神が創造された週一度の記念日 シャバット | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

神は全ての創造を第1日から第6日目にした、だから第七日目に

止まり、神が止まられた様に神に造られた人も第7日目に止まる

それが神が聖別した日=神が目的意図を持って分かたれた日、

普通の日とは違う区別した神の特別な日であると神が人に伝えている日です。

人は夜寝て朝起きる。なぜ?神が人をその様に創造されたから

それが神に造られた人間の性質、構造だから、自然にそうなる。

 

1日の時と同様、神の全ての時と創造物は神が造られて、人は1〜6日の間働いて労働し、第七日目に止まり、神と人とその日を祝う!それが神が造られた人の性質、成り立ちであると神が

伝えているのです。しかも動物まで止まる。

 

神が人に伝える全ては、神の創造の性質、神は人をどの様に造られ、神に造られた人のエッセンスは、神の意図、創造のデザイン

通りを生きる!それが聖書に書かれた全てなのです。

 

一番よく分かるのはパソコンなどの複雑な機能がたくさん付いた製品。製造会社はその機会の使用方法を詳しく説明しています。その人が製作した内容を使用者に全部伝えるために、マニュアル=使用説明書があるのです。

製造した人だけが知るその機会の性質、使用方法の詳細が書かれて、様々な機能、使い方を解説してくれています。電源付けて、ある程度の知ってる機能は使いこなせますが、その他に様々な

アプリの使い方、パワーポイントや、エクセルなど学ばないと

使いこなせないですよね。

 

神の言葉もそれと同じです。神が創造された人は、神の性質通りに造られたとあります。神の性質に造られた人達は素晴らしく

麗しく、高性能に出来ていて、神の性質そのものを生きられる

すごい存在なのです。その人達の生きる詳細、生きる全てを

いくつかの教えや内容だけでは、簡単に端折って説明など出来ません。神の性質をそんな簡単に人に伝えられないでしょう。

その内容が素晴らしく細部に渡り完璧に神の似姿なので、神は

神の性質に造られた人の全ての、どの様に生きるのか、神との関係、人との関係、人と人とどう関係を持ち生きるのか、様々な

詳細を伝えないと見えてこないのです。

 

その神のインストラクション、教え=トラーをないがしろにしたら、何を神が人に伝えているのか、本当には見えてこない。

自己流の生き方に留まってしまうのです。

しかも永遠をかけて創造主=イスラエルの神を知り、関係を持つのに、どうしてそんないくつかの教えだけで、今は事足りるなどと考えるのか、その方が不思議な事なのです。

 

金曜日になると自然に体は止まるモード、休みモードを感じますよね。感じませんか?そろそろ止まりたいモード。

でもその日がシャバットを迎える日であると言う事を多くの人は全く気が付かないです。神の言葉に目覚めた状態=神の言葉に

注意を払いながら生きてはいないからです。でもなんとなく

人と集まり楽しい時間を過ごしたい!となるのです。

もし家庭で、家族、仲間とその様な時を過ごす、楽しい時を過ごす体験をしている人たちは、シャバットがとても楽しみ!と

なるのです。イスラエルで、以前に友人の家でシャバットを祝った時に、友人が”OOちゃんはシャバットが大好きでずっと楽しみ

にしているのよ。”と言いました。生まれた時から家族で仲間で

その様な中で自然とイエシュアに出会う幸いは大きな祝福だと思います。

普通の人でも疲れたから休もう!花金楽しみ〜と、その日仕事帰りに仲間と食事して楽しみたいと言う感じになりませんか?

仕事頑張ったし、色々な仕事や心配から解放されてみんなで楽しみたい。次の日休みだし。

でも人は神に6日の間働いて、7日目に止まる、その様に生きる様に造られている事実に全く気が付いていないだけなのです。

イスラエルの神、イエシュアを信じていても信じていなくても、同じ人間であり、同じ神に創造された人の本来の構造、性質は変わらないのです。

 

クリスチャンの中でも日曜日礼拝は大事ですよね。それはどう

言う理由であると考えていますか?仲間と会い、聖書の神の言葉を聞いて、互いに励まし合いたい、フェローシップで力を得たい

楽しみたい。それが神に造られた人のエッセンスだからです。

 

