出エジプト20章。

その中に書かれた10の項目は、何々してはならない〜それは

神の性質に造られた自分の性質、生き様では無いからそれらを

するのはあなたの性質にマッチしないものである。

何々しなさい〜それらは、神の性質に造られた人の性質だから、

その性質通りに生きるのが本来のあなたの生き方ですと神が

伝えている内容なのです。それら神の仰せは人を縛る、呪いの律法で、歴史の途中で破棄されるべき一時的教えなのでしょうか?

しかも異邦人は神が聖別された記念日を勝手に却下、内容日程

変更してしまいました。神がしたのではなく、異邦人がしてしまったのです。

10の言葉を復唱する事をクリスチャンの中でする事がありますが、その時に注意深く考えて、神は神の言葉を変えない!と言う

大前提とはずれた教えやずれた実践があると気が付けば良いの

です。

神が伝える教えを離れては、神の意図する考え、教えは理解する事は不可能なのです。神が伝える愛、義、聖別の内容、そして神の記念日を生きる事に関して、それらは神から教えられなければ、人は理解する事は出来ない内容だからなのです。

 

今世界ではユダヤ人の中で多くの人がタナックに書かれた救い主が2000年前に来られたイエシュアである事実に遭遇する人達が大勢います。

彼らユダヤ人多くの人は家庭で、そして諸外国に育ってもユダヤ人学校に多くの人が行きますから、ヘブライ語でタナックを学校で学んでいるのです。そして家庭の中で宗教的な環境で育たなくても、シャバットや祭りを体験しているのです。

その人達がイエシュアに出会うプロセス、内容と異邦人のそれと

決定的に異なる事があるのに気が付きます。

 

ユダヤ人がイエシュアにどうやって出会ったのかそれぞれの話を聞いているととても興味深いものがあります。

トラーをしっかり学んでいる人ならば、福音書以降を読んだ時

マタイの最初の行を読んだだけで、そこに書かれているのは、

トラーである事、アヴラハム、イサク、ヤコブ、イスラエルの神イエシュアの系図が書かれている事に釘付けになるのです。

そして読み進んで行くうちに、福音書以降に書かれた内容が、

トラ−100%であるとはっきりと気が付いてしまうのです。

その様な発想は、トラーを学ばない知らない異邦人の中には全く無いものです。しかも異邦人はイエシュアに出会った後、神の

言葉だけを教えられるのではなく、人の思想=神学=宗教が作った教えを教えられてしまうので、聖書とは違う教えでもそれらが神の言葉教えだと言う聖書とは違う教えを刷り込み=インプリンテイングされてしまい、神の言葉聖書には本当は何が書いてあるのかを聞くチャンスを逃してしまうのが異邦人の世界の教えの

現状なのです。

イスラエルで、ヘブライ聖書だけを読み、西洋宗教の神学、教理など一切聞かず、シャバットや新月、春と秋の祭りを祝うイエシュアを信じる家庭で育った人達は、西洋宗教が語る様な発想、

思想がありません。

西洋宗教思想=イスラエルの神の性質、神の言葉が途中で変化する七変化の神と言う思想がまるでありません。それらは聖書に書かれているイスラエルの神、イエシュアとは違うからです。聖書に書いてある通り、神の言葉、神の性質は永遠不変とはっきり

理解しているのです。

ヘブライ聖書から純粋な神の言葉だけを聞く、学ぶ、ユダヤ人と

どこがどう違うのかその中に入ってみると違いが良く見えます。

人の神学、デイスペンセーション神学や、置換神学、神の人相や性格、神の言葉が歴史の途中で変化するなどと言う聖書では無い

教えを聞かされない人は、聖書に書いてある意味通りを学び続ければ何が聖書に書いてあるのか深く深く見えてくるからです。

異邦人でも、同じ様に聖書に書いてある通りをその通りに教えられさえすれば、ちゃんと神の意図した通りが理解出来るのです。

 

一方異邦人は、救い主に出会った最初から異邦人の世界の聖書

解説を聞いて、モーセの五書=古い律法を破棄するためにイエシュアが来られたと違う、聖書の記載とは矛盾するイスラエルの神像を教えられても1つも疑問にも思わないのです。

神の教えを破棄し、そして神のオリジナルの記念日を学び祝わないので、レビ記23章に記された神が伝える神の聖別された主の日がそれらであり、その記念日を通してイエシュアそのものが

教えられている事にも気がつけない。西洋宗教が語る教えが聖書に書かれている教えであると信じている、思い込んでいるからです。

 

続く