聖書には同じ内容教えの記事が並行に繰り返し語られている アヴラハム 贖われた全ての神 出エジプト | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

1年のサイクルの中で、神の言葉を聞き理解し神の教えに根付いて実際に生きるなら、神の性質に造られた人の生き方とは違う
ズレが何かはっきり分かる様になると主は教えています。
そして神の言葉に照らし合わせて軌道修正をし続ければ、
新しい人としての生き方に熟練して成人として成長して行く、
単純な事実が聖書には記されています。
 
新しくされた人=イエシュアの性質を再所有取り戻されたのに、その事実を実際に生きて学習し続けないのなら、救われても何も変わらないのは必然の結果です。画餅を眺めるだけで、自分の中に取り入れないなら血となり肉とならないからです。

 

ヤコブ1:22 そして、御言を行う人になりなさい。

み言葉=トラー=神の教え、インストラクション=モーセの

五書に書かれた父の教え=言葉の事です。それ以外聖書でみ言葉と言う言葉の定義は無い、トラー以外のイスラエルの神の教えなどこの世に神の中に存在しないからです。

おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。

1:23 おおよそ御言=神の教え=トラーを聞くだけで行わない人は、ちょうど、自分の生れつきの顔を鏡=神の教え=トラー

映して見る人のようである。

1:24 彼は自分を映して見てそこから=トラー=神の教え、インストラクション立ち去ると、そのとたんに自分の姿がどんなであったかを忘れてしまう。

1:25 これに反して、完全な自由のトラー=神の教え言葉を一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。

こういう人は、その行いによって祝福される。

 

救われても変化しない原因=神の性質=神の言葉で教えられている事実を実際に生きて実践していないと言う事が本当の原因で

ある事は明らかです。

だから神の言葉に根付き生きると言う事が無いならば、救われる以前と以降とで、大した変化も無いまま、救われても結局何も

変化がないのだとか、聖霊が足りないとか、その現実にがっかり失望し、所詮こんなもんさと諦め生きてしまうのです。

神の教えを聞いて実際に生きるこの二つは1体なのです。

でも何が原因なのか、はっきり知れば突破口が見つかります。
イエシュア=生ける水の辺りに植わるとは、神の言葉に根付き、
神の言う通りに生きたら時が来れば実がなる。時=神の定めの時
季節=モアデイムごとに豊かな実を実らせるとあるのです。
木の年輪でも表されている様に水を多く吸った年の年輪は太い
のです。それと同様しっかり神の言葉からぶれずに生きる=これが神に目を留め続けて生きると言う意味です。そして日々たゆまず神の声の中、声の下に居て、神の声=聖書に書かれた神の教えを理解して生きるなら、その人は神の性質を再所有する成長を成し遂げて成人になって行くとあります。
神の言葉を信じるか信じないか?です。
 
シャバットからシャバット、新月から新月、祭りから祭りへ
特に祭りから祭りの間には、自分の中にある1つの大きなズレを
神にはっきりと教えられます。それは色々な事に繋がっていますが、神は今現在の段階でその個人が対応出来ない、手に負えない状態のものを持ち出しては来ません。どう言う事かと言うと、
自分の中にある問題=隠れた問題ですが、今これに向き合わせたらその人は対処出来ず潰れてしまうだろうと言うことに関してはいきなり持ち出されないものです。徐々に問題の根が自分の意識に上る、これマズイからなんとかしなくてはと言う自覚がその人の中に生まれると言う段階を経るものだからです。
でも自覚出来ている事、意識に上る事は、その問題に対処する力が今備わっている状態に到達した時期であると言う事です。
その様な自分の中にある問題を教えられ、直面させられるのですだから気が付いたら逃げてはダメ!と言う事なんです。
 
逃げてもまた繰り返し他の事件を通してその同じ問題の根が浮き彫りになり、逃れらない。それがあるから今を自分を生きれないと言う大問題を乗り越えられなくなるからです。
 
面白いことに神の定めの時の中を神の教えに注意を払いながら
生きると、日々起きる事件、人間関係など、それらは全て偶然
ではなく、神のプランの中で起きている、自分が何かに気が付くため、自分が又は家族の誰かが変化するために置かれている課題であるので神の主権を認める事が出来ます。そしてそれらを通して自分がどう反応し、どう対処するのか、それらを探られる、
学習、実習に成長の時と変化するのです。神に迫られる、対峙されると言う事を誰でも体験しているはずです。
 
