グレゴリオ暦の2023年になりました。この暦に於ける新年の1月1日のお正月なるものを盛大に祝うのは世界では日本くらいだと思います。海外では2日から普通に仕事、学校と言う所が
一般的です。
アジア圏の国々、韓国、中国、タイ、シンガポール、ベトナム、
マレーシアなどが、陰暦の旧正月を祝います。
今年2023年は1月22日が元旦と言う事になります。
聖書の暦は12ヶ月で、1ヶ月の日が29日、30日、閏年の月がありシェバット=第11月とアダル=第12月の間に13ヶ月になる様に1月が余計に足される事になります。
日本はアジア圏なのに旧正月を今は祝う風習が無くなりました。
でも明治維新の前までは日本では旧暦を使い、旧正月を祝わっていました。ではいつそれが変えられたのでしょうか?
1872年=明治5年の11月19日に日本政府が旧暦から新暦
に変更すると言う通達をして、1年を365日とする太陽暦を
導入し、旧暦の明治5年12月3日が明治6年の1月1日であると決定しました。
その後陰暦による風習や暦は廃れて行ったと言う事です。
日本で学校と言うものの前身は江戸時代の寺子屋、藩校、私塾
でしたが、それらの学び舎には当時はいつでも入る事が出来た
そうです。現在の日本で塾やお教室にいつでも入れると言うのと
同じシステムです。
同じく明治時代にはドイツ、イギリスの例にならい、9月入学が
一般に行われていました。明治19年に始まった東京帝国大学も
9月入学だったそうです。
ではなぜ9月入学が変更されたのでしょうか?
それは当時の徴兵制の改正が理由だったとあります。
徴兵対象者=満20歳男子の届け出期日が9月1日から4月1日に決められ、これに伴って教育制度も、4月入学を導入したそうです。
以前に存在した暦が変更になり、違う日に正月、入学、又は企業も4月入社になったと言うのが日本のシステムだった事がその様な理由であった事が分かります。
それと全く同じく、神の創造された記念日=モアデイム=アポイントメントの日=定めの日、シャバット、新月、そして春と秋の都上りの祭り=ハギムは、神の言葉、教えによれば永遠不変に
祝われるものであるのに歴史の途中で、上記の日本の中の暦変更と同じく、異邦人、西洋人が神の記念日の内容、意味、中身、
主旨を変えてしまったからなのです。
イスラエルの神は神の言葉、教え、記念日を永遠に変えない!!!と言うのが神ご自信の口から伝えた永遠の事実です。
そして異邦人の手により変えられたもの、これは4世紀以降に
広がって行ったローマ教の教えですが、宗教の教えが異邦人の
世界に浸透し、伝統で実践され継承され続け今に至ると言うのが
本当の真相なのです。
聖書とは異なる教え。1 神が神の言葉教えを昇天以降変えた
2 神の言葉を人が仕分けて良い 3 どの日でもその人が決めるならそれが神の記念日=主の日=聖日になる。
日本人でも自分はこの日が正月!と勝手に決めて別の日に祝ったとしても、それはお正月ではないから誰も祝わないし、意味が
無い事になります。
この様な教え=神の言葉が違う教えになった、神の記念日が別のものになった、もしくは人が考えた日、内容で良いと言う教えは聖書とは全く関係の無い、聖書が閉じられた後に異邦人が勝手に考えて作り出した教えなのです。
日本人がどうして1月1日に正月を祝う様になったのかと言うのと同じで、1872年に日本で使用していた旧暦を新暦に変更した為に、陰暦の正月として祝われていたものを、新暦の1月1日に変更したからだと言う事と同じです。
日本の国の文化、風習に於ける事なら変更があっても問題は無いですが、イスラエルの神の国=天で永遠の中から定められている
神の教えや記念日を人間が勝手に変える事を神は許可していない
断固として禁じていることが聖書に書かれた本当の真実です。
神の教えを変えたら人は神が伝えている本当の意味を知らないまま理解しないまま誤解し、様々な教えに解釈し、宗教の教えを
編み出して続けてしまうからです。
モーセが神の臨在が宿る神の家を地上で作る上で、神がその詳細内容を細部に渡り事細かに伝えた理由は、天に存在する神の家を地上でそっくりそのまま正確に反映させるものを作る為なのです。神の意図通り、事実通りを地上で再現する為。
その事からも理解出来る内容は、神が伝えた通りを人は神が言われた通りに再現し表現し生きて表す事、人の教えで濁った、曇った鏡は、神が伝える通りを正しく正確には反映することが出来なくてなってしまうからです。
異邦人の中に巣食う一番の問題は、神の言葉を神が伝える通りに理解し取り扱ってはいない事です。口では神の言葉は永遠不変、永遠に堅く立つ、イエスキリストは昨日も今日も永遠に同じ、
変わらないと告白しながら、同時にそれとは違う実践を行なっている矛盾に全く気がつかない事です。その矛盾に全く無感覚になる、何も考えず聞かされている教え=変化する神、変化する神の言葉と言う人が考えた思想を鵜呑みにする理由は、神の言葉が
廃れた=呪いの律法=人が生きられない古い教えに縛られていた状態から人を解放する為にイエスキリストが来られた!などと
とんでもない誤解をしているからです。
神の言葉〜人を神と繋ぐ命綱、鎧兜、道を照らす光、指針、教え
インストラクションなのにそれを捨てたらどうなると神は人に
言われましたか?破壊される、迷い出る、何をどう生きる様に
神に伝えられているのか自己流解釈になる、自分が誰か分からなくなる、イスラエルの神がどんなお方か見えなくなるのです。
だから宗教が語る変化する、変身する神、約束を翻す神、怒りの神、恵みの神、又は時代ごとに7面相の神像=イスラエルの神が紹介する神像とは全く違う神像を作り出して人に紹介し語って