でも週一度の記念日は神はいつだと言っていますか?神が日曜日礼拝を聖別して礼拝せよといつ言いましたか?私はジーザスが

日曜日に昇天したから、昇天以降はその日が安息日になって今は日曜日が安息日であると聖書に記されていない教えを例にもれず教えられてしまい、そうなのか〜と腑に落ちないままなんとなく納得させられたものです。そして周りがそう教えその日が安息日であると実践しているので、それ以降全く疑問に持たなくなったのです。安息日とはシャバット=止まると言う性質の日。

異教の地に住む、トラーを知らない人達から、西洋宗教の教えだけを聞かされた結末が私にも降りかかったと言う事です。イエシュアがいつ昇天したのか誰も知らない、不明です。聖書に記述もないのです。もし金曜日の日没前に昇天されたとしたならば、

昇天した日が土曜日=グレゴリオ歴の土曜日である可能性は大です。でも昇天した日とシャバットは全く関係が無いものなのです。

イエシュアが何曜日に昇天しようとも、神の記念日は永遠に変更にはならないからです神の性質と神の言葉は永遠不変という

性質があるからです。シャバット=神が6日の間全ての業を終え

第7日目に止まった=シャバット=理由が違うのです。

そして、第7日目を指して初めて性別と言う言葉を使った。聖別の定義は永遠に変更になりません。だから勝手に人が神の教えを

変えたら=別の顔を神の顔=神の教えの上に置いたら、神に何を教えられているのか不明になってしまうのです。

 

日曜日が聖日と考えているのは、神がその日を聖別し特別な集まりをしなさいと言う神の言葉が昇天以降あったのだ、又は聖書には書いてないけど、神がその日に変更せよ、そう促されている、神がそう言ってはいないけれど、肌感覚で感じたからそうであると、ある人の発言と同じ性質の事を信じているからですよね。

 

でも聖書にはなんと書いてありますか?聖書の言う通り!

But the Bible says とビリーグラハムも言ったのに聖書が伝える事とは違うことを実際に信じているのです。人が聖別、主日と考えても、神が指定した定めの日は神の前には主日=聖別シャバットではないのです。

聖書には、安息日=シャバット=止まる日は、日曜日では

無い!神の週一度のシャバットは第七日目であるとはっきり書かれているのです。永遠不変に代々祝われる神の子らに与えた印

であると書かれています。しかも福音書以降もイエシュア、弟子たち、パウロ、1世紀の全ての人は第七日目がシャバットであると皆知って第七日目を止まり祝ったのです。昇天以降もずっと

第7日目を祝い、神の都上りの祭り、春と秋の祭りを祝い続けた

記録しか聖書には無いのです。過越を祝うと書かれていたら、

それはシャバット、新月、春の4つの祭、秋の3つの祭を全て祝っていたと言う意味です。なぜなら神の記念日はある1つだけ取り出して祝うと言う様な、人が考える、やっている祝い方では

無いデザイン性質だからです。交響曲と同じ、全楽章で1つの作品なのです。ある楽章のある箇所数小節だけ演奏してもその曲の全貌は理解出来ません。神の記念日の全てを祝う、イエシュアの業、地上での預言的祝いは全部丸ごと祝わないと意味が見えないからです。それが丸ごと1体、シャローム、神の性質だからです。日本人なら、元旦を祝う、イコール大晦日、三が日も祝うと言うのは説明しなくても理解しているでしょう。それと同じ事です。

聖書、神の教えを生きる人には、シャバットを祝うと書いてあったらレビ記23章の全ての記念日を祝うと言う事を知っている、実践しているそれが誰でも知る知識、理解、常識、真実なのです。

聖書に登場する人、聖書記者達は100%全て誰もシャバットが日曜日に変更されたなどと教えないし、全く考え実践の中にも無い、そして日曜日礼拝やクリスマス、イースターの記念日、それらを祝った記録など聖書には1度も書かれていませんし、聖書の中の人達は誰も4世紀以降出現したローマ教=西洋宗教の教えなど知らないのです。

そして、神が代々永遠に祝われる神の定めの日の記念日、祭りと言い、それらがいつであるのかはっきり神の口から直接モーセを

通して人に伝えているのです。神の言葉を神が伝えた通り聞くのか、神の言われたことは遠い昔の古い教えと信じて無視するのか?その意識、固定概念、偏見で神の言葉を曲げて考えるのか?

