世界に伝えられ続ける非聖書的解説はどこから来るのか | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

福音書の中にあるイエシュアが語られた教えやたとえ話を通して

人に教えられている内容は100%父の言葉=モーセの五書に

記されたトラー=永遠不変の神の言葉、教えを語っているもの

です。

 

山上の垂訓と呼ばれるマタイ5−7章を読んで、それらがモーセの五書申命記に書かれたそのものを話しているなどとは、異邦人の世界では語られる事は無いと思います。

イエシュアが父の言葉を教えに来たと言われても、父の言葉=

トラー=モーセの五書の事をイエシュアが話している事は異邦人は全く気がつかないままイエシュアの言葉を読んでいると思いますが、ユダヤ人ならそこにいた当時の人達なら、イエシュアが

言う父の言葉=モーセの五書である事をはっきり理解してイエシュアの言葉を聞いていたのです。これが異邦人の耳に響く

イエシュアの言葉と、ユダヤ人達が聞いている内容との大きな

違いなのです。

 

イエシュアは父の言葉を破壊、破棄するために来たのではなく、成就=正しく教え伝え生きる事を教えるために来たと言われて

いるのです。翻訳を読んで、人の教えを聞いて、成就とは終了!

終わらせた!と考えているから、聖書に書いてあるその言葉の

意味がその通りの意味通りに全く響かない、いや当時のラビ達の慣用句でイエシュアが話している事は学ばないと見えませんが、破棄しない!と言う翻訳を聞いたら破棄と言う当時の慣用句の

意味を知らなくても、翻訳からでも神は神の言葉を破棄しないとどうして読み取らないのでしょうか?

でもこの箇所取って、モーセの五書は破棄するために来たと異邦人クリスチャンの世界では解説されているのです。真逆の解説。

悪霊が悪霊同士分裂したらそれは立ち行かないとイエシュアが

言われた通り、仲間割れ分裂の神=イスラエルの神が神に敵対したら神の国は立ち行かないのです。1つ1つ聖書に記された神の言葉の真実だけを繋げて考えないなら、人の教えに繋げて行くならそれは神が伝える真実、真理ではなくなってしまうので、不真実な教えを解説するために次から次へと人が考えた思想、教えが編み出し続けられる、それが宗教の教えと言うものの産物なのです。

聖書に書かれている意味とは全く違う解説、注解を異邦人クリスチャンの世界で語られるのが一般の教えとなってしまっています。

日本大百科全書の中にこんな解説がされていました。

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〈山上の説教〉ともいう。《マタイによる福音書》5~7章の通称で,この部分は5章1節と8章1節の状況説明によって,
〈山上で〉語られたイエスの説教とされているためこう呼ばれる。この場合,〈山〉は当時のユダヤ教においては,旧約聖書が伝えるシナイ山での律法授与のできごと(《出エジプト記》19章以下)以来,神からの啓示と律法が与えられる聖なる場所と考えられていた。したがって,〈山上の垂訓〉は史的事実というより,象徴的意味のもので,後80‐90年ころに福音書を著した人物マタイが,自分の読者であるキリスト教との共同体に向かって,旧約律法に代わり,その義に勝るべき新しい秩序(キリスト教的律法)を提示しようとしたものである。

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この赤字で記されている部分は、福音書以降に関して正確に解説しているものではないのですが、この様な解説を異邦人クリスチャンの中で一般にされているものと同じだと思います。

 

何が聖書とは異なるのか?もしこの百科事典の解説者が語る事に

基づけば様々な事が矛盾してしまうからです。

聖書に記されている著書は100%モーセの五書を指して全てを

話していると言う永遠の事実を全く無視した創作の思想、前提で

語っている事実があるのです。

1世紀、福音書以降に記されている人達の中で存在していた書は

タナック=モーセの五書、預言書、諸書のみであり、全ての人は

タナックだけを考えている、実践し、生きている事実しかないのです。イエシュアが指摘された当時のある一部の人達のトラーの解釈がズレていた事がありますが、そうであっても彼ら1世紀のユダヤ人、イエシュアを含め全ての人はモーセの五書を語り、