いるのです。
イエシュアがどの時代の人も贖いの血潮=子羊の血=救い=イエシュアが与えられた事実があり、そして贖われて神の子らとされた人は神の伝える神の性質通り=トラー=モーセの五書に書かれた神オリジナルデザインの人間の性質を生きる!と言う事に戻れる事なのです。
聖書で伝えているのは、”律法の呪いの下”=モーセの五書=
トラーに記された的外れ=ずれ、罪の奴隷の法則に生きる事から
解放されたのであると書いてあるのに、それを神の言葉=教え
呪いの律法を生きる義務から解放されたなどと読み違えているので、神の教えがあたかも悪いもの古いもの廃れるべきものと
言う意識をがっちり刷り込まれ続けてしまっているのです。
福音書以降には、モーセの五書に記された1つ1つの神の教えの
全てなど書かれていません。かけ算のルール、成り立ちを知っている生徒にそれ以上の内容を解説する場合に、いちいち、2にんが4、2、3が6などと復唱させないのと同じです。
トラーを知っている前提でイエシュアや弟子たちが話している。
それでなかったら”禅問答”のごとく何を話しているのか分からないのです。ヨハネが見よ!神の子羊!と言った言葉は、タナックに書かれた救い主=子羊の血の贖いの業をされた方が地上に来た
と言う知識がそれを聞いた人々の中にはあったからです。
福音書以降に書いてある内容は、モーセの五書に記されたある一部を説明解説しているだけなのです。だからイエシュアはモーセの五書全部を復唱などした記録は福音書以降には書かれていませんが、ユダヤ人なら毎週シャバットで彼らは家にトラーの巻が
個人所有などしていないので、街囲み、コミュニテイの場所に集いトラーを朗読し学んでいたのです。異邦人にはその様な下地=神の言葉を一年に渡り学び続けると言う体験や教育が無いのでその箇所だけ読んでもモーセの五書に書かれた何をイエシュアが弟子が、又は書簡の中で語られているのか見えないだけなのです。
そして大きな誤解は、福音書以降、特に昇天以降、聖書には
モーセの五書とは違う教えが記されていると考えている事です。
これが聖書とは違う教えであると言う事実さえ見えてくれば
聖書に書かれた内容が全く違うもの、異邦人の世界で語られている解説が聖書とはズレている事、そしてパウロが使っている言葉の意味、1世紀当時の世界にあった様々な宗教上での人の作った
教えが神の教えを生きる上で妨害している事をパウロが話している事にも気が付いて行きます。
神の言葉が破棄されたと言う異邦人の思想のおかげで、聖書に
書かれている内容が見えなくなってしまっています。
それは神の記念日、シャバット 、新月、過越や、仮庵の祭りの
意味を学ばない、さらには実践しないから聖書に記されたこの
イエシュアの過越の祭の最後の晩餐で語られていた事、晩餐の
儀式は何を意味して行われてたのか見えないのです。
イエシュアが勝手に処刑される前の晩、過越の晩餐の儀式を編み出したのではなく、長い年月ユダヤ人はこの様に過越の晩餐を
祝っていたのです。
マッツア=種無しパンと食後のワイン=三杯目の贖いの杯の意味
は出エジプトの出来事から回想して皆で出エジプトの出来事を
回想するのが過越の夜の晩餐の過ごし方だからです。
出エジプト6:6 それゆえ、イスラエルの人々に言いなさい、
『わたしは主である。わたしはあなたがたを 1)エジプトびとの労役の下から導き出し、 2)奴隷の務から救い、また伸べた腕と大いなるさばきをもって、あなたがたを3)あがなうであろう。
6:7 わたしはあなたがたを取って4)わたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。わたしがエジプトびとの労役の下からあなたがたを導き出すあなたがたの神、主であることを、あなたがたは知るであろう。
この中に記された4つの実態を意味して、4つの杯として過越の晩餐=順序=セダーと言う晩餐の中で皆でこの事実の内容を話し合い、再現し子供達にも教え、神がされた業の事実に関した食べ物を食べて祝うのが過越の祭なのです。イエシュアがされていた当時のパリサイ派流の儀式の意味を教えられ、実際に祝わない時には聖書に記された様々な意味がよく見えないままただ読んでいました。イエシュアが掲げたワインの杯は三杯目の杯=贖いの杯
と呼ばれるものです。どうして分かるのか?それは過越の事実を
表す食べ物を頂いた後=食後に飲むものが三杯目の杯=贖いの杯
だからです。
だから聖書に記されているこの儀式はローマ教が決めた様に毎月最初の日曜日に行うものではなく、春の過越の祭を迎え祝う時に行われているものなのです。ある儀式にはある意味があるものなのです。毎日やる儀式毎週やる儀式、特別な記念日にやる儀式、それぞれに意味があるのです。日本人もお正月の元旦におせち
料理を食べお屠蘇を飲んだりする、これは毎週、毎月やるものではないのです。例え同じ食べ物を食べたとしてもそれは特別な
意味合いを持たない、違う意味になるものと言う事と同じです。
神の定めらた時に、皆で同じ事、同じ意識で祝ってこそ、その中に主は居られると言う事になるのです。神のみ言葉、み旨、神の
仰せを愛し実践する、神は神の性質通りを反映する中に現れ出る
と伝えているからです。地の塩、世の光と言われた意味を理解すれば、神が伝えた事と違う事を生きれば、塩は塩けを失い、
光はぼやけて暗く真実が見えなくなってしまいます。
聖書に記された元の意味、様々な儀式が西洋人=異邦人の手に
より変形されてしまいオリジナルの意味、神が伝えている意味の
全貌が見えない、通じなくなってしまっているのです。
続く