これらの歩み、地上の人生での訓練はシャバットからシャバット
新月から新月、祭りから祭り、神の暦の中でイエシュアのされた
業を生きて学ぶ中で、色々な事を教えられて行くものなのです。
 
大贖罪日までに10の言葉を読んで軌道修正する日々でしたが
記事に書き終えられなかった内容の続きを書いてみます。
そして神の教え=父の教え=シナイ山で文字として与えられた
永遠普遍の神の言葉=教え=トラーです。
神の教えでトラーとは異なる別の教えはこの世に、神の中に存在しません。
神の教えが途中で変わると言う聖書の中に書かれた内容を読み違え誤解している人間の発想、思想=別の顔を神の顔=神が伝える言葉の上に置いてしまうなら、神の警告した別の顔=を伏し拝む事になってしまいます。
 
聖書に書いてある言葉、コンセプトは創世記から黙示録に至る
まで意味は変化しません。次の言葉も同じく変化しません。
神の言葉は完全、神に変化はないと神が言われたらその通り、
永遠不変の神の言葉と言われたらそれ以外のコンセプトはイスラエルの神が伝えている真実ではないのです。
 
神の言葉は最初から最後まで丸ごと1つで繋がっているので、
1つ1つのピースを取り出して行きつ戻りつ考えてみたいと
思います。そして様々な出来事は並行していて同じ意味で繋がっている事にも気が付くのです。
 
ヨセフの家族全員は、先にエジプトに居たヨセフの元へ飢饉のため移住し、エジプトで安全に守られていました。でもヨセフが
亡くなった後、ヨセフを知らない人達でエジプトは治められ、
ユダヤ人は過酷な労働休みなく働く事を強いられ異教の神々の教え、異教文化の価値観、偽の自己像、偽の王、偽の神々=主人に仕えて生きる事に留まってしまったのです。
飢饉が終わったら早くイスラエルに戻るべきだったのです。
そしてヨセフの家族の子孫と少数の異邦人がエジプトを脱出するずっと以前、アヴラハム=全世界の民族の父となった記録が聖書に記されています。
世界へ同じ神の祝福を与える代表として選ばれた人は、異教の神々の地に生きて、父親は同じく異教の神々=偶像礼拝にどっぷり浸かって居たテラと言う人でした。
エジプト=狭い、辛い、苦しい、束縛、悲しい=同じ環境です。
本物の創造主に繋がらない、神の似姿に造られた自分の自己像が
分からず、自分の手で刻んだ像=偽の神を拝み仕える奴隷。
エジプトでの生き方と全く同じ性質が書かれています。
性質が同じ、並行している内容です。
エジプトに居たイスラエルと、異教の神々の地に居たテラの家族の生き方。それらは贖われ救われる以前の一人一人と全く同じ
内容、性質、環境を表しているものです。
 
アヴラハムはその異教の神々の地、メソポタミア、ウルの地で
いきなり神に語られて神の声を聞いて応答し、ウルから神が伝えたその通りに即座に脱出しました。聖書には書いてはないけれど、当時アヴラムと言う名であった時、イスラエルの神に対しての思いが何もないゼロ状態の時に突然語られても本物の神に語られているなどとは分からないはずです。書いてはないけれど、
アヴラムの中に既に神の声=言葉に応答する準備が彼の頭脳の中に整っていた事は疑いの余地がありません。

エデン=喜び=神の中に神とそしてお互いと一体として生きる様に造られた最初の夫婦が、神の言葉ではない別の声に耳を傾け、神とぴったり1つであった、神の目から見る通り全て見ていた

その場所実態からずれて、エデン=喜びの園=神の中に存在して居た内側から神の外側に飛び出してしまった。神との隔たりの

場所の中に入り込んでしまった。神の似姿で構成される1つ家族がずっと増え広がり地を満たすはずだったのが、分裂し、神の

外側の中に飛び出した、その場所から元に戻る!それには、飛び出した場所=神の声を聞けない、別の神々の教えが蔓延する場所を先ず完全に出る!と言う事で表されています。それは出エジプトしたイスラエルと少数の異邦人が体験した事と全く同じ性質=並行した内容が記されているのです。

