ヤコブ1:22 そして、御言を行う人になりなさい。
<み言葉=トラー=神の教え、インストラクション=モーセの
五書に書かれた父の教え=言葉の事です。それ以外聖書でみ言葉と言う言葉の定義は無い、トラー以外のイスラエルの神の教えなどこの世に神の中に存在しないからです。>
おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。
1:23 おおよそ御言=神の教え=トラーを聞くだけで行わない人は、ちょうど、自分の生れつきの顔を鏡=神の教え=トラーに
映して見る人のようである。
1:24 彼は自分を映して見てそこから=トラー=神の教え、インストラクション立ち去ると、そのとたんに自分の姿がどんなであったかを忘れてしまう。
1:25 これに反して、完全な自由のトラー=神の教え言葉を一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。
こういう人は、その行いによって祝福される。
救われても変化しない原因=神の性質=神の言葉で教えられている事実を実際に生きて実践していないと言う事が本当の原因で
ある事は明らかです。
だから神の言葉に根付き生きると言う事が無いならば、救われる以前と以降とで、大した変化も無いまま、救われても結局何も
変化がないのだとか、聖霊が足りないとか、その現実にがっかり失望し、所詮こんなもんさと諦め生きてしまうのです。
神の教えを聞いて実際に生きるこの二つは1体なのです。
エデン=喜び=神の中に神とそしてお互いと一体として生きる様に造られた最初の夫婦が、神の言葉ではない別の声に耳を傾け、神とぴったり1つであった、神の目から見る通り全て見ていた
その場所実態からずれて、エデン=喜びの園=神の中に存在して居た内側から神の外側に飛び出してしまった。神との隔たりの
場所の中に入り込んでしまった。神の似姿で構成される1つ家族がずっと増え広がり地を満たすはずだったのが、分裂し、神の
外側の中に飛び出した、その場所から元に戻る!それには、飛び出した場所=神の声を聞けない、別の神々の教えが蔓延する場所を先ず完全に出る!と言う事で表されています。それは出エジプトしたイスラエルと少数の異邦人が体験した事と全く同じ性質=並行した内容が記されているのです。
アヴラムが神に呼び出された事と並行し”出エジプト”と全く同じく、救われた人は全てイエシュアに出会う前は、聖書に記された
アヴラハムやエジプトに居たイスラエルと少数の異邦人と同じ
環境に居たのです。
ヤコブはイスラエルと言う新しい名前が与えられ、その”イスラエル”と言う名で生きる国民を選び出し、エデン=元の場所に戻るプランがあるのです。
だから祭りでも分かる様に1つ神に、1つ場所に、1つの大家族が引き寄せられ神の中に集められる!絵画的教えです。
それが都上り=神の定めの日の祭りで表され教えられている内容なのです。
イエシュアの業を通してそれを可能にしている=永遠の中、
この世の礎が造られる前から既に用意されていた壮大な贖い救いの業、プラン。
西洋哲学思想=異邦人思考回路は、物事の全てをこの世の時間の
時系列上にしか見ていません。神が語る事実は、永遠の中に既に
完結=完了された業、永遠の中に存在している贖い救いの業、誰でも、人種にかかわらず、時代に関わらず、時空に阻まれず
イエシュアを通して新しい命を得る事が出来る。新しく生まれ
変わる=元の神の似姿の自分を取り戻して生きれる。それは神が伝える事を信じて受け取ると言う事によるだけなのです。
その様な事実を聖書は語っているのです。だから、イエシュアが
昇天するその時まで救いが無かった、聖霊が人の内側に住まわなかった、直接神と繋がれない、神から語りかけられない、神に
話す祈る事など無いなどと言う思想は、聖書を読めば全く違う事が明らかです。
どうしてハンナの様な一般人がイスラエルの神に直接祈り自分の悩みを話しているのですか?ダビデはイスラエルの王と言う特別な立場でありましたが、一人の人間としては神の前に同じ個人、ただの被造物です。ダビデとハンナ、又はルツと同じ人間として何の違い、差はありません。地上での立場、性別、生まれた環境や人種、どんな家族に生まれたのかが違うだけです。ダビデも
イエシュアの救い、贖いの事実、罪の赦し、新しくされる事、
そして聖霊が内側に宿り神の中に取り戻され神と繋がっている事を詩篇の中に様々な出来事、言葉、祈り賛美で赤裸々に語っています。
どの時代もどの人種も神が伝える神の言葉の事実を知り、理解し
ていたのか、いないのかだけの違いなのです。今も同じです。
聖書は誰でも読む事が出来ますがその中に書かれた内容を正しく
理解して把握して生きているのか、いないのか、それは、
個人個人の問題です。
そして、今は聖書があり情報が開かれているから誰でも救い主が
分かるはずなのに事実は違います。全ての人がイスラエルの神の教えを理解して聖霊を受けて生きているのでは無い事からも
分かると思います。個人が神の前に目が開かれて神の伝える事実を知っているのか、それとも神が伝える事とは違う教え=別の顔
をイスラエルの神の顔=教えだと誤解しているのかの違いがあるだけです。でも神の中の真実、事実は、救い贖いはどの時代もどの人種に対しても同じ、聖霊=神=イエシュアは1つで同じ。
人間の側で神の教えを様々に変形させているだけなのです。
どの時代もどの人種に対しても神の教えや福音=贖いの業は同じ。もし神の救いや神の言葉が時代により人種により変化すると言うならその教えは、人種や時代によりその人の中に入ると神が様々な別物に変身すると言っている事なのです。そんなトランスファーマーの映画みたいに自由自在に姿形中身要素を変身させるなんて言う教えは、ファンタジーの世界の作り話と同じです。
ヘブル書やガラテヤ、ローマetcパウロの書簡を完全読み違え、
パウロの記述の意図とは異なる誤解の解説ばかり聞いているので、聖書に何が書かれているのかの事実を聞けないから、モーセの五書は終了した!などと信じているのだと思います。
それなら聖書を読む意味はなくなるのです。
なぜなら聖書のどの箇所も100%モーセの五書以外記されていないからです。人間の判断で神の言葉のこれは無用、あれは必要
などと判定せよ!などといつイスラエルの神は人に伝えてますか?人間が勝手にやっているだけなのです。
福音書以降も全ての引用はトラー=モーセの五書、その解説の
預言書、諸書のみ、別の新しい教えや、モーセの五書を否定した
教えなど聖書記者は誰一人記していません。そう信じるのは
異邦人が創作した誤解の解説、コメンタリーの書や教えだけを
聞いてるからです。それなら詩篇も箴言も全部呪いの廃れた律法であると言う事になってしまうので読む意味はありませんと言っている事に気が付かないとならないのです。創世記から黙示録は
100%モーセの五書=トラー=純粋な父の教えのみが記されている書だからです。
続く