荒野 この世の旅路 仮庵 イエシュアの中に住まう事 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

人は神が創造されたエデン=喜び=神の中に住まう事を飛び出し、神との隔たりの中に入り込んでしまいました。

 

神の伝える”神の似姿に創造された人”の知識を失い、真理から

迷い出て、別の顔=偽の教え、自己像、価値観、人生目標を聞いて生き続けています。贖い出された人達は、奴隷状態=別の教えに洗脳、汚染された思考回路、行動、生き方の全てを切り替える旅路が荒野の40年で表されています。

 
40と言う数字、命のサイクルでもあります。
40日40夜、40年、そして命の誕生も40週。
12部族とそしてこの中に異邦人も加えられているのです。
彼らエジプト=奴隷であった、エデンの園を出て神に造られた
自分の自己像を失ったので、人はどの様に生きるのか1から全て
神から教え直される事が必要だったのです。だから40年の荒野=神の声だけを聞く、荒野にある別の声=偽物、サタンの囁きと区別し神の声を取り生きる訓練が必要だったのです。
エジプトを出たイスラエルは荒野で宿営します。
仮の宿=仮庵で過ごしたのです。
私達イエシュア=子羊の血で贖い出された一人一人も全く同じ。
この世の旅路で、仮庵=イエシュアの中に住まい、神の声を聞いて、聞いて生きる訓練を1から、日々教えられているのです。
 
神の時、暦は全て円です。サイクル。線上ではなく円。
永遠の中にある完了の業、円のどの場所からも中心にアクセス
出来るのです。神の定めの日も円、サイクル。
1年と言うサイクルそして全ての円の中心はシャバット。
神の完了の業から人は生きる様に造られているからです。
神のデザイン通り、神が造られた意図通りを生きる様に神が
創造されたからです。
荒野の宿営の中心に神の臨在があります。
これも絵画的教えです。
この世界の全ては神=創造主=イスラエルの神から発生、神の
言葉により造られ、全ては神のものであり、神の守り、支配の中
にあり、神を中心に世界の全てが繋がって生きる様に創造されて
いるからです。
荒野、荒野に住んだイスラエルと異邦人の旅路で表される様に
この世の旅路を生きる全ての人、神に贖い出された人は同じ
荒野の旅路とそして仮の宿=仮庵に住み、神のプランで移動して
生きる、この事実は万人に共通な事実です。
神に創造された人はどの様に生きるのか、その知識を失ったエデンを飛び出した全ての人は、神により全てを1から教えられる
必要があったからです。これは全ての人に共通の真理です。
それが贖い出された人の人生の旅路、仮庵の中に住まった事で
教えられているのです。
吹けば飛ぶ様な仮の宿営のテントで荒野の人生を過ごした。
でもその生きる現実は日々神の手から全てが供給され、
何1つ欠ける事なく、安全に命を支えられた。
仮の宿に住むけれど、実はイエシュア=天の現実の中に存在している事を教えているものです。そしてやがて人生の終わり、人類
歴史の終わりが来て、新しい時代に入る。
やがてイエシュアが統治する永遠に終わる事のないエデン、
新しいエルサレムが地上に降りて天と地が一つになる時が来る事を仮庵の7日目の後の8日目の記念日でも表されています。
 
人はエデンの園を出て神のトラー=教えを失い、自分の好きな
考えに沿って生きて来ました。神の言う事ではなく、自分の考えの方を尊重する代償が書かれています。
 
レビ記10:1 さてアロンの子ナダブとアビフとは、おのおのその香炉を取って火をこれに入れ、薫香をその上に盛って、異火を
主の前にささげた。これは主の命令に反することであったので、

 10:2 主の前から火が出て彼らを焼き滅ぼし、彼らは主の前に

死んだ。

10:3 その時モーセはアロンに言った、「主は、こう仰せられた。すなわち『わたしは、わたしに近づく者のうちに、わたしの聖なることを示し、すべての民の前に栄光を現すであろう』」。アロンは黙していた。

10:4 モーセはアロンの叔父ウジエルの子ミシヤエルとエルザパンとを呼び寄せて彼らに言った、「近寄って、あなたがたの兄弟たちを聖所の前から、宿営の外に運び出しなさい」。

10:5 彼らは近寄って、彼らをその服のまま宿営の外に運び出し、モーセの言ったようにした。

 10:9 「あなたも、あなたの子たちも会見の幕屋にはいる時には、死ぬことのないように、ぶどう酒と濃い酒を飲んではならない。これはあなたがたが代々永く守るべき定めとしなければならない。

10:10 これはあなたがたが聖なるものと俗なるもの、汚れたものと清いものとの区別をすることができるため、

10:11 また主がモーセによって語られたすべての定めを、

イスラエルの人々に教えることができるためである」。

 