論議し実践しているだけなのです。

聖書に聖書を指して、聖書は霊感=聖霊により書かれたとあれば

その聖書とは100%モーセの五書、預言書、諸書のみを指して

語っているのです福音書以降が聖書ではないと言うことではなくそれらも神の聖霊により書かれたものですが、福音書〜黙示録の著者達に対しては100%、タナックのみしか存在していないのです。その当時福音書以降は一般の人に流通、読まれているものでもなく、聖書として認識もされていないのです。そして全ての聖書著者は100%タナックのみを指して神の言葉=”聖書”と書いている事をずっと考えたら事実が見えてきます。

この百科事典の解説にある、トラー=モーセの五書、ここでは

旧約律法と訳されていますが、モーセの五書に記された父の言葉=神の永遠不変の教え、その中に記された神が伝える永遠の事実神が教えている義の詳細とは別物が出現すると言うなら、それは

神の伝えているものとは異なるものになってしまいます。

神は最初から神の言葉の完全版しか人に伝えていないのです。

だから神の言葉は完全であると至る所に記されているのです。

完全なものが途中で不完全、一時的なもの、訂正変更されるべきものであり得ないと言う神の伝える事実のみから考えたら見えます。

人の定義した義は神の義とは異なるのです。だから人間が考え

定義する義、この箇所ではパリサイ派の一部の人が考え出した

彼らの中にある義の定義と神が伝える義の本来の意味、定義とは異なる事を話してるだけで、イエシュアが来られる以前にモーセの五書の中で伝えられた義の詳細が不完全なものであるなどと

考えているならば、神=イエシュアの伝えている父の言葉の意味が全く見えていないと言う事になるのです。

 

イエシュアは新しい宗教を伝えにこの地上に来たのではありません。神の国、神の言葉は人が作った宗教を生きる世界ではないからです。なぜ宗教になってしまうのかと言うと、イズム=人が編み出した教えを神の言葉の中に付け足し、本来の神の言葉、

教えとは違う性質の教えを作り出してしまうからです。

詰まり人の思想が混じったもの=それが宗教だからです。

 

神の言葉は純粋であり人が作った宗教にはなり得ない、変化しないのです。

だから人の考えた余計な教えが付け足されたもの、人が考えた

神の言葉とマッチしない非聖書的な神学や教理、解説、それらの障害物が完全に取り除かれないなら、この百科事典の解説者が

語る様な聖書の事実とは違う解説をこの様な媒体を通して不真実な教えを広く世界へ伝えてしまっているのです。

 

しかもキリスト教的律法とありますが、それは何なのでしょう?

そんな教えは聖書には無いのです。神の教えは途中で変化しない、トラー=モーセの五書=父の教えは永遠不変だからです。

全て100%モーセの五書に記された神の教え、神の伝える人間本来の生き方、神が伝える義、聖別の意味、契約の愛の詳細を

人は生きる時、本当のシャローム、神の性質そのもの=イエシュアが生きた性質を生きて欠けのない完全な状態留まり生きられる事しか、福音書以降では語られていないのです。

 

地上にイエシュア=救いが来られて、トラー、預言書、諸書に

記されている神の子羊の業を地上の人間が目で見て体験した、

神の宮=移動式神殿で表され教えられた神の臨在が、2000年前に肉体を取って人の所に生まれて来られた事、イスラエルの国で人であり、神である方が実際に歴史の中起きたことは、

2000年前初めて体験した事実です。

でもそれ以前に生きた人も、現代の人達の様に2000年前に

実際にイエシュアにイスラエルで出会い、触れ、話した事が無い人達も、見た事のない永遠から永遠にイエシュアの救いの業を

信仰により受け取る人達は2000年前に実際に目の前でイエシュアに出会い触れて話さなくても、同じ聖霊を内側に受けているのです。

 

