人は神が創造されたエデン=喜び=神の中に住まう事を飛び出し、神との隔たりの中に入り込んでしまいました。
神の伝える”神の似姿に創造された人”の知識を失い、真理から
迷い出て、別の顔=偽の教え、自己像、価値観、人生目標を聞いて生き続けています。贖い出された人達は、奴隷状態=別の教えに洗脳、汚染された思考回路、行動、生き方の全てを切り替える旅路が荒野の40年で表されています。
10:2 主の前から火が出て彼らを焼き滅ぼし、彼らは主の前に
死んだ。
10:3 その時モーセはアロンに言った、「主は、こう仰せられた。すなわち『わたしは、わたしに近づく者のうちに、わたしの聖なることを示し、すべての民の前に栄光を現すであろう』」。アロンは黙していた。
10:4 モーセはアロンの叔父ウジエルの子ミシヤエルとエルザパンとを呼び寄せて彼らに言った、「近寄って、あなたがたの兄弟たちを聖所の前から、宿営の外に運び出しなさい」。
10:5 彼らは近寄って、彼らをその服のまま宿営の外に運び出し、モーセの言ったようにした。
10:9 「あなたも、あなたの子たちも会見の幕屋にはいる時には、死ぬことのないように、ぶどう酒と濃い酒を飲んではならない。これはあなたがたが代々永く守るべき定めとしなければならない。
10:10 これはあなたがたが聖なるものと俗なるもの、汚れたものと清いものとの区別をすることができるため、
10:11 また主がモーセによって語られたすべての定めを、
イスラエルの人々に教えることができるためである」。
天から下った火は人の手で起こした火ではない、神から出たものです。この移動式神殿=ミシュカンが起動した時に、初めて
この箇所を取って異邦人クリスチャンの中で創作話が作られて、伝統的に語り継がれ、あたかも聖書に書かれた事実であるが如くに信じられている都市伝説があります。それは人の創作の完全なる作り話!であると言う事をまず知っておかないとならないのです。
この箇所を取り出して、大贖罪日=ヨムキプルに至聖所に入る
アロンの家系、系図の大祭司の衣の裾に鈴を付ける、そして
長い紐を付けて、万が一至聖所の中で違反した行為をして亡くなった場合に、その紐で引っ張り出すためと言う伝説です。
至聖所の中に他の人が入れない、入ったら死ぬ!などと言うのです。アロンの子らを取り出したのはレビ族アロンの家系大祭司の
人達でした。紐なんて付けてアロンの子らを引き出しませんでした。
でもそれは聖書に記載された真実ではないのですが、伝統でその
話が伝達し続けられています。
第一、大祭司はヨムキプルには普段の藍色の上着は脱いで、白い
シンプルな服にミクバ=神殿の中にある洗礼池を潜った後着替えるからです。そして、裾にも鈴など付いてません。長い紐など
腰に付けません。人の創作話と聖書の事実が混線している良い例
だと思います。
通常の大祭司の服装。12部族の印が入った胸当て。
大贖罪日の大祭司の服装。
第一、アロンの子らが死んだのは神の言う通りにしなかった=
詰まり聞いた事と違う違反行動を神の至聖所でしたと言う事です。
何をしなければいけないのか知っていたのに、神が伝えた事とは違う事を敢えてしたのです。ここに大きなヒントがあります。
聞く=シャマ=聞いたら言われた通りを理解して行動するから、従うをと訳されていますが、本来はシンプルに聞く。神の言われた事を言われた通りに聞かない場合=そうです。別の顔を置いて神の言葉を変形させ行動するなら、神が言う事とは違う異火を神の前に持ち出し拒絶されてしまう事が書かれているのです。
神が言う通りではない事を敢えてする、それらはどんな動機で
あるとも神に属さない別物異物であるからです。なんでも受け入れる、2000年以降はどんな罪も許されると聖書ではない教えを信じていたら見えない、神が伝える教えの世界があるのです。
大祭司は人に神の言葉、教えをそのまま教える役割があるので
人一倍罪=ズレを犯す可能性があります。だから大贖罪日には
大祭司は神殿に入る前に牛を捧げたのです。昇天以降も神殿が
存在し機能していた70ADまで何も変わらず同じく大贖罪日を神殿で行っていたのです。大祭司は一番大きな捧げ物をしなくてはならない、だから雄牛なのです。覆うべきズレが大きい事を
表しているのです。教える人達は自分自身だけではなく他者をも誤りに導いてしまう可能性がある責任重大な任務、責任、役割を負わされているからです。
人が何をしても神が何も言わない様に見える、それは神の忍耐が
長いからです。イスラエルも1000年近くも高き所=混ぜ物の
礼拝をしていても何も止められる様子はなかった。高き所を取り除かない王達もいた、神殿建設をしたソロモンでさえ高き所、
混ざった思考回路を取り入れていたのです。最後には異教の神々に仕える女性達に惑わされてしまった悲しい結末が書いてあるのです。その様な混ぜ物の教えを取り入れる危険を最初から最後まで聖書は警告している訳なのです。
聖書の記述を曲げて作り話を創作すると言うのは無数にあるのです。だから聖書に何が書いてあり、何が書いてないのか、何が
神の顔=神の言葉であり、何が別の顔=人の教えなのかの区別を
聖書の記述からはっきり知る事、それは神の言葉ではない伝説や
人の教え、神学、教理に神の顔=本物の神の言葉の教えを
すり替えられ真理を自分の中から剥奪されないためです。