天から下った火は人の手で起こした火ではない、神から出たものです。この移動式神殿=ミシュカンが起動した時に、初めて

アロンの子らが自らの手で起こした異火で神殿の祭壇に
捧げ物をしようとした事で死んでしまいます。
最初から、神の言う通り、神以外の異物を神の家の中に持ち込んではならなかったのに、どうしてその注意を無視したのか。
しかも大祭司の家系であるアロンの子らがしてはならない行為でしたのです。なんで?”危険”と表示があるのに敢えて触れる、
近く事と同じ行為をしたのです。
アロンの子らの理由や動機は書かれていません。彼らがどうして亡くなったのか。大祭司である人からしてその様な意識であった
神が禁じる事、神の家を汚す行為、別の顔を神の家に持ち込んではならない事を全ての人がはっきりと知らないとならないからでした。人の目には大した事ではなくとも、神が伝える聖別は
人の道徳心や、感覚、判断では知り得ない領域を神が人に教えているのです。神に聞き、神が言われた通りを受け取り、言われた通りを人は生きる以外神の伝える真理は見えない、理解出来ない内容を神が人に伝えているからなのです。
 

この箇所を取って異邦人クリスチャンの中で創作話が作られて、伝統的に語り継がれ、あたかも聖書に書かれた事実であるが如くに信じられている都市伝説があります。それは人の創作の完全なる作り話!であると言う事をまず知っておかないとならないのです。

 

この箇所を取り出して、大贖罪日=ヨムキプルに至聖所に入る

アロンの家系、系図の大祭司の衣の裾に鈴を付ける、そして

長い紐を付けて、万が一至聖所の中で違反した行為をして亡くなった場合に、その紐で引っ張り出すためと言う伝説です。

至聖所の中に他の人が入れない、入ったら死ぬ!などと言うのです。アロンの子らを取り出したのはレビ族アロンの家系大祭司の

人達でした。紐なんて付けてアロンの子らを引き出しませんでした。

でもそれは聖書に記載された真実ではないのですが、伝統でその

話が伝達し続けられています。

第一、大祭司はヨムキプルには普段の藍色の上着は脱いで、白い

シンプルな服にミクバ=神殿の中にある洗礼池を潜った後着替えるからです。そして、裾にも鈴など付いてません。長い紐など

腰に付けません。人の創作話と聖書の事実が混線している良い例

だと思います。

通常の大祭司の服装。12部族の印が入った胸当て。

大贖罪日の大祭司の服装。

第一、アロンの子らが死んだのは神の言う通りにしなかった=

詰まり聞いた事と違う違反行動を神の至聖所でしたと言う事です。

何をしなければいけないのか知っていたのに、神が伝えた事とは違う事を敢えてしたのです。ここに大きなヒントがあります。

聞く=シャマ=聞いたら言われた通りを理解して行動するから、従うをと訳されていますが、本来はシンプルに聞く。神の言われた事を言われた通りに聞かない場合=そうです。別の顔を置いて神の言葉を変形させ行動するなら、神が言う事とは違う異火を神の前に持ち出し拒絶されてしまう事が書かれているのです。

 

神が言う通りではない事を敢えてする、それらはどんな動機で

あるとも神に属さない別物異物であるからです。なんでも受け入れる、2000年以降はどんな罪も許されると聖書ではない教えを信じていたら見えない、神が伝える教えの世界があるのです。

 

大祭司は人に神の言葉、教えをそのまま教える役割があるので

人一倍罪=ズレを犯す可能性があります。だから大贖罪日には

大祭司は神殿に入る前に牛を捧げたのです。昇天以降も神殿が

存在し機能していた70ADまで何も変わらず同じく大贖罪日を神殿で行っていたのです。大祭司は一番大きな捧げ物をしなくてはならない、だから雄牛なのです。覆うべきズレが大きい事を

表しているのです。教える人達は自分自身だけではなく他者をも誤りに導いてしまう可能性がある責任重大な任務、責任、役割を負わされているからです。

人が何をしても神が何も言わない様に見える、それは神の忍耐が

長いからです。イスラエルも1000年近くも高き所=混ぜ物の

礼拝をしていても何も止められる様子はなかった。高き所を取り除かない王達もいた、神殿建設をしたソロモンでさえ高き所、

混ざった思考回路を取り入れていたのです。最後には異教の神々に仕える女性達に惑わされてしまった悲しい結末が書いてあるのです。その様な混ぜ物の教えを取り入れる危険を最初から最後まで聖書は警告している訳なのです。

 

聖書の記述を曲げて作り話を創作すると言うのは無数にあるのです。だから聖書に何が書いてあり、何が書いてないのか、何が

神の顔=神の言葉であり、何が別の顔=人の教えなのかの区別を

聖書の記述からはっきり知る事、それは神の言葉ではない伝説や

人の教え、神学、教理に神の顔=本物の神の言葉の教えを

すり替えられ真理を自分の中から剥奪されないためです。

 
荒野の仮の宿営 仮庵。
全ての人はそれぞれの部族で分かれても皆神のミシュカンに向いているのです。そして全ての人は神の栄光=神の目を通して互いを見る再学習をさせられたのです。神が伝える人間の本当の姿を互いに知りそれを生きる、学習しなくてはならないからです。
この下の絵は分かりやすいですね。神のミシュカン=臨在に全ての人が向き合う。互いも向き合い円になり住まう。
荒野は昼間は暑い。雲の柱で影が出来て休まる。
この柱が動くと人は移動し、止まると止まった間ずっと同じ
場所に宿営したのです。一週間?1ヶ月、2ヶ月期間は告げられない。雲が動き出したら移動する、神が言う通り生きると言う事を全部の人が共に学んだ40年の荒野の生活。でも全ては神から与えられ、サンダルも洋服も剃りきれなかったと神が言われた
不思議な現象があったと記されています。