だから歴史上の出来事を境に、神の業や罪の許しの規定や様々な教えが変わると考えていれば、永遠から永遠に変わらない、

永遠から永遠に人の間に住まう”イマニュエル”の神が最初から

聖書には記されていても、その事実が見えて来ないのです。

神の教えに有効期限や、教えを有効に作動出来る決まった時など無いのです。

2000年前に昇天して初めて罪の許しが与えられたのではなく最初から、永遠の中からそれは同じなのです。

そして、2000年前に昇天したから、モーセの五書=父の教えとは違う教えや、以前伝えていた生き方とは違う生き方をこれからはするのだなどと、神は人に1つも伝えていないし、福音書以降に登場する人たちでその様な異邦人西洋教父達が考え出した様な教えを考えている人、詰まり西洋宗教で教えられているモーセの五書を否定した新しい教えが出現したなどと考えている人は誰一人として存在などしていないのです。

もし新しい別の教えが出現するなら、神のトラー=シナイ山で与えられたモーセの五書、聖書は書き換えられなくてはならないと言うことを言っているのです。書き換えられた神の契約書など

この世には存在しない、神は神が最初から伝える教え=契約書とは違う書を2000年以降人に与えてなどいません。存在しない書、存在しない新しい別の教えを語っても無意味なのです。

 

設計図や楽譜、デジタルコードやその他諸々、これら全ては”

言葉”です。その人の中にあるイメージを物理的に具現化するための伝達手段=言葉です。

それらを考えた人が記したものとは違うものを付けたせば、

元の設計図と同じ建物や製品、作品は現われ出てきません。

神の言葉もそれと全く同じなのです。神が人に伝える通りそっくりそのままの意味が伝達されず、人の教えを混ぜてしまえば、

青であるものが、灰色になり、高い建物が低くなり、又は不協和音=人の教えで元の美しいメロデイや和音は響いて来なくなる

それが宗教と言う産物なのです。

 

神の教えは完全であり人間が手直し、変形する必要などないものであると神が人に伝えているのです。でも神の言葉は古い廃れた呪いの律法であると言う教えのおかげで、人間が勝手に色々な教えや儀式、記念日を編み出してしまったのです。

 

しかも、律法と言う本来のヘブライ語の意味を表していない、

不具合な相応しくない言葉、そして旧約聖書と言う造語のおかげで、神の言葉には古い、悪い、人を縛る呪いの教え、それらは

廃れるべきものであるなどと言う思想、発想を生み出してしまったのです。元々イスラエルの神の言葉、教えは異邦人に馴染みなく異物だった下地があるのです。だから西洋教父達は自分達には

馴染めない教えを全部排除したのです。

その様な異邦人が編み出した教えのおかげと、彼ら1世紀福音書以降が書かれた当時に生きていた人達は100%モーセの五書、預言書諸書しか読んでない、存在していないと言う事実が見えず、しかもイエシュアが使徒がパウロが教えていた事は100%モーセの五書であり、それ以外の変形された新しい教えなど無いと言う事実さえ見えず、福音書以降には別の違う教えが出現したと疑いもなく信じ込んでいるのが異邦人の教えの現状だと思います。

 

本当の福音、永遠に同じく変わらない神の言葉がその通りには

異邦人の教えの世界では伝わっていないと言う事にまず気が付く、それには聖書には何が本当に書いてあり何が書いてないのか=何が人の作り出した教えなのか、神の言葉に基づき見分ける

知識、識別力は必須なのです。

1世紀後半に居た様々な西洋教父達と同じく、異邦人がヘブライの神の言葉=トラー=モーセの五書に記された教えに抵抗感が

あるのは、それらは異教の神々の地に生きる異邦人には馴染みがない、異物、聞いた事もない、考えた事もないからです。

 

 

 

 

続く