この世の旅路 仮庵 荒野 1コリント10章 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

仮庵の祭りも半分過ぎました。仮庵、エデンの園を飛び出て

神と直接に顔を合わせる場所から出て、隔たりの中に入ってしまった全て人類は、神の元にどう戻るのかを様々な事を通して教えられています。その中心はイエシュアであるのですが、その詳細は、神の教え、神の福音=記念日で表されるイエシュアの業で

教えられているものです。

 

仮庵に住まう=出エジプトした人達が荒野で仮庵=仮の住まいに住んだこの世の寄留者であった、これは全ての人に共通の事実です。そしてイエシュアの中=この世の旅路で既に天の現実の中に

入れられていたのです。

人の子は枕する所が無い=この世では確実、安全、永遠、絶対に

続く安定的な状態で住まう事がないからです。

様々な事が起きて、この世の旅路を行くからです。

仮庵〜吹き飛ぶ様なこの世の住まいに在るけれど、実は今贖い出された人達は天の現実の中、見えない神の中に住まっている事を教えています。そしてやがて新しいエルサレムが来る、天と地が1つになりエデンの中に皆が住まう日が来る。誰も主を知ろうと言わない世界がやがて来る事が預言されています。

 

パウロは、異邦人の世界で解説される様な、モーセの五書を否定し新しい教えを人に伝えた人物などではありません。

聖書にはモーセの五書=トラー=婚姻契約を終わらせ、神の言葉を否定し教えをする聖書記者=預言者は一人も存在していない

事実があるのです。その事実からだけ聖書を読み直せば、神が

伝える永遠不変の真実が見えて来る事を必ず発見します。聖霊が真理の中=神の言葉の中に留まり探り求める人には真実を明らかに神の言葉から教え示して下さるからです。問題は、真実ではない=神の顔とはべつの顔=神の語る言葉ではない人の教えが混ざったもの、壊れた鏡に映し出すので、別物の教えの中を探り続け、本物を見えなくさせられている事なのです。

最初の警告、エデンの園の蛇の騙しは別の顔=偽の声を聞き、

本物の神=本当の羊飼いの声を遮られたから、神は神の顔の上に

別の顔を置いてはならない!!!と警告されたのです。

 

パウロが、100%モーセの五書だけを教え、解説し、生きていると言う事実に立ってパウロが語るトラーの解説を読み直して

見れば、そこには100%トラー=神の永遠不変の教えの真実

知恵が語られている事を発見します。

 

パウロが語る信じる人全ては同じ出エジプト、荒野での旅、

そして仮庵の中に住まい、やがて地上に来られる王の王、主の主

神の統治の世界、アヴラハムもまだ見ぬイエシュアの日を信じ

信仰の目で見て喜んだとある内容がずっと語られています。

 

1コリント 10:1 兄弟たちよ。このことを知らずにいてもらいたくない。わたしたちの先祖はみな雲の下におり、みな海を通り、

0:2 みな雲の中、海の中で、モーセにつくバプテスマを受けた。

10:3 また、みな同じ霊の食物を食べ、

 10:4 みな同じ霊の飲み物を飲んだ。すなわち、彼らについて

きた霊の岩から飲んだのであるが、この岩はキリストにほかならない。

最初から同じ救い=イエシュアを全ての人が受けた事実を

パウロが語っているのです。出エジプトする前に生きたアヴラハムも、エデンの園を飛び出した、アダムとハワ、そしてカインとアベルも同じ1つの神の永遠不変の言葉、教え=トラーを神の口から直接聞いて教えられていたのです。神が創造した人の性質は進化変化しない、神も進化変化しないからです。どの時代も、

どの人種、人でも神の教えをそれぞれがどれだけ理解していたのか、いないのか?の違いがあるだけなのです。

だから、カインは神へ近づく時に捧げるコバンに対してのズレた

事、動機があったからそれは神の意図にぴったりそぐわない!

と神に拒絶されてしまった事でもクリアにその事実が見えます。

神が伝える通り、神の意図を理解している、神の目から見る事を

学習し続ける=良い地にまかれたタネ。良い地=神の言葉、教え

を理解する頭脳とヘブライ語では書かれています。

頭脳=地で表しているのです。岩、いばらおどろだらけの固い地と柔らかく農作物の種が植わる準備の整っている地の違いを見ても理解出来るでしょう。神の言葉が頭脳に根付かない実らず枯れる。神の言葉が人の頭脳に植わり、神の意図通りに神の教えを

耕しガード=生きれば豊かな実がなる。>

 

10:5 しかし、彼らの中の大多数は、神のみこころにかなわなかったので、荒野で滅ぼされてしまった。

<カインと同じ思考回路、態度の人々が荒野の最初の世代の中

に大勢居たのです。事実ヨシュアとカレブ以外、割礼された頭脳=神の目から見る再学習を取得した人はいなかったと書かれています。

御心にかなわない=神の言う事を理解し学習しない、神の声だけを聞いて生きる訓練の荒野に連れ出され、その旅路で仮庵=イエシュアの中に住まう体験をしたのに。問題にぶつかる度に全てを神から供給され、神がその中に居られて、神の声を聞いて生きる

天から直接降るマナで全ての工程を養われたのに、尚も神の現実

神の言う事を頭脳に留めず学習して生きなかった=みこころにかなわない生き方をした最初の世代。エジプト=偽の神々の教えに

洗脳されたまま、体は出エジプトしても頭脳は奴隷のままエジプトに存在したままの人達。割礼の無い頭脳では約束の地、神の国

神の中に住まい神の国を治める事は不可能だからなのです。>

 