カトリックの司教がカトリックがシャバットを日曜日に変更した!とも白状して言っています。カトリックの質疑応答の書にもそれらが記されているのです。

それなのに、どうして神が神の教えや記念日を変更したと言う

虚偽=別の顔を世界へ伝え続けているのでしょう?

それこそが別の顔、みだりに神の名を唱える=虚偽の教えを伝え

生きるなかれ!と言う警告を全く無視した行動であるのです。

 

聖書に神の教えや神の定めの日が変更になったなどと神が人に

伝えたと言う記録は全く書いていないのに、あたかも神が人に

そう伝えたの如く信じられ語られてしまっていることが重大問題

なのです。神の顔の上に別の顔を置いて神の語った事実を虚しいもの、空、実体の無い架空、虚偽を伝えるなかれ、生きるなかれ

をしてしまっているのです。

この様な件に関しては、こう言い換えたら良いと思います。神の創造された正真正銘の生粋で不変の週一度の記念日、神の子らに与えられた印である聖別されたシャバットは第七日目と聖書には神の言葉でそう記載されていますが、西洋宗教の教えで2世紀以降、異邦人は神の仰せとは違う教えや記念日を創作し、それらを生きる様になったので、2世紀以降ずっと異邦人の宗教の世界では神のオリジナルの記念日を祝うことをやめて、人の創作した記念日を実践していますと。

それらは神の言葉によれば、神が伝える神のシャバット=聖別された日ではありませんが、異邦人クリスチャンは西洋宗教の教えだけを教えられて、その教えを伝統で継承し実践しているので、それら西洋宗教の記念日を聖日、主日などと言っているだけです!と言うべきなのです。間違っても神の言葉を曲げて、神が

そう言ったなどと言ってはならないのです。聖書に記載されている主の日とは異邦人クリスチャンの世界で語る、日曜日ではないからです。神はそんな事言う偽りの神であるなどと神を嘘つきで

あると言ってはならないからです。嘘つき、偽り〜永遠不変と

言いながら結局歴史の途中で神の言葉を変えるなら嘘つきです。

聖書の主の日、レビ記23章に記された主が伝える記念日、

もしくは、主が特別な業を地上でされる期間の事を指して聖書では記されているからです。そして地上で特別な業をされた時は

様々ありますが、春と秋の記念日はぴったりそれに当たります。

預言的祭だからです。主の日。

その聖書に対する事実、歴史の中で誰がいつ神の言葉に手を付けて変更したのかと言う事実に対して全く認識が無いと言う事が

問題なのです。週のどの日に集まろうと、フェローシップは自由です。

でも週の第7日目以外を安息日とか聖日とは聖書では呼ばないと言う事実があるのです。誰かが唱える様に昇天以降はどの日も安息日などと言うなら労働日がなくなり全部止まる日になってしまいます。

それ以外の日は神が聖別した日ではない、”人の定めた人間定義の聖日”と言う事です。

神が定めた日では無いのに、あたかもそれらが神の定めた聖別された日であると言い続け、神が伝えていない事を神が伝えた事実であると信じて世界へ伝えることが問題なのです。

神が伝える事実では無い虚実を伝え続けても全くその事に気が付かない、聖書には何と書いてあるのかきちんと確認、事実を把握しないまま、伝統の教え=別の顔を聞いて、神の本当の顔を覆い隠されたまま確認しない。だから別の顔をどかして本物の顔=神の言葉を書いてある通りに見る必要があるのです。

 

私も同様にある時まで神の言葉は変わった、以前の記念日も終了して今や日曜礼拝、クリスマス、イースターそう考えていたのです。

本当の所神の記念日が何なのか、聖書に書いてあってもそれらが

何なのかも全く知らない、分からないままでした。過越、除酵際とか仮庵とか書いてあっても全然意識に響かないまま、さらっと素通りして読んでました。本のタイトルとその著者を知っていても中身に何が書かれているのか、読んだ事ないので、分からないと言うのと同じ状態。テストのために暗記するだけみたいな感じです。

イエシュアがされた大事な出来事が神の祭りの中で行われていたなんて言う事を聖書の記述からは全く読み取れませんでした。

 

 

 

続く