アヴラムが神に呼び出された事と並行し”出エジプト”と全く同じく、救われた人は全てイエシュアに出会う前は、聖書に記された

アヴラハムやエジプトに居たイスラエルと少数の異邦人と同じ

環境に居たのです。

ヤコブはイスラエルと言う新しい名前が与えられ、その”イスラエル”と言う名で生きる国民を選び出し、エデン=元の場所に戻るプランがあるのです。

だから祭りでも分かる様に1つ神に、1つ場所に、1つの大家族が引き寄せられ神の中に集められる!絵画的教えです。

それが都上り=神の定めの日の祭りで表され教えられている内容なのです。

イエシュアの業を通してそれを可能にしている=永遠の中、

この世の礎が造られる前から既に用意されていた壮大な贖い救いの業、プラン。

西洋哲学思想=異邦人思考回路は、物事の全てをこの世の時間の

時系列上にしか見ていません。神が語る事実は、永遠の中に既に

完結=完了された業、永遠の中に存在している贖い救いの業、誰でも、人種にかかわらず、時代に関わらず、時空に阻まれず

イエシュアを通して新しい命を得る事が出来る。新しく生まれ

変わる=元の神の似姿の自分を取り戻して生きれる。それは神が伝える事を信じて受け取ると言う事によるだけなのです。

 

その様な事実を聖書は語っているのです。だから、イエシュアが

昇天するその時まで救いが無かった、聖霊が人の内側に住まわなかった、直接神と繋がれない、神から語りかけられない、神に

話す祈る事など無いなどと言う思想は、聖書を読めば全く違う事が明らかです。

どうしてハンナの様な一般人がイスラエルの神に直接祈り自分の悩みを話しているのですか?ダビデはイスラエルの王と言う特別な立場でありましたが、一人の人間としては神の前に同じ個人、ただの被造物です。ダビデとハンナ、又はルツと同じ人間として何の違い、差はありません。地上での立場、性別、生まれた環境や人種、どんな家族に生まれたのかが違うだけです。ダビデも

イエシュアの救い、贖いの事実、罪の赦し、新しくされる事、

そして聖霊が内側に宿り神の中に取り戻され神と繋がっている事を詩篇の中に様々な出来事、言葉、祈り賛美で赤裸々に語っています。

どの時代もどの人種も神が伝える神の言葉の事実を知り、理解し

ていたのか、いないのかだけの違いなのです。今も同じです。

聖書は誰でも読む事が出来ますがその中に書かれた内容を正しく

理解して把握して生きているのか、いないのか、それは、

個人個人の問題です。

そして、今は聖書があり情報が開かれているから誰でも救い主が

分かるはずなのに事実は違います。全ての人がイスラエルの神の教えを理解して聖霊を受けて生きているのでは無い事からも

分かると思います。個人が神の前に目が開かれて神の伝える事実を知っているのか、それとも神が伝える事とは違う教え=別の顔

をイスラエルの神の顔=教えだと誤解しているのかの違いがあるだけです。でも神の中の真実、事実は、救い贖いはどの時代もどの人種に対しても同じ、聖霊=神=イエシュアは1つで同じ。

人間の側で神の教えを様々に変形させているだけなのです。

どの時代もどの人種に対しても神の教えや福音=贖いの業は同じ。もし神の救いや神の言葉が時代により人種により変化すると言うならその教えは、人種や時代によりその人の中に入ると神が様々な別物に変身すると言っている事なのです。そんなトランスファーマーの映画みたいに自由自在に姿形中身要素を変身させるなんて言う教えは、ファンタジーの世界の作り話と同じです。

ヘブル書やガラテヤ、ローマetcパウロの書簡を完全読み違え、

パウロの記述の意図とは異なる誤解の解説ばかり聞いているので、聖書に何が書かれているのかの事実を聞けないから、モーセの五書は終了した!などと信じているのだと思います。

それなら聖書を読む意味はなくなるのです。

なぜなら聖書のどの箇所も100%モーセの五書以外記されていないからです。人間の判断で神の言葉のこれは無用、あれは必要

などと判定せよ!などといつイスラエルの神は人に伝えてますか?人間が勝手にやっているだけなのです。

福音書以降も全ての引用はトラー=モーセの五書、その解説の

預言書、諸書のみ、別の新しい教えや、モーセの五書を否定した

教えなど聖書記者は誰一人記していません。そう信じるのは

異邦人が創作した誤解の解説、コメンタリーの書や教えだけを

聞いてるからです。それなら詩篇も箴言も全部呪いの廃れた律法であると言う事になってしまうので読む意味はありませんと言っている事に気が付かないとならないのです。創世記から黙示録は

100%モーセの五書=トラー=純粋な父の教えのみが記されている書だからです。

 

続く