10:6 これらの出来事は、わたしたちに対する警告であって、

彼らが悪をむさぼったように、わたしたちも悪をむさぼることのないためなのである。

私たちへの同等の警告!神の言葉は変化しないからです。

そして、悪を貪る、悪とは道徳的な悪だけでなく、神の伝える

全ての教え〜それらが神の意図から外れている事を悪=ラーと

ヘブライ語では意味するものです。だから様々なつぶやき、不信仰、不満、その他、頭脳の中に偶像礼拝=他の教えが潜み、神の伝える聖別を学ばない頭脳、全ての領域で神の性質を学び知らないなら、それは神が創造した人間の性質、姿を生きれないと言う事だからです。詰まり、神の言う言葉に注意を払わない生き方です。神の言葉は終了!と言うその声も悪=ラーそのものです。

神の意図からずれた教えだからです。

荒野の生活の最初で大祭司の家系、大祭司であるアロンの息子達も、神の言う事に敢えて逆らい、神の言われていない自分勝手な行動=自分の手で起こした異火で、神の祭壇に捧げる神の火に付け加え、神を礼拝しようとした、しかも全ての人の前でその様な事を大祭司が行ったのです。ヤロベアムの罪の性質と同じ罪。

この問題の根はエジプトで学んだ偶像礼拝=別の顔=自分の考え中心=神の言う通りをそのままする!と言う意識が全く無い=金の子牛でイスラエルの神を拝み、神の祭りを祝おう!と言った人達と全く同じ意識です。そんな意識の人が、神の家=聖別を教える、神の教えを教える役割の一番トップ=イエシュアをリプリゼント=天の大祭司の教えをそっくりそのままイエシュアの地上の代理としてイエシュアの実態を教える役割など出来ない事になるのです。

10:7 だから、彼らの中のある者たちのように、偶像礼拝者になってはならない。すなわち、「民は座して飲み食いをし、また立って踊り戯れた」と書いてある。

10:8 また、ある者たちがしたように、わたしたちは不品行をしてはならない。不品行をしたため倒された者が、一日に二万三千人もあった。

10:9 また、ある者たちがしたように、わたしたちは主を試みてはならない。主を試みた者は、へびに殺された。

10:10 また、ある者たちがつぶやいたように、つぶやいてはならない。つぶやいた者は、「死の使」に滅ぼされた。

10:11 これらの事が彼らに起ったのは、他に対する警告としてであって、それが書かれたのは、世の終りに臨んでいるわたしたちに対する訓戒のためである。

10:12 だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。

10:13 あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。

神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。

10:14 それだから、愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。

10:15 賢明なあなたがたに訴える。

わたしの言うことを、自ら判断してみるがよい。

10:16 わたしたちが祝福する祝福の杯、それはキリストの血に

あずかることではないか。わたしたちがさくパン、それはキリストのからだにあずかることではないか。

 10:17 パンが一つであるから、わたしたちは多くいても、一つのからだなのである。みんなの者が一つのパンを共にいただくからである。

<パウロはここでパンと語るのは、過越の祭のマッツア=種無しパンの事です。種無しパン=罪、要らないものがそぎ落とされた

人を表す、過越の祭=種無しパンの祭の7日間で食する特別な

マッツアの事を話しているのです。イエシュアの贖いの業、

永遠から完了し終了し用意されている、どの時代の、どの人種の人でも受け取れた同じ贖い、救いの話をしているのです。>

 

10:18 肉によるイスラエルを見るがよい。供え物を食べる人たちは、祭壇にあずかるのではないか。

10:19 すると、なんと言ったらよいか。偶像にささげる供え物は、何か意味があるのか。また、偶像は何かほんとうにあるものか。

10:20 そうではない。人々が供える物は、悪霊ども、すなわち、神ならぬ者に供えるのである。わたしは、あなたがたが悪霊の仲間になることを望まない。

10:21 主の杯と悪霊どもの杯とを、同時に飲むことはできない。主の食卓と悪霊どもの食卓とに、同時にあずかることはできない。

10:22 それとも、わたしたちは主のねたみを起そうとするのか。わたしたちは、主よりも強いのだろうか。

<主に属する人は、同時に別物に交わる様なことがあってはならないと言う警告です。>

10:23 すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが

益になるわけではない。すべてのことは許されている。

しかし、すべてのことが人の徳を高めるのではない。

<この様な箇所を読んで、モーセの五書=トラー=以前の教えが

廃れたと解説する異邦人がいますが、全ての事の中に、

ラー=悪=神の意図からずれた生き方、行動、聖別を破る事

全てが含まれているのだ!などと考えていれば、神の教えなど

全然見えなくなって行きます。なんでもかんでも今は許されている!道徳以外の全ても今は自由になったのだと言う異邦人宗教

神学の教えの問題は、神が権威ではなく、自分の悟り、判断

の自分中心、自分教=自分の考えが自分の生き方、信仰の中心となってしまうと言う事だからです。神が神の教えではなく、今は

あなたの判断で全て選びなさい!好きな所だけ取り出して、自分が不必要と思う神の言葉は捨てて良いよ!などといつどこで神がそんな事を人に伝えていますか?一体聖書のどこにそんな事が

書いてあるのですか?書いてもない事を人が言い続けて、

あたかも神が言ったのだと勘違いさせる別の顔を蔓延させて、

1900年近く経ってしまったのです。

 

 

